トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2011年 04月 15日

考えをまとめる

今回の大震災後の原発危機に対する私の意見をここでひとつまとめてみたいと思う。
様々な情報が飛び交う中すこしずつ見えてくる事実。
地震と津波の大災害に被災された東日本の方々にとってはまず毎日生きること
が精一杯であり、原発の危機とともに被る放射性物質がもたらす現実のそして風評の
被害の甚大さを目の前にして、それを巡る原発賛否両論などただむなしく、空々しく
評論家の詭弁に聞こえるに違いない。
被災し、必死で困難を乗り越えようとしている方々、また津波で奪われた多くの人びとの
尊い命の悲劇を忘れたかのように、原発危機への言及と論議が日本はもちろんのこと
世界のメディアを満たしている。大げさに語るスキャンダル誌の紙面から正確な意見を
述べようと勤める報道まで。ヨーロッパはすでにチェルノビイリの原発事故を一度体験して
いるから多少冷静かもしれないが。

今回の大震災を前に、日本の良さと悪さが如実に露見されたと思うのは私だけではあるまい、
被災者の方々の冷静で気骨ある対応ぶりや、心を同じくして援助しようとする多くの人びと、
日本国民の持つ生来の我慢強さと勤勉さ、文句を言わずにやるべきことを淡々とこなしていく
禅的精神、自然の脅威の前に謙虚に人間の存在の弱さを感受しながら未来に向ける目線、
それらがもたらす肯定的なエネルギーは回りの者を取り込みながら着実に回復への道を
見いだしていくに違いない。こららはすべて日本の文化、精神の長く培われてきた賜物であり、
世界の人びとがこぞって脱帽して見る日本人の世界無比の素質である。

これに対して日本の悪い面というのは、日本の組織である。、政府、企業、官僚、それぞれが
悪循環のように互いに絡み合いながら今まで築き上げてきた組織の中の体質、お互いに顔色を
うかがいながら、そして決定はだれがするともなく、上にいる事実上の決定権を持つトップも
自分で自分の決定に責任をとりたくないので、決定をどこか回りの責任を転換できる弱者に向ける。
そういったしわ寄せが最終的にまわってくるのは一番弱い立場の人たち。だから自殺する人も出る。
いつも「前例がありませんので」ということを理由にひとつの決定を後回しにする。
そして回りの風向きが変わったらしいというのがほぼ確実になってくると突如として一斉にそちら
にむいて猛進する。それも最初に提案したマイノリティ−は踏みつけにして。
黒澤明監督がいみじくも映画にて語った「悪い奴ほどよく眠る」は実に健在なのである。
このような権力者達の責任の所在は確かにせず、なあなあに物事を決めていく。

今回の原発の危機はまさにそのような日本の社会組織機構をそのまま見せつけられたようである。
今までそこまでの危機や事故がなかったから、起こるかもしれない危機や事故に対しては
対策を最低限にとどめ、それに苦言する人などは無視。大きな組織の中の暗黙の了解にて
利権と経済的利益のみを追求してきた状況が今回の原発事故を引き起こしたのである。
日本のこのような組織体質を抜本的に改革しない限り原発の次の悲劇はまた起こるだろう。
そして国民もこういった状況を変える術を知らない、または知りたいとも思わない。
このような状況を変えるのは今しかないかもしれない。また見えないがんじがらめの権力に
封印されなければ。

またよく聞かれる「想定外」なんていう論理はまったくおかしなものである。
人間が想定した通りに起こる天災などどこにあるのか。科学者でも専門家でも100%確信できない
のがこの宇宙の、自然の深淵さなのであり、想定できると思うのは人間の奢り以外なにものでも
ない。科学の限界はこの人間の奢りの限界である。
私が芸術が科学より上であると思うのは芸術には限界はないから、精神には物質を越えた可能性が
あるから。その可能性の中で飛翔できるのが芸術家であり、故に太古より生活には直接関係のない
芸術への追求があったのである。

私は基本的に原発には反対である。というのは原発の事故が起こったときに対処できる解決策
や技術が未だに発見できていないから。アメリカやフランス、ロシアなどの原発国でももしそういった技術を開発しているのであれば今回の福島原発の危機にもどこかで使われたであろう。
未だにそういったニュースは聞かない。
そしてそれにも増して原発から出る廃棄物が何万年も毒を出し続けるという事実が考えられないぐらい恐ろしいことだから。 ただただ地下奥深くに埋めておく、というしかないということ。
そんな怪物をどうして次世代に残していくことができるのか。あまりにも無責任すぎる。
一体月にロケットを飛ばすとか、そんなことにお金と時間をかけている暇があったら何故今まで
核に対抗できる技術なりなんなりを研究開発してこなかったのだろう。毒があれば解毒剤は常に
必要であろう。米ソの冷戦時代の権力闘争、原発を使って自身の掲げる消費国家のモラルの
継承者として日本という小さい地震国を米国の植民地化したとしか思えない。

もうひとつの反対理由は原発が常に美しい自然のある農村や漁業地の比較的過疎地に作
られるからである。これはいかにも許しがたい。
仕事を生むとか、お金が入ってくるなどとい空々しい議論にてそういった地域を侵略していくそのやり方は欺瞞に満ちている、。、大都会への電力供給のために素晴らしい自然のある素朴な大地と人びとを踏みつけにするという傲慢。こんなことは許されるべきでない。何かあったときに犠牲になるのはまぎれもなく強引に押し付けられたこのような地域の人びとと大地なのであるから。
先日のオンライン配信の会合の中で岩手県だったか親戚に被災した方がいるという男性が質問応答の
機会を使って声をふるわせながら言っていた言葉が心に響いた。「多大な電力が必要な首都圏に
原発を作れば良いではないか、そこに作ることのできるほどの安全な原発を作れば良いのだ。」
と。誰もが100%原発の安全性を保証できないからこそ人口密度の多い都市には建設できないのだろう。
それが事実であればそんな安全性のないものを他の地域に押し付けるという論理は根本的に間違っている。

それでは原発の代替エネルギーはどうか、原発推進にはクリーン・エネルギーである、という
理屈がある。確かに原発を廃止してまた石炭に戻るのであれば環境への好影響はないことも
明白である。今後石油、石炭に代わる次のクリーン・エネルギーを世界を上げて開発していかなければならないのは明白であろう。そうなって行く過程で徐々に原発を廃炉していくしかない。一体どれだけの年月が必要かわからない。そして今の世界の体制の中でそのような長い視野をもって動く政治家や資産家がいるのだろうか。なぜならお金ある所に悪あり、の縮図のほうが可能性が高いから。

だからこそ今日本がこの100年来の西欧優位主義の経済、社会の発展から次のページに世界を変えていく役割を負ってほしいと思うのである。日本という自然の機微を愛し、雨の音にも何種類の言葉を持ち、季節折々に合った生活を送ってきた小さな国、そしてその国を支える争いを避け調和を保とうとする人びとが今こそ世界に対して見せてほしいのである。
今の日本は見方を変えればこれからの世界の行く末を変えることのできる力を備えているかもしれないのだから。

イギリスの左翼系新聞のガーディアンの環境関係のブログを担当するGeorge Monbiot氏の記事は全く違った見解をみせていて興味深い。
彼は以前から環境問題への追求をし、グローバルウォーミングへの危機感から様々な議論を
呈示してきた。もともと原発に対しても容認派ではなかったらしいが、今回の危機で考えを
変え、原発推進にまわるというのである。あんな大変な災害にもこれぐらいの被害で済んだのだ
ということを揚げながら。反対派にしてみればけしからん謀反者である。
地球温暖化をこれ以上進めないために今のところ他に道はない、という。ただし彼は地震や津波のない英国に生きているからこそ言える論理でもあるが。
反原発派(彼に反対するHelen Caldicott女史)の論理は事実を誇張したり、また事実に基づかない数字を出して、意見を迷わす、というのである。要するにすべては実際のデータによる証明が必要である、ということ。要するに原発の肯定的、否定的両面を考慮した上で意見するというところが、単なる推進派とも、反対派とも違う公平な見解を見せており、真の報道を追求した良い記事であると思う。

私は足りるだけの環境の中で贅沢などなくても気持ちよく住み、美味しい食を楽しみ、好きな音楽や
絵画を見て、好きな服を着て、自然を愛でながら、良い少数の友を持って他人に自然に迷惑を
かけずに生きたい一人である。
がんがんの左翼系アクティビストでも政治プロパガンダ提唱者でもなんでもない。人びとにはそれぞれの生活があるだろうから一概に「あなたは間違っている!」、などと断言するような奢りも持ちたくない。
しかし人間がこの自然、宇宙に住む一員として何がして良いことかして悪いことか、どうしたら人間が自然とともにこの宇宙に生きていけるかどうかへの知恵や真実の探求への感受性はもっていると思う。
歴史から文学から人間のなんたるものであるかを学びたいとも思う。
そして芸術至上主義を今後も持ち続ける。

藤棚の満開のある日。

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by jamartetrusco | 2011-04-15 20:56 | Vita (人生)


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