2007年 05月 21日

自然の法則

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椰子の木の成長の過程を見せる節々はそのままひとつの美しい造型表現である。
ウニの殻の寸分違わぬ精巧な点々模様。
いずれもまるで計算しつくされて生まれてきた完璧性がある。


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この完璧性はどこにあるのか。以前にも書いたことがあるが、フィボナッチの数字を思い出す。
自然界のさまざまな仕組みにあるフィボナッチ数字に基づく黄金比。
0から始まり隣同士の数字を足していってできる無限の数である。
0、1、1、2、3、5、8、13、21、34、などなど無限大に広がっていく世界。
様々は花の花弁の数や貝殻の螺旋、ひまわりの種の並び方、木の枝ぶり、などなどこのフィボナッチの数字のごとくなのである。神秘としか言いようがない。
美の世界にも通用するこのひとつの法則。

自然界の一規則として存在するこのような数字があるのであれば、我々人間はいったいどこに位置するのか。あらかじめ存在する一筋の真実というのが人間の行為にも適応するのであろうか。

毎日の行為や感情起伏などはどのように人生に影響していくのだろう。水がなければ枯れ、雨ばかりであれば腐り、数が多くなりすぎれば自然淘汰がある、というはっきりした自然界の掟。しかし弱肉強食の世界もひとつ間違えば、大変なことになる。増殖性の強いものが少数派を殺してしまいかねない。だいたいの場合こういう破壊行為には人為が関わっているのであるが。

「思う」ことが人生に反映される、これは暗黙の真実であろう。
人間の体の中で一番の謎は「思考」「脳」の機能ではないか。
よく右脳や左脳とかの区別を論理と情緒を司るとか説明するのを読む。
「思う」「思索する」「考える」といった行為は目に見えずしかし一人の人間の最も重要な一筋となっていると思う。
毎日怒ってばかりいれば何故か自分に戻ってくることがあるし、機嫌よく暮らせばあまり悪いようにはならない。日常の小さなできごとにも「有り難い」、「幸せ」と思って生きること。
なにか辛いことがあればそれは何かの意味があるのだな、と肯定的思考体系に自らを置くようにすること。夢は叶うと信じる心。
そして何かの問題や出来事には体の力を抜いて接すること。恐怖感や緊張でこちこちの体は沈むしかないである。
美しいものに対する感受性も大切である。これがなくしてどうやって人間は生きられるのか。

ある一定の思考はどこか自然の中にある掟の一部であるような気がする。自然に一貫する調和、宇宙の見えない気とつながるためのアンテナのようなものであろうか。ひとつの調和する考えは次の調和する状況を生む、肯定的連鎖反応のような仕組み。
フィボナッチの連鎖のように。


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by jamartetrusco | 2007-05-21 22:09 | Vita (人生)


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