2008年 02月 09日

地蔵信仰について想うこと

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フィレンツェ・マニフィコ・クラブの企画にて4月頭に「地蔵讃歌」展がフィレンツェにて開かれる運びである。代表の福井さんがずっと暖めてきた企画で、念願の展覧会である。ずっと昔のブログの記事にても触れた。日本の地蔵とイタリアのタベルナーコロの文化的、精神的類似点に留意して、イタリアの人々の心に日本の心のあり方を少しでも語ることができれば、という願いである。
地蔵についての解説をイタリア語に訳するにあたって色々調べていてわかった。
地蔵の伝説、地蔵信仰、地蔵の種類。六地蔵について。水子地蔵について。
そして六道について。

この世は六道の輪廻が巡り巡っているという仏教思想。天道(deva)、人道(Manyusa)、阿修羅道(Asura)、畜生道(Tiryagyoni)、餓鬼道(Preta)、地獄道(Naraka)の六道である。生前の行いから転生がこの六道に定まるというもの。そしてこの六道の迷いの世界に悩む生きとし生けるものの苦しみの肩代わりになり、慈悲の心をもって救いの手を延ばすのが地蔵である。この六道のそれぞれについて救済の手を述べる地蔵菩薩であるから六地蔵と呼ばれる、という事実を正直初めて知った。お地蔵様という身近でありながらその何たるものかを詳しく知らなかった今まで。

地蔵に対する草の根的信仰はイタリア、カトリック教の聖母マリア信仰に大変近いものがある。地蔵の蔵が宝を育む処として聖母マリアの母胎と重なってくるイメージがある。大地に根ざす慈悲深い心。まさに聖母マリア信仰のそれである。

このふたつの歴史深い文化をもつ国の現在のあり方を見て考えた。
日本の社会は資本主義の物質文明、お金が頼りという金権主義に陥りながらもなんとか
人間性を失わずに済んでいるのは人々の心のよりどころである神(お寺や神社に宿る)
の存在が威丈高でなく、身近なものだからであろう。人々がお寺や神社にお参りし、
新年の初詣をするのには生きる上の力を授かろうという心からであり、純粋なる宗教信仰からでない。人々の生活に根ざした心の糧である。それでこそ救われるのである。

イタリアの近頃を見ているとそこに問題があるのがわかる。キリスト教という一神教が力を失いつつある現在、人々の心に何かを恐れ敬う心も失いつつあるのである。教会という場が倫理感を育み、人々の土着的文化の拠り所であることを止め、原理主義的信者のみのためとなり、そういった信者でない一般の人々の心の拠り所が曖昧となったのが現在のイタリアであると思う。政治はすさみ、マフィアの問題を抱え、行き場のない不満が充満する現在のイタリア。自然の美しさとエトルリア、ローマ、ルネサンスを経た深い文明の遺産を持ちながら「現在」を生きることのできない不満である。
それの原因のひとつとして草の根信仰がなくなったからだと思うのである。
小さなことへの感謝の気持ち、畏れの気持ちは人間には必須であると思うのである。
道ばたに静かに佇む聖母子のタベルナーコロの色あせたイメージは物悲しい。

Bell Paese、「美しい国」という形容詞がまさに当てはまるこの誉れ高い国に今最も必要なのは一人一人が生きる上での信じる「何か」を持つことであろう。それはエトルリア神への憧憬でもよし、素晴らしい自然や過去の文化への尊敬でも良し、観光客のみを頼りにし、物価が2001年から現在まで40%高という庶民を無視した荒んだ社会の今のイタリアはまさにどん底を着いたと言って良い。これからは上昇するしかないと思うのである。再度解散した議会。次の首相となるのは今のローマ市長のヴェルトローニであってほしい。どうなることか。
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by jamartetrusco | 2008-02-09 23:06 | Paese (土地柄)


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