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2009年 11月 12日
ヴェネチアという水上の夢のような古都にて現代と近代の新旧のアート・パトロンの典型とも言える二人のコレクションを収めた美術館がほぼ並立している。 アカデミア美術館からさらに歩いて行った大運河沿いに昔の栄光を讃えながらも静かに佇むペギー・グッゲンハイム美術館。建物も蔦がからまり、個人邸宅をそのまま美術館にしているので空間も人間レベル。人が多いと作品を拝めるのがやや窮屈なぐらいであるものの、その秀逸な近代絵画のコレクションは真に宝物である。同じ作家でもその選ばれた作品の質は絶品である。あまり好きな作家ではなかったホアン・ミロの作品がこんなにも魅力があったのかと驚く。ジャコメッティの初期の美しいトルソ。永遠の美の姿。ここに収まっているピカソもベーコンも素晴らしい。 彼女が初めて世に認めたとも言えるジャクソン・ポロック。そして一時彼女の夫であったマックス・エルンストの作品も逸脱している。まだまだ挙げたらきりがない。 ![]() 50年代の力と夢ありのアメリカのゴールデンエージを飾る人物と言えるペギ−・グッゲンハイム。その時代のヨーロッパと関係を持つアメリカの文化人の典型である彼女は自身もジュエリーをデザインしたりアーティストとしての感受性を持ちながら何と言っても資産家であるグッゲンハイム家の経済力を駆使して当時の売れない作家をサポートするのである。 真の意味での趣味人であり、エクセントリックな洒落者、決して美人でもないのに人を惹き付ける人間的魅力。50年代の良き時代の文化人の象徴とも言える。 要するにお金があり、それを芸術と文化のために有効に使った昔ながらのアート・パトロンである。 さてこの趣味の良い輝く宝石のような美術館を後に運河沿いに歩くと現れるのが、大運河とジュデッカ運河を分ける三角州の突端につい開館したばかりの美術館がPunta della Doganaである。文字通り「税関の先端」。もともと海運で栄えたベネチアの港通関所であった17世紀の建物であるが、安藤忠雄の設計にて美術館として今年のべネチア・ビエンナーレに合わせて6月に開館した。収められたいるのはフランスの企業家の大富豪(グッチグループやナイケその他有数ブランドなど持つ)フランソワ・ピノーのコレクション。建物は昔の面影を残す船着き場の巨大な空間であり、ただただその空間の広大さと 船に関わるベネチアの歴史の偉大をまず感じさせる。空間自体が歴史という力に支えられている。 ところでそこからが問題である。現在開催中のコレクション展。Mapping the Studio。 ![]() ピノーに選ばれることによってどれだけの恩恵を被るかは想像できる。例えばオークションに出した場合に価格が保証されるとか、要するに経済的な部分では作家は潤うのであろう。しかし! なんという趣味の悪さ。Gaudyと英語の形容詞がぴったりのけばけば、派手はでしい、グロテスク、成金趣味、大きいだけが取り柄、こけおどかし、話題性、金に飽かす、、、。とにかく通常ましな作家までこのコレクションに入っている作品は趣味が悪い。はっきり言ってまともな作家であれば彼のコレクションに入ったら格が下がるような気がするのでは?! ここに入ったら作家としての墓穴を掘ったと言うしかない。 いったいこのピノーという人物、チャールズ・サーチとともに現在のアート界を悪くしている張本人の一人であろう。 ペギー・グッゲンハイムという自身の美学を信じて秀逸な作品を集めていった前者の古く良きコレクターと比べて、金にあかして自身の富をさらに増やすために美術館を作っているようなこのピノーという成金コレクターのなんと限りなく現代的なことか? すっかり憂鬱になってしまう美術館であった。しかしその反面、こんなに悲惨にアート界状況、 真剣な作家の生きる余地があるというものだ。 さらに輪をかけて悲劇的なことに、このピノーがヴェネチアにて以前から優れた展覧会の企画で有名な18世紀の屋敷空間、Palazzo Grassiの持ち主となり、この趣味のよかった展覧会会場が新たなる成金趣味の殿堂と成りかわってしまったことだ。ここの内装建築設計も安藤忠雄、この常にワンパターンな空間形成、なんとかしてほしい。18世紀の技巧を生かした装飾天井もすべて白壁白天井に被い尽くしてつまらないホワイト・キューブになってしまった。 皮肉にもこの展覧会場の元のパトロンはイタリアの昔ながらの文化人の今は亡きフィアット会長のジャンニ・アネッリであったのである。ここも、世代交代、新旧入れ替わり、美が醜に制覇された結果と言えよう。 最後にアレと訪れた「バルテュス」の展覧会を思い出し、強者どもの夢の跡、これからそんなに長くは続くまい、と最確信した。 2009年 11月 02日
10月25日よりフィレンツェの花の大聖堂、Duomoの付近から車の 通行禁止となった。バスもタクシーも通らない。文字通りの歩行者天国。 いったい今まで何故に実施していなかったか不思議なくらいである。 フィレンツェという我が若き日の憧れのルネッサンスの都に初めて訪れた 1980年。駅から都の心臓とも言える大聖堂に向けて歩く通りに車 が走り、おちおち歩けない感じがその当時でもどれほど幻滅を誘ったか。 車のクラクソンや雑踏に混じってその壮大な大聖堂の存在する損ねて いるかに思えたものである。すでに30年近く経つ今となっては観光客 の数は数倍であろうし、バスとタクシーの列を背後にした大聖堂は その美しい姿を十分味わうことが不可能なほどであった。 今年新しく就任した30代前半の若いフィレンツェ市長がまず行った 革命的改革は大聖堂付近の交通閉鎖である。 良くやったと言うしかない。そのかわりバスやタクシーは別の通りに迂回して 駅まで到達する。昨日車で走った限り日曜日ということもあるが、 別段の支障はないようである。 車の不在の大聖堂。フィレンツェ人であるアレすら未だ経験したことのない 新体験である。 その代わりに観光客の数が倍増なんてことにならないことを願う。 Duomo Libero, viva Firenze! ![]() 2009年 10月 26日
この数日の旅を通して目から鱗が落ちた気分である。 もやもやとしたこの数週間の迷い、混沌の霧が突然と晴れたようである。 美術とはなんであるか、一体今の美術界がなんであるか、そしてそれが どれほどの意味を持つのか、様々な疑惑や不信感、弱みに押しつぶされそうに なっていた日々に終止符を打つかのように、突然やはり信じることへの 確信と自信が再度血の中に脈打つエネルギーとなったこの旅からの収穫。 もつべきものは友である。気持ちの通じる、アートへの同じ価値観を持つ友 と過ごす時間のなんと貴重なことか。 人と人の会話の重要さ。またアートへの気力が再生している。 アレを信じて。互いの信念をつらぬくために。 「アートとは叫びであり、概念でも説明でもない。 個的な存在の叫び。個的であるから同じ傷みと同じ希望を見知らぬ 他者と共有できる」 尊敬するひとりの作家からのメッセージを今日受けとった。 ますます確信を堅くした今日という大切な日。 ![]() 2009年 10月 15日
イタリア、バロック画家の代表とも言えるカラヴァッジョとアイルランド生まれの画家フランシス・ベーコンを組み合わせた展覧会がローマのボルゲーゼ美術館にて開催されている。二人の時代も文化背景も全く異なるこの画家を並列して見せるというアイデアはある意味で現在の美術の見せ方を示しているようである。美術に東西、古今を問わずにその価値をひとつの焦点のもとに見せるという学芸の一志向である。従来行われて来た学派による展示、同時代の傾向を見せる展示、ある画家一人の作品紹介、などなど過去に様々な展覧会企画が試みられてきたが、時代と文化、国を越えてひとつの接点を見いだすという企画はすべて種も技も出し尽くした展覧会のあり方に飽きてきた現在に残された手段の一つであろう。 ともすると曖昧な選択肢による意味のない展覧会になる危険性もある。こじつけ?としか見えない後からの言い訳的展示主旨にもなりかねない。そしてお互いの作品を殺し合う結果ともなりかねない。 いったい肉体と精神の葛藤に表現のエネルギーをぶつけた400年の隔たりのあるふたりの画家の作品をつなぐ糸は何か?カラヴァッジョとベーコンに通じる日常の常識や平穏無事に身を寄せない生き方やダイナミックな表現方法、カラヴァッジョの明暗、chiaroscuroの表現様式、ベーコンの黒いキャンバスと叫びのある人物、生と死への直視、眼にする絵画は全く別物であるが、表現の背後にあるエネルギー源はどこか共通項があるようである。 このふたりがいずれも生存する画家であったならそれぞれが異議申し立てを唱えたに違いない。 この展覧会、どちらの画家も好きなので是非開催中に訪れてみようと思っている。 実際に並列された作品を見てから善し悪しを決めたいと思う。 美術評論家、批評家や美術館学芸員、ギャラリスト、美術を手段に仕事をするこれらの職種の人々に対してどこか言いようのない不満と諦めの気持ちがある。 自身の美術に関わる仕事をしているのでその分野への感心は多いにあり、また夫も画家であるから 実際に生きる術をいかに見いだすかなど日常の悩みと絶望感の源でもある。 どっぷりと美術につかりながら一体なにをして美術の上下の価値を決めるのか、わからなくなってきたこの頃である。 作家、芸術家などというのは職業に成り得ない。一人の人間の人となり、生き方、哲学である。 批評家にあれこれ言われるような状況に自身を晒して作家としてどれだけの満足感があるのかもわからない。ファクトリーのような他の多くの人々の力を借りた作品ではなく久々に(もしくは初めて自身で)筆を取って自作絵画を発表したダミアン・ハーストへのほとんどの批評家からのブーイングの反響を読んで、批評家というピラニアのような軍団に寒々しいものを感じた。もともとあまり好意を持たない作家であるハーストであり、メディアを使ったその戦略は最後には自分の落とし穴となることは明白であるにせよ、作家が新たに作品を作りだすことのエネルギーは並大抵ではないのであるから。 ベーコンもカラヴァッジョもその意味ではまわりの反応や批評など蹴散らして自らの表現の許すままに人生を生き抜いた作家であることは間違いない。 ![]() 2009年 10月 10日
灼熱の太陽の黄金色、黄昏の黄金色。 血のようにどくどくと動き流れる。 火山から流れ出るマグマのような赤い塊。 エトルリアの大地からにょっきりと顔を出した塔の群れ。 緑や土色もその赤色に遠慮して王道を譲っているようである。 エネルギー、情熱、生きるということの真の意味。 何かに思い入れる情熱がなければ生きている意味などない。 情熱の炎を絶やさないように、煩雑な日常が邪魔をして心の あるがままを見失わないように。 常識の影に自己の姿を見間違えないように。 そのように生きたい。 ![]() 2009年 10月 04日
いったい何をして美しい形、を決めるのか。 様々な形がこの世の中を埋め尽くしているが、其の中から「美」を感じさせる形がある。 その形を美しい、と把握する根拠は何か。 美術史を知り尽くし、美の理解を深めたわけではない限られた世界に生きる人の作る 形が何故にこれほど説得力があるのか。 名の知れぬタイの陶工の作った壷の形。 コンゴの生活雑器。 楽器として作られたアフリカのモニュメント。 これらの美しさは説明の余地ない。無作為の美である。 美しいものを作ろうとして作られたわけでない。 ![]() ![]() ![]() 説明不可能な美という実体に時々戸惑いを感じる。 知れば知るほど遠のいていいくような、知らないが故に到達できる深淵のような。 人間の智慧などこれらの無限な力に比べればいかなるものか。 ただこれらのものを美しいと感じられる目線の由来は何か。 美の追求は自分の尾っぽを追いかける蛇のようなめくるめく無限の探求であろう。 2009年 09月 28日
![]() あるオランダの陶芸家のスタジオを訪れた。 アムステルダムのOoster 公園の近郊にあるこのスタジオは今年初めに引っ越してきた。 住まいとスタジオを兼ねる小さい空間からの移転。やや中心からは遠のいたものの その広々として自然光あふれる空間は彼にとっては最高の賜物である。 オランダの多くの作家は政府の助成金によりこのようなスタジオを借りる幸運を 得ている。近頃はそうでなくなった、とこぼす彼ではあるが、イタリアや日本の状況 に比べると天国である。住まいにしないことを条件に格安に借りられるこのアーティスト 専用スタジオ。アパートの同棟に数人の作家が共存する。 彼の作品は妥協を許さない。ろくろでひいた壷の形体をカットして抽象形を構成していく。 裏と表、光と影、色の濃淡が完成形を決める。 ひとつの作品を完成させるまで数ヶ月かかると言う。 半乾きの状態で削りを入れ形をさらに定めて行く。 釉薬の意外な色調が彼の特徴でもある。鋭い形とは対照的な淡いピンクやオレンジ、青、緑、紫。 オランダという空の低く、雲の厚く、水の多い土地柄であるからこそ生まれる色合い。 グレーやモノトーンの背景に映えるシュールな色。 水や空に効果的に映ろう人間の夢や祈りを表す色。 世界の陶芸界でも中堅の作家としてその名は知る人ぞ知る。その作品はこの9月オープンした ばかりのロンドンのV&A美術館のセラミック・ギャラリーの広報イメージにも使われた。 そんな彼は実に人間味あふれ、誠実,謙虚、ともにいて気持ちの良い人柄である。 奢りや虚栄心や野望が皆無の作家である。だからこそ生まれる純粋で本質的な表現。 その名はWouter Dam。 2009年 09月 24日
Telling Talesという楽しい展覧会がロンドンの工芸装飾美術館であるヴィクトリア・アンド・アルバート美術館にて開催されている。家具、照明など日常に使われる機能のある形体が展示物であるのだが、それぞれの物体はさまざまなデザイナーの思いのままの物語が繰り広げられひとつの不思議なオブジェとなっている。 機能はほぼ無視したものもあるのだが、思いがけない素材の使用やシュールリアルなオブジェとしての家具などみていて飽きない。Telling Talesという展覧会の題名の通り、物語のある家具達である。副題も面白い。「現代デザインにある空想と悪夢」 そして3つのセクションに分かれた展示室。第一室はForest Glade, 森の奥深く、妖精世界を喚起させるような自然や空想風景、第二室はEnchanted Castle, 魔法にかかった城、歴史的なデザイン様式の誇張やパロディー、そして最後の部屋はHeaven and Hell, 天国と地獄、文字通り人間が避けることのできない死と死後の世界。 森にうごめく妖精達の悪戯か、天国へつながる階段か地獄へ導く扉か。そんな想像力を駆り立てる展覧会のコンセプト。デザインという分野の地平線の広がりを感じる。 デザイナーの生まれを見るとかなりの割合がオランダやベルギーのデザイナー。 彼の地の伝統がシュールリアルな表現に長けているのかとも思う。ベルギーと言えばボッシュから 始まり、アンソール、マグリット、デルボーなどシュールリアルな表現を好む作家が多くいるようだ。オランダは思い起こすのはエッシャーぐらい。しかしフェルメールやレンブラントも自身の精神世界を追求した意味では超現実的な表現とも言える。 この展覧会のサイトの構成もなかなか優れている。展覧会の主旨にあった物語性のあるデザイン。 ひとつひとつの展示物もすべて網羅されている。 子供の持つ想像力と新鮮な驚きをもって創造された奇怪なオブジェ達を前にデザインとアートの統合、ものつくりの面白さ、物語のあるオブジェという新たな一分野の発見を促す展覧会である。 ![]() 2009年 09月 11日
フィレンツェと近郊での展覧会2件。 友人のアントネッラ・ブッサーニッチの個展。 Casa della Creativitaという元僧院の回廊の空間にて。 2006年から現在に至るまでの彼女の軌跡を語る展覧会。 フランスで活躍する彼女の久々の故郷フィレンツェでの作品紹介。 チェルタルド。ボッカチオの生地にて有名な古い美しい町のPalazzo Pretorio (管区長屋敷) での展覧会、Concreta 2009、「土の彫刻」展。 イタリア、フランスの陶芸家のグループ展。 2009年 09月 09日
残暑が厳しかった今年の夏もいよいよ終わりを迎えそうなこの数日の秋の気配。 今年の8月は本当に暑かった。とくに半ばから後半にかけて。20数年ぶりの暑さと聞く。 石造りのこの家は夏でも夜になるとややひんやりとして寝苦しいということはめったに ない。しかしこの8月は毎晩日本の熱帯夜を思い出すような暑さでシーツ一枚もかけていら れないほどだった。 久々に我が町にずっと滞在する今年の夏。日本からも多くの友人達が訪れて、住み慣れて 目新しくなくなったこの土地の良さをもう一度再発見させてくれる機会ともなった。 住めば都という言葉もあるが、隣の芝生は青いという言葉もあるように、住めば住む程、 馴れ合いもあり、他の場所が良いような気がしてくるものである。 時々この地を初めて訪れる仲間とともにもう一度自分の住処を見直すことは大事である。 ずっと登っていなかった目の前の小山モンテ・ゴンツィにも3回登った。昔はときどき 季節ごとに登っていたものである。そして散歩の終盤に飲む湧き水の美味しさ。 これも久々の味わいである。 すべてが友人達のおかげで新鮮な体験となった。 そして今年の新たなる発見はヤモリの家族である。 真夏の長い夕べを過ごすテラスの壁の灯りの光とともに現れる神秘的な生き物。 イタリア語ではgecoと呼ばれる。やもりの漢字は「家守」と思っていたら「守宮」と書くことが わかり、なんとなく納得。家を守り神、という伝説があるが、宮を守る、というほうが神聖な感じがする。この夏、夕食後に灯りをともすとどこからともなく出現する4匹のいもりたち。 一番大きいのは父親だろうか、中ぐらいの母親、そして子供の小さい2匹、勝手に家族と決めた。 毎晩顔をだしてそして灯りにたかる小さな虫や蛾を食べるその素早い動き。 なんとなくこちらの様子を伺っているかのような視線。毎日出てくるとほっとする。一匹でも欠けていると、さてどうしたものか、と心配になる。 9月4日の満月を境に急に涼しくなった朝夕。夕べをテラスで過ごすこともなくなったためもあり、やもり一家との対面もあまりない。というより一家も冬に備えて暖かい住処に移住したのかもしれない。 夏の象徴のようなやもりが夢のごとく消えた跡、それは秋の訪れを語っているのだろう。 一抹のメランコリーをともなって。 ![]() |
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