トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2006年 10月 25日

Tempesta ー嵐

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嵐の前触れ。

突風の吹く。 雲が異常な早さで空を翔ていく。
そして雨も駆け足で右から左へと通り過ぎて行く。
そして妙に生暖かい空気。

こんなに迫力のある朝焼けを見るのは久々である。
またもや朝焼けか、とは言え。
めったにない地獄色である。天地創造の世界。
大地が真っ二つに分かれる日。

Tempestaー嵐。
ベネチア派の画家Giorgioneージョルジョーネ(1477?〜1510)、別名Zorzon(大Giorgioという意味)の作品に同題の絵がある。 そういえばシェークスピアの最後の戯曲「テンペスト」もある。嵐は人の心を揺さぶる何かがある。

この謎に包まれた作品「嵐」。
ジョルジョーネという画家自体も神秘のベールに被われている。早逝していることもあるがその作品は希少であり、また人生についてもほとんど知られていない。
同じベネチア派のジョヴァンニ・ベリーニやヴィットリオ・カルパッチョのもとで学んだとされている。またフラマン派の北方絵画を見る機会もあったらしい。

作品も叙情詩的、暗喩的で解釈が必要である。その作品で最も有名且つ神秘的なのはドレスデン美術館にある「眠れるヴィーナス」、ウィーン歴史美術館所蔵の「三賢人」、そしてヴェネチア・アカデミア美術館にあるこの「嵐」。
いずれも眼にみえる主題に隠れた寓意があるようだ。

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「三賢人」については実はキリストの誕生をみまう東方三賢人ではなくて、人間の思想の3段階ー若者はルネッサンス時代、中年はイスラムの世界、老人は中世期ーではないかという説やもっと簡単に人間の生命の3段階のアレゴリーであるという説などある。また天文学的、錬金術的論理に基づく解釈をする研究者もある。

ヴィーナスは後にティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の原型ともなった。この裸体女性像は時代を越えている。まるで静物画をみるような自然性がある。後世のヴェラスケスやアングルの裸体女性を思わせるような不思議な現代性がある。まるで菩薩を思わせるような柔和な表情である。

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そして問題の「嵐」。ヴェネツィアの知識人サークルの主導的人物だった貴族のガブリエーレ・ヴェンドラミンの依頼によりある種の寓意を含む絵として制作されたと知られる。1530年には、「カステルフランコのゾルゾの手によるジプシー女と兵士のいる嵐の風景を表した小さなキャンバス」という描写が残っている。サイズは83 x 73cmだから当時の絵画としては小さい方だったのだろう。以降「嵐」という題にて知られるようになる。ジョルジョーネ自身はいったいなんと名付けていたのか。背景はジョルジョーネの生まれたカステルフランコをもとにしていることがわかるデッサンが残っている。

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嵐を予期する風景を背景に右側には裸体の女性が赤子に乳をあげ、左側にはそれとはまったく無関係のような兵士の男が立っている。一見女性を見ているかのようだが、視線は別に向けられている。男の背後の崩れた柱は「死」の象徴とされる。そして背後の建物の屋根にとまるコウノトリ。子供への親の愛の象徴。

風景が単に風景としてとどまることなく作品の中心となるという西洋絵画史上初めての例とされている。今では風景画は当たり前のように思えるが、確かにルネサンス以前の絵画様式はキリスト教を題材とした逸話や肖像画などがほとんどで、主題が「自然」そのものということはなかった。

この絵の解釈は実に様々で、この不可思議な二人の人物の存在から、ヘロデ王から避難するためにエジプトへ逃げる聖家族であるとか、二人はギリシャ神話のパリスとオエノーネ(パリスの最初の妻)であり、背後の嵐は妻を捨ててエレナと結ばれるパリスとのその後のトロイ戦争の予感であるとか、アダムとイブのいる落ちたる楽園の兆しであり、赤子はカインである、といった説、そしてもうひとつ興味深い説としては、ヴァザーリの美術家伝にも名前がでてくる1500年にトレビゾにて生まれたジョルジョーネの息子とされるパリス・ボルドン(ギリシャ神話とも重なってくる)へ捧げる寓意的絵画ではないか、ともあるが、いずれも確実なものではない。

しかしこの作品の素晴らしさはとりわけその自然に基づく色彩であろう。空間を構成する要素としての色彩。遠近法や線描の拘りはそこにはもはや見られない。レオナルド・ダヴィンチの背景にも通じる空気感と色調がある。線描を主軸としたフィレンツェ派の画家たちと海洋都市のヴェネツィアから生まれた光を捉えるヴェネツィア派画家達の違いもあろう。
また不思議な静寂感に満ちている。嵐の予兆なのだろうか。それとも嵐は宇宙、天体を表すシンボルに過ぎず、作品のそれぞれの要素の背後に錬金術的なシンボリズムが隠されているのだろうか。

このように未知なる要素を多分に含んだ一枚の小さな絵。様々な謎に包まれるだけにますます面白みも増す。いずれこの絵の謎が解かれる日がくるのであろうか。

追記:
ちなにみ朝の嵐の兆しとは裏腹に、強風のおかげで昼間頃から太陽が顔を出し、嵐とならずに終わってしまった。こけおどしの朝焼けであった。
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by jamartetrusco | 2006-10-25 00:26 | Arte (芸術)


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