トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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カテゴリ:Cinema (映画)( 12 )


2014年 03月 03日

True Detectiveの面白さ

今はまっているテレビドラマ。True Detective.
アメリカのTVチャネルのHBOにて放映中であるが、かなりの好評判を聞き知って
初めて観てみた。
話はアメリカ、ルイジアナを舞台に性格も人生哲学も全く異なる二人の刑事が連続殺人事件を
追う話を根幹として、17年を経た現在と過去との二つの時間体系を交互に絡めながら
実際に何が起こったのかという真実を追求していくサスペンスものであるが、なんと言ったら
良いだろう。
このシリーズの醸し出す雰囲気は音楽と画像と内容が従来の刑事物の典型をなぞって
いるようでどこか違う。
マシュー・マコノヒーが演じる幾分常人でない刑事がなんとも魅力的だ。
人間の存在自体を自然から逸脱した自己を主張する不必要な存在で手をともにして
消滅の道を行く方がよしとするようなニヒリストである。
真実のみを見つめ、それゆえに常識的な人々の間では変人扱いされている彼。
その彼と対立しながらもパートナーとして事件を追求しくのは一見常識人、家庭を持つ
いわゆる良き夫であり父であるかのようなもうひとりの刑事。しかし彼の生き方は欺瞞で満ちている。
単なる刑事ものでもなく、かと言ってことさらに人間模様を表そうとしている性格ドラマでもない。
淡々とした物語構成、ゆっくりしたペースの中にどんどんと観るものを引き込んでいく何かが
ある。
久々におもしろいテレビドラマを観た思いだ。監督はちなみに日本人を父としスウェーデン人の
母を持つカリー・フクナガ。

さて結末はいかに。



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by jamartetrusco | 2014-03-03 05:59 | Cinema (映画)
2012年 05月 30日

綱を渡る男

Man on WIre
と題される2008年制作のイギリス人監督James Marshによるドキュメンタリー映画を観た。
何も期待せずになんとなくつけたテレビでやっていたのであるが、観るうちにどんどんと
引き込まれ終了する頃にはとてつもなく感動していた。
期待せず、と言うのも映画の簡単なあらすじに綱渡り師を扱ったドキュメンタリーと
書いてあったのでサーカスの曲芸師かなにかの話かなと思ったからである。
もちろん主人公は綱渡りに人生をかけた曲芸師と言えるかもしれない。
小さい頃から曲芸や魔術の技に魅せられたという導引からドキュメンタリーは始まる。

彼の名前はフィリップ・プティ。1949年生まれ。よく考えるとこの世代には大変魅力的な人々が
多いような気がする。大好きなピーター・ハミルも1948年生まれだ。もうひとり日本に
知っている尊敬する方がやはり49年生まれ。

さてこのフィリップ氏はフランス人。
ドキュメンタリーでは1970年代の若い彼と彼の同士のインタビューの画像をふまえながら
次々と彼らの軌跡を映し出す。
フィリップ氏のパリ、ノートルダム寺院でのパーフォーマンス。ふたつの塔の間を綱渡り
するその様子。
この映画の中心となるのは1974年に彼らが行ったニューヨークのウォール街のツインタワーの
綱渡りへの道程である。
今は亡き高層のツインタワーの二つのタワーの間を綱渡りするーそれこそ不可能な、考える
だけで恐ろしいパーフォーマンス。
最上階に昇り綱をふたつのビルの間に渡すだけでも大変な技である。どうしたら綱を渡せるか
それも試行錯誤で考えていく過程が実写で残っている。
凄いことである。

70年代だからこそ可能であったハプニングでもある。
現在のテロ後の世界ではそんなことは考えられない。昇る前に捕まってしまうだろう。
銀行強盗のごとくにどうやってビルの上に警備に気がつかれずに行くか、それがひとつの
要となるドキュメンタリー。
見つかりそうになりながらもなんとか必死に実現するその綱渡りの極限の一時。
死か生かの瀬戸際のパーフォーマンスの持つ人間の存在を見つめるその一瞬。
そして実際に綱渡りするのである。
それは芸術以外何ものでもない、真の感動を呼ぶものだった。
綱を渡るということが彼にとって体の一部になっているかが徐々に如実に
理解できてくる。
そしてその傍らに支えるかけがえのない友人と女性の存在も。
一つ間違えば友人の死に貢献することになるだから。「信じる」ということの凄さも
見せてくれる。人間の可能性の限界の向うに見えてくる「何か」。

とにかく素晴らしい映画。 久々に真のアートを味わった。
バックグランドの音楽としてのエリック・サティのピアノ曲も実に合っている。

皮肉なことにフィリップ氏はこんな大それたパーフォーマンスの後まだ健在であるのに
ツインタワーは今では存在しないことである。
彼もなんとも感慨無量な気持ちでいるに違いない。


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by jamartetrusco | 2012-05-30 04:24 | Cinema (映画)
2012年 02月 21日

Cave of Forgotten Dreams - 失われた夢の洞窟

再びヴェルナ−・ヘルツォグの映画。
ドキュメンタリー映画でありながらヘルツォグの夢の徘徊する幻想映画のようである。
タイトルは英題はCave of Forgotten Dreams ー文字通り失われた夢の洞窟。
1994年にフランスの考古学者によって発見されたショベーの洞窟画である。
南中部のアルデーシュ川沿いにある山合いの中の洞窟で、象徴的なアーチ型の岩場の
ある川。
どうして発見したのだろう。中からにじみ出る気が感じられて入ってみて、発見された
というような夢のような話。
ラスコー洞窟画やアルタミラの洞窟画と並んで重要な発見である。
この洞窟は密閉されていて発見された後でも非常に限られた数の学者しか入っていない。
ラルコー洞窟も観光客の入窟にて有機物の導入によりカビが生えてきたということで
今では入窟はままならないと聞く。
このシュベーの洞窟は内部の環境を変えないために一般公開はされていないため
ヘルツォーグのドキュメンタリーはその意味で貴重な記録として存在する。
なぜヘルツォ−グが撮影を許されたかというと、ショベー洞窟の管轄の地域の行政の
担当者がまずヘルツォーグの映画のファンであったこと。そしてへルツォーグが映画
を撮影するかわりにその映画をこの地の教育機関に無償で提供することを約束した
ことから実現した、と語っていた。

このドキュメンタリーは3D映画である。限定の上映であったため3D上映は見逃したが
DVDで観たその映画は感動を誘う映像とヘルツォーグ独特の淡々とした語りが真実を
露にするものであった。

洞窟画は信じられない程の生き生きした動物の描写。30000年程前に描かれた絵である。
そして動物の骨やその当時の人間が残した松明の跡まで壁に残っている。
頭がくらくらするのは30,000年前の絵を修正したのがその後5000年経った後というのが
解明されていることである。
一体どうしたらそんな時代性が解明できるのだろう。

さらに感動的なのはその絵を描いたらしい人の手跡まで残っているのである。
小指が少し曲がった人であると言う。

人間の歴史とはなんだろう。何万年を経た今、私たちは将来の子孫に何を残せるのだろう。
醜い建物、危険な原発だけ残すような人類としての我々があってはあまりにも子孫に申し訳ない。

ドキュメンタリー映画でありながらこれほど人の夢を広がせてくれる映画も少ないと思う。

ヘルツォーグの偉大を改めて感動できる映画。

絵を描く人々には衝撃的な映画である。制作とは、絵描きとは?


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by jamartetrusco | 2012-02-21 02:07 | Cinema (映画)
2012年 01月 28日

Enigma of Kaspar Hauser

ドイツの映画監督Werner Herzogーヴェルナー・ヘルツォークの映画は終止一貫して
あるひとつの数奇な夢にObsession「固執」を抱く人物や人生を描くことが多い。
典型はアマゾンの山奥にオペラ劇場を建てた男の話を描いた「フィッツカラルド」や
伝説の都市エルドラドを探す16世紀のスペインのコンクィスタトーレー征服者ー達の
群団でその首領となる軍人のアギーレの狂気を描く「アギーレー神の怒り」、最近では
アラスカでグリズリーとともに生き、最後にはグリズリーに恋人とともに殺されるティモシー
トレッドウェルの生涯をドキュメンタリーとして語る「グリズリーマン」など。

すべて狂気と正気の狭間を生きる人間の心理と夢の執拗な追求を描いているようだ。
常にそこには神と人、自然と人との関わりと対立がある。
いかにもドイツ的な精神性と自己認識、ロマンチシズムと幻想性に満ちている。
前から見たいと思っていた「カスパー・ハウザーの謎」をついに見た。
ハーツォック魂が隅々まで行き渡った幻想的な叙情性と人間の心と頭の複雑な関係を
淡々と語る不思議な映画である。

カスパー・ハウザーは19世紀前半の実在の人物である。
17歳頃まで小さな牢獄に監禁され人との接触もなく生きていたと思われる。
生年月日も不詳。ある日突然ニュールンベルグの街に駐屯していた大尉宛の手紙を持って
立っている姿を街で発見されたという。

映画は人との接触なく水とパンのみを食べ、馬の玩具のみで遊ぶ、話すどころか歩くことも
ままならないカスパーがある日マントの謎の男によって外に連れ出されるところから始まる。
そしてニュールンベルグの街に手紙を片手に置き去りにされるカスパー。
大尉と街の世話役達は皆この謎の野生男をなんとかしようとするが拉致があかない。
話すこともできないから。そして最後には厄介者ということでサーカスに渡され、見せ物になって
いるところを見たダウマーという宗教哲学者が引き取り、いろいろと教授する。
面白いのは少しずつ言葉を口にするようになったカスパーと宗教者達や家政婦さんとの
会話。
子供のもつ純粋な疑問と鋭い認識力があり、既成概念に犯されていない人間の魂とその力を見せる。
19世紀当時の自然科学的な立場からこの不可思議な存在を分析しようとする学者達や
また野蛮人を扱うようにこの男のパトロンになろうとする貴族。
カスパーに宗教、神の存在を教えようとするが、論議が空しく響くのが印象的だ。
最後には最初のマントの謎に人物によって殺されてしまうのであるが、遺体解剖で頭脳の一部
が異常に発達していたというのがわかるところで終わる。

話は実在のカスパーの話に比較的忠実に進んでいくが、全体に流れる淡々とした物語構成と
すべてがまるで幕に被われた儚い夢のごとくに見え、その美しい画像とともにカスパーの世界に
また彼の眼から見た現実の向こう側に取り込まれていくのである。
そして演ずるブルーノ・Sのオーラが凄い。もともと役者ではなく独学で楽器を習得した吟遊詩人のような
音楽の語り人である。

ドストエフスキーの「白痴」のごとく、真実を述べ神に近い存在であリそれ故死ぬしかなかった
かのようなカスパー。
狂気と正気、白痴と超人的感性、野生と懐柔、神、自然と人。
寂々とした物悲しさに満ちた美しく枯れた空と海のあるカスパー・ダヴィデ・フリードリッヒの
「海辺の僧侶」やドイツの画家ゲラルド・リヒターの「雲」を彷彿とさせるような映像。



ドイツからのみ生まれる美と色がある。映画が絵画となり音楽となり文学となり歴史となる時。

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by jamartetrusco | 2012-01-28 22:12 | Cinema (映画)
2010年 11月 30日

巨匠の偉大なる死

イタリアの映画界でブラックユーモア溢れるコメディ映画で知られる映画監督の
マリオ・モニチェッリが昨晩ローマの病院の上階から飛び降り自殺して亡くなった。
95歳であった。トスカーナ、ヴィアレッジョ生まれ。
95歳という高齢にての自殺。皆一応に彼の映画監督としての業績と突然の
自殺に戸惑っている様子である。癌の診断を受けて入院して直後のことであった。
死ぬときは回りに迷惑をかけずに苦しまずに死にたいと生前から語っていた
監督であるのでこの自殺はどこか彼らしく、死ぬ時まで自身の哲学を通した
ようである。あっぱれと賛したい。
彼の名前はロッセリーニ、フェリーニやヴィスコンティなどの大御所の巨匠と比べて、
喜劇映画の制作のためか世界的にはあまりられていなかったかもしれない。
しかしイタリアの戦後の庶民の生活と人間の喜悲劇を表す作品は一言に値するものだった。
彼の代表作品は原題で"I Soliti Ignoti", "L'Armata Blancaleone", "Amici Miei", "Il
Marchese dell Grillo"など。すべて実に劇的で笑いを誘う名作である。これらの映画を
見るとイタリアのいや、トスカーナのユーモアのエッセンスがわかると言えよう。
テレビでの最後のインタヴューでも実にしっかりした頭を持ち、イタリアはこれから
どうしたら良いのか、という質問に対して、解決策は言いたくない、と言いながらも、
最後に一言、イタリアは過激な革命にて現存のパワーをすべて駆逐するしかない、
過去に一度も革命が起こっていないのだから、と述べた。
最後まで過激に生きた巨匠である。
巨匠のご冥福を祈って。
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by jamartetrusco | 2010-11-30 22:21 | Cinema (映画)
2010年 10月 16日

There Is No Blue Without Yellow And Orange

ゴッホの没後120年を記念した展覧会が東京の新国立美術館にて10月1日より開催されているが、この会期中10月23日に関連イベントとしてこの画家を題材としたドキュメンタリー映画'There Is No Blue Without Yellow And Orangeが上映される。「黄色とオレンジなしには青はない」という題名も詩的でゴッホの色彩を語るのにふさわしい。
没後120年記念ということもあって今年は様々な展覧会が開かれたり、またゴッホの書いた手紙を集めた豪華本の出版もあった。
この映画の監督はゴッホと同名を持つフィンセント・ファン・ワインガールト監督。もともと写真家である。何故この映画について話すかと言うとアムステルダム在住の親友のマデレーネが関わっているからだ。
彼女と会ったのはいつだっただろうか。かれこれ20年前だったか。イタリアに渡る前に東京にて
数年仕事をしていた時期に別のオランダの友人を通して知り合った。その頃は自分のデザインをした
帽子とアクセサリーをして華やかでチャーミングな女性で、すぐに友達となった。
彼女とともにした伊勢神宮への旅は今でも心に残っている。
その頃から日本への興味を持っていたので、持ち前の人なつっこさとエネルギーでその後オランダ、
日本の架け橋となる様々な文化交流を手がけられた。
アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館ともつながりがあり、そこでの日本関連の展覧会にも少なからず貢献しておられる。
このたびの映画はゴッホの短いながらも強烈な作家人生に多大な影響を及ぼしたヨ−ロッパの
国々ー生まれ故郷のオランダに始まり、宣教師として滞在したイギリス、ベルギー、そして晩年自殺するまで過ごしたフランスの各地を巡り撮ったドキュメンタリーである。短い生涯の中で26カ所も
場所を変えて住んだという驚くべき足跡。その際に出会った人々、風景、体験がそのままゴッホの制作に影響を与えているのである。そしてなによりも大きなインパクトとなったのは日本から渡ってきた浮世絵である。400枚は所持していたとされる。浮世絵との出会いなしにはゴッホの色彩による画面構成への変化は生まれなかったのである。
この影響を辿るべく日本にも足を延ばして今映画を撮っている監督の友人の話しをマデレーネから聞いたのは今年の5月頃だっただろうか。
マデレーネさんはこの映画撮影に関して大きな手助けをしたので、今回は招待して来日される。
1週間強の短い滞在におつきあいできないのは大変残念だ。

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by jamartetrusco | 2010-10-16 21:02 | Cinema (映画)
2010年 02月 01日

感想

見ようか見まいかと迷っていた3D映画「アバター」を昨日娘と観た。
そして感想。「アバター」ヘの先入観を持ちたくない人はどうぞ無視してください。

まず宮崎駿の映画「天空の城ラピュタ」、「もののけ姫」そして「風の谷のナウシカ」を
しっかりと見たことのある人はすぐ気がつくであろうその映像の類似性。
どうみてもこれは映像的影響を受けたに違いない。キャメロン監督がそのことを
言及しているインタビューなどあるのだろうか?
パンドラ国の住む森や天空に浮かぶ森の島やそして不思議な色彩の森の奥深くの
植物などなどまさに宮崎監督がすでにアニメの中で映像化している風景である。
もし一言もそのことを触れていないとすれば不思議である。
話しの内容も似ているところがある。
自然を守る一握りの人間と自然に宿る神々とそしてそれを拒み、征服しようとする人間達との
葛藤。宮崎映画の悪人役の中にある弱みとややユーモア溢れる人物像はこの映画には
ない。ただただ悪い人間の存在である。ベトナムやイラク戦争へ走る植民地征服的感覚の
悪人たち。自然を破壊し、原住民を皆殺しにすることなどものともしない悪人である。
しかし話しの展開は宮崎映画にあるような幻想性はなく、常からあるアメリカ映画の得意とする善と悪の対決、土着であるアメリカ・インディアンを襲う侵入者である悪いアメリカ人とアメリカ・インディアンを守る数少ない善人のアメリカ人との対決、そしてこの善人のアメリカ人とインディアンの酋長の娘との恋愛物語、などなどもうあまりにもワンパターンで月並みな話しと要するに同じである。
そこには申し訳ないがひとかけらの情緒も生と死の悲哀もない。善対悪、武力対自然の力など、かなり短絡的な2元的な話しである。
さらに、ある新聞記事によるとこのパンドラ国の世界はすでにロシアの60年代のSF文学者であり、タルコフキー監督作の「ストーカー」の原作者でもあるストロガツキー兄弟による著作"Noon - 22nd Century"の中のNoon国と極似していることを指摘している。
そう思うと宮崎世界ももしかするとストロガツキー兄弟の影響があるのかもしれない。

この映画が話題性があるとすれば要するに3Dであることと宮崎世界の幻想をアニメではなく
現実の映像のように見せ、映像があっといわせるような特殊効果の極致に到達している、という
ことである。物理的に言うと3D用の眼鏡をかけての2時間半以上、目が大変疲れたのも否めない。たぶんそういう人も少なくないのではと思う。

映画としての全体の娯楽性はもちろんあるし、見て損をしたと思うような映画ではないが、一体
この映画をして多くの人々が鬼の首をとったように感動の歓声を挙げる事自体が不思議である。
はっきり言って新しい効果の面白さのみであり、映画としての深い感動などかけらもなかった。
日本にて公開されてどんな評価を得るだろう。

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by jamartetrusco | 2010-02-01 01:47 | Cinema (映画)
2010年 01月 22日

白黒 versus 3D

このところ話題をかもしている3D映画のアバター。見ようか見まいかと未だに迷っている。
次世代映画として3Dがこれからますます力を増してくるのは明白であるものの、どこか
それに対して抵抗したい自分がある。映画というのはまずは物語の充実、映像の美学、
そして監督の映画制作に対する哲学など、見るにあたって大事な条件がある。
私は映画に対して特に文学的、政治的理念を重視するような、要するに左翼系インテレクチュアルの
批評家が好みそうな映画ばかりを好むわけではない。娯楽映画も大スペクタクルも好きである。
もちろん心に長く残る映画やそういった映画を作る真の芸術家としての映画監督の手腕はおいておや。
タルコフスキー、黒澤、小津、オーソン・ウェルズ、ハーツォック、ヴィスコンティ、ペドロ・アルドモバルなどなど大好きな映画監督である。彼らの作り出す映画は単なる娯楽ではなくひとつの芸術である。さらに芸術作品とまで言えるかわからないが娯楽映画大作としての醍醐味もあり、監督の制作哲学と拘りがある監督として好きなのはティム・バートンやリドリー・スコット、グリエルモ・デル・トロ(この監督はまだまだ作品をみたい)など。
特にリドリー・スコットは名作、秀作、駄作などいろいろ混じりながらもその制作姿勢に感銘する監督である。
彼のディレクターズカットに含まれる制作過程の記録は群を抜いて優れている。映画を作るのがどんなに
楽しいかをまざまざと見せてくれる。もっと若かったら彼の所の美術部にでも弟子入りでもしたいと思ったこともある。彼らの映画は映画魂がある。

さてこの3D。まだ一度も見ていないので3Dの魅力に触れていない一人であるが、どこか胡散臭いものも
感じるこのテクノロジー。要するにますますヴァーチュアルリアリティーの効果に訴え、人間の隠れた想像力を
奪い、目の前に現実とも夢とも思えるような映像世界を作り出すことなのだろう。前作の「タイタニック」の空前の大ヒットから10数年経って今映画伝統を変えるかのようにつきつけられたこの3Dの「アバター」の見え透いたハリウッド商戦に抵抗があるのである。映画が3Dである必要はあるのだろうか?
そのうちに現実の空間まで操作するコンピューターグラフィックやソフトが出てくるのではと薄ら寒いものも
感じる。事実、アバターを見た後にその3Dの映像世界の虜となって現実の灰色世界に直面できずに憂鬱症に陥ると言ったアバター症候群みたいな人も出て来ているそうな。信じがたいことだ。
ハリウッドが経済危機にて大きなお金が動きにくなっている今でこそ、こういう力みがある映画を大成功に結びつけたい悪あがきがあるようである。こういう時代であるがこそもっと実のある映画を見たいと思う。
小津安二郎の映画のようなうるさい会話もなく淡々とした日常生活を描写しながら人間や家族のあり方、表裏の奥底を抉るような映画に飢えている。
原点に戻る姿勢、白黒の世界の豊さと厚みを芸術は思い起こす必要があると思う。

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by jamartetrusco | 2010-01-22 23:00 | Cinema (映画)
2009年 06月 06日

デルス・ウザーラ

黒澤明監督の映画はほぼ全部観ている。どの作品もそれぞれの素晴らしさがありどれも観た後に
ずっしり心に響くものがある。そして物語の構築力のうまさ、映像の魅力はまさに「天才」としか
言いようがない。
その中で唯一まだ観ていなかった映画が「デルス・ウザーラ」であった。
ロシアとの協力のもとに監督した黒澤映画の唯一国外制作、せりふも全部ロシア語である。
デルス・ウザーラの髭面のクマソのような風采の顔の印象が強くなんとなく興味をそそられなかった。実際にデルス・ウザーラという名のこの人物の物語の背景となる実話についても全く無知であった。
そして今回手にいれたDVDでこの映画を初体験し、この映画の奥深さにただただ感動した。
やはり黒澤は天才である。1975年制作のこの映画。「どですかでん」が不評に終わり、その後、自殺未遂まで至った黒澤監督。日本国内からそっぽをむかれて資金難に陥りながら作り上げたのがこの映画である。苦難を克服して制作に向かうこの原動力自体がすごい。ロシアと日本との往復してできあがったこの希有なる映画は1902年から10年かけてシベリア沿海地方のシホテ・アリン地方の地図を作るために政府より派遣された探検隊隊長のロシアの探検家ウラディミール・アスセーニエフの記録をもとにしている。
冬は厳寒、未踏の森林や山川などを歩きながら探検するこの部隊とたまたま巡り合いそのガイドととして探検隊の重要な一員となるのが先住民のナナイ族のデルス・ウザーラなのである。
狩りをしながら自然の隅々まで理解し、自然を畏敬し、しかしその中で生き延びる力を備えるこの不思議な男の存在は時とともに隊長の心を捉え、はては無二の親友となっていく。
最後に自然へと帰化して死すデルスの人物すべての語るのは現在の環境問題の根本にある人と自然との共存というテーマである。70年代まだこのようなテーマなど考える人も少なかった経済成長期にこのような真実を語る映画を作る黒澤監督の偉大。
それも自然と人間の関係を説教ぼく語る映画でない。人と人との真の心の交わりを通してじわじわと伝えてくるのである。そしてシベリアの自然の壮大かつ恐ろしいばかりの野生の美しさを視覚に
おさめるその手腕。映画作りの上手さと物語性は黒澤映画以外の何ものでもない。

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by jamartetrusco | 2009-06-06 00:11 | Cinema (映画)
2008年 11月 06日

映画「ストーカー」における新たなる発見

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ロシアの誇る映画監督アンドレイ・タルコフキーの映画は20代に初めて観てから常に頭の片隅に光の残照のように残るものであった。
殺伐たる寒さの冬の日に生きる勇気を与えてくれるいくばくなる光のような、子供の中にある恐れと憧憬を映像化したような、人間の、あるいわタルコフキーの奥底に潜む痛いばかりの感性の鮮明なる露出のような。人間の魂の悲壮感を根底にしながらそこに見いだしうる神々しい歓喜の混じったような。
代表作は「アンドレイ・リュブロフ」、「惑星ソラリス」、「鏡」、「ストーカー」
「ノスタルジア」「サクリファイス」。
「アンドレイ・リュブロフ」「鏡」と「ストーカー」の3作は人生の様々な岐路に観たい作品である。

つい先日「ストーカー」を久々にDVDにて見た。
そして驚いたのに、20代当時記憶していたのはタルコフキー独特の自然や人間の生き様の細部の映像のひとつの完成された視覚的体験であり、内容はほとんど理解していなかったのである。20代の感性と今の感性の違いと、置かれた立場の違いによる理解力のレベルの違い。名作は年齢を経てさらに名作となる。

水の表現や捨てられた塵屑や壊れたガラス片でさえひとつの美的映像の頂点へと導いてしまうこの監督の映像の素晴らしさには以前と同様の感動を得た。
しかしそれ以上に感動したのは、映画を通して語られる静かでありながら脈々とした人間の存在の長編詩である。生きる意味を新たに噛み締めることのできるその言葉の数々である。その中で心にずっしりと残ったのはもっともたやすい言葉でありながら実行するにもっとも難しい真実である。このように生きることをモットーとしたい。

思うがままに行くがいい、
信じるままに。
情熱などあざ笑え。
彼らの言う“情熱”は心の活力ではない。
魂と外界との衝突でしかない。
大切なのは自分を信じること、
子供のように無力となること、
無力こそ偉大なのだ。
力には価値はない。
人は無力かつ無防備に生まれ、
死ぬ時には乾いて固まる。
木もそうだ しなやかに育ち、
乾いて硬直し枯れてゆく。
硬直と力は死と隣り合わせだ。
柔軟さと無力さは生の源、
硬化したものに勝利はない。

万物には価値がある、意味と理由が。



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by jamartetrusco | 2008-11-06 22:44 | Cinema (映画)