トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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カテゴリ:Arte di Ale(アレのアート)( 107 )


2009年 06月 25日

抜け殻

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展覧会というのはなんなんだろう。
展示している時間の緊張感と喜び。
これから何が起こるかわからない期待と不安。
わくわくどきどきして、どんな出会いがあるか、
色々心巡らせる時間である。
パリ展もしかり。
一番楽しい時間は展示のひと時である。1日半の展示時間に
合わせてさて大丈夫であろうか、と作品をひもとく。
展示空間は予想以上に美しく、石壁の色も素敵だ。
イタリアの煉瓦色とは違ったやや白っぽい古い石壁。
アレの紙の作品にはうってつけだ。
限られた予算にて考えた展示システム。プラスチックの透明版に
クリップで紙をとめてチェーンで吊るした。
静かな地下の展示空間で過ごす貴重な時間。
私とアレと、何も考えずにひたすら作品をかけていく、その
無償のエネルギー源。退屈するのは娘のみ。

そして始まる展覧会。オープニングの夕べは様々な人々の
嬉しいコメントに感動する。でも細部は全く覚えていない。
興奮と懸念の混じった自己満足と自己嫌悪のひと時。
あっという間に終わった宴の後は、どこかむなしい抜け殻に似た
状態である。
展覧会というのはまさに自身のエネルギーを使い果たした抜け殻に
近い。

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by jamartetrusco | 2009-06-25 05:14 | Arte di Ale(アレのアート)
2009年 05月 25日

Sospensione ー 吊る

アレの Borse Nere の中身はSospensione。
この言葉は様々な意味合いがある。
まずは吊るすこと。
様々なものが吊るされる状態にある。
肉塊、鞄、布、不可思議な物体。
宙ぶらりんの状態である、という意味から「一時停止」とか「不安」か
という意味にもなる。いわゆるはらはらどきどき「サスペンス」は
この言葉からである。

エレナの黒い本の最後のページを埋めたのはこれらの
吊るされた物体の図柄である。
吊るされることによって神聖味を帯びるかのようなハムやサラミ
の塊。
吊るす行為によって様々な様相をみせる布地。
裏と表、影と光、陰と陽を内包する。

どこか危なげなこれらの吊るされた物体は今のアレの
心の様をそのまま象徴しているようにも見える。


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by jamartetrusco | 2009-05-25 22:40 | Arte di Ale(アレのアート)
2009年 05月 20日

パリ展

アレッサンドロ・ヌティーニのパリ展のご案内。

いつもながら友人のエルダ・トレスに簡単な紹介文を書いてもらった。


展覧会はいわゆるcarta pagliaの上に描かれた数多くの作品群から成る。
その仕事はアレッサンドロ・ヌティーニの制作の様々な側面や行程をそのまま語るものである。トスカーナ出身のこの作家はその形成期に様々な源から影響を受けている。フィレンツェの職人工房にて絵画や修復の隠された伝統技法を学んだ後、ニューヨークへと向かい、その旅の行程中カリブ海の諸国訪問時に独特の色彩豊かな絵画様式を吸収し、帰国後フィレンツェの美術院にて学び、さらにその後日本の美術と出会う。展示作品を特色付けるのは通常包み紙に使われ藁半紙の使用である。その主題に一貫して流れるのは現代に必要のなくなった物を忘却から救出しようとする「記憶の抵抗」である。藁半紙は過去にはパンや食べ物を包む日常使用のものである。この10年間のシリーズ制作、「茶碗」、「小石」、「壁」、「器」の根幹と成る習作としての紙作品。日常のオブジェ、幾何学形、トスカーナの職人の手による寡黙な壁や石、象徴性の強いオブジェである茶碗や器、これらの内包する超越的美への思い入れ。一見して無意味に見えるがそれらなくしては全体や宇宙は存在し得ない「ミクロコスモ」や「欠片」へ作家の目線は向く。完結と未完、素材と非素材、作家がもつ智慧の密義性が公にされるその瞬間、これらすべてが合わさってさらなる「自然」と「作為」という2元性へと昇華される。


2009年6月9日〜6月20日まで。

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by jamartetrusco | 2009-05-20 18:17 | Arte di Ale(アレのアート)
2009年 03月 01日

Papiers Paille - Carta Paglia

アレの6月のパリの個展。作品持参、展示、また撤収も兼ねた滞在約2週間の予定。
知り合いの方のアパートを借りることになっているのでパリの日常生活をほんの少し
だけ味わえる。美術館や町並み、市場、多くの楽しみが控えている。娘にとっては
初めてのパリである。

展覧会には作品を持参するという物理的な制約があるので大きなキャンバスなどの展示は
無理である。そこで考えたのが彼の黄紙油絵作品の展示。
carta gialla(黄紙)と普通呼んではいるが実はイタリア式藁半紙ーcarta pagliaである。
過去には食べ物やパンなど包んでいた日常使いの紙である。
今ではトラットリアのテ−ブルマットとしてよく好まれ使用される油の吸い込みの良い紙。
いつからこの藁半紙に作品を残すようになったのだろう。
考えてみると娘の生まれた年、1998年以来使用しているこの紙。
頭に浮かぶイメージをドローイング的に無造作に制作するのに最適の安価に入手できる紙。
自由奔放、即興的な表現を何枚も何枚も連作していくのに最適である。
1998年はそれ以後続いている一連のシリーズ制作を始めた年でもある。
茶碗、小石、壁シリーズ、器、Porta Magica, などなど、今年はサラミ、これも今までの
器のシリーズにつながる象徴的なイメージである。
シリーズが生まれる都度、キャンバス作品数を越える数にて描かれてきたアレの制作
系譜を語る重要な作品群である。
ときとしてキャンバスの油絵より優れたイメージが生まれる。

今回の展覧会では1998年から10年、2008年までのアレの制作の行程の
証人としてのこの紙作品に焦点を当てる。
今までの展覧会では常に付随的存在であったこの紙達を全面に見せたいのである。

展覧会タイトルは"Papiers Paiile 1998 ~ 2008"。

展示方法も智慧を出し合ってなんとかなりそうである。
ここのところ毎日展覧会のための資料作りに忙しい。

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by jamartetrusco | 2009-03-01 19:40 | Arte di Ale(アレのアート)
2009年 02月 06日

静物ーサラミの存在感

一連の肉に関した作品の中で気に入っているこの紙の作品。
サラミという存在を越えてひとつの完結した形となっている。
サラミの形を整えるために使用されるネットの白と肉の赤の
生み出すデザイン性と背景の肌合いのある灰色の色彩との調和
が好きである。
作品を見るまではサラミやプロシュッートを描きたいというアレの
意図がよくわからなかったが、こうやって作品となったサラミは
イタリアの総菜屋やレストラン、肉屋や食卓という存在範囲を越えて
妙に神聖味を帯びてくる。まわりにオーラを従えて果てしない空間
に浮上するようである。
周りに転がる日常の事物を作品の主題とするアレの制作姿勢は常なる
ものである。
これらのなにげない事物の背後に隠れる精神文化や宗教観などへの再考察、
それがこのサラミの存在感を増しているようである。


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by jamartetrusco | 2009-02-06 19:29 | Arte di Ale(アレのアート)
2009年 01月 17日

Mucca squartataー肉塊あるいは生と死の象徴

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常日頃興味深く拝読しているaipitturaさんのブログに実に同感するひとつの
洞察が書かれてあった。

<普段の生活の中で肉を食べていても、死や血を目にすることはほぼない(中略)売られている肉は、動物の匂いも生死も連想させない別物の「肉」になっているように思えた。>

生命ということの何か、死ということの何かを蓋をして見ず、または気づかずに美味しいところだけ頂く、というのは利己的で容易な生き方である。日常の食卓のために考えることなくスーパーにて購入する肉パック。そこには確かに血の臭いはない。
近年の人間世界、生活姿勢自体、人間のみ小奇麗に生きるためにすべての自然をそれに従えてきた、そんな感じがする。
人間というのも自然の一部であり、血と肉の塊にすぎず、しかも他の生き物の生命を頂戴しながら生きているという実感。狩りをしてやっと仕留めた獲物をすべて大事に頂戴するという生活をしているのは遊牧民族やエスキモー達だろうか。
人間対動物の暗黙の上の了解と神聖なる掟。
それはスペインの闘牛文化に未だ残る生死への直視である。
このような根源的な定義は当たり前のようでありながら気づかず通りすぎる事実である。しかしこれは実は生きる、己を見つめる、真実を模索する、という作業をする芸術家の心の琴線が敏感に反応する生死の問題であるような気がする。
近頃アレが追求しているmucca squartata (ばらした牛肉)のイメージ。
今までの抽象形と肌合いある色彩的イメージとは裏腹に忽然と血肉の臭いのするイメージを描き出したのは夏が終わった頃からであろうか。
アレの中にあるイタリアのルーツが再び浮上しているのがわかる。
昔からばらした牛や豚ソーセージや血のしたたるビステッカのイメージを描きたいと
いう思い、念願かなって今没頭している。
作家の真に描きたいイメージが必ずしも展覧会のために制作する作品と一致しないことはままある。現在の制作状況はまさにそんなところ。
このイメージが消化ー昇華ーされてどのような作品へと向かっていくのか今のところ
未知である。

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by jamartetrusco | 2009-01-17 20:38 | Arte di Ale(アレのアート)
2009年 01月 10日

紙の作品

紙の作品はどうやって展示したら良いのか。
常なる課題。
アレの黄紙油絵の作品はとても味わいがあり、今年のパリ展はすべて紙作品のみ
の展示にしたいと思っている。いつも影になっている作品群を全面に出そうと思う。
問題はどのように展示するか。
いちいち額裝するような予算はない。お決まりの展示ではあまりにもつまらない。
「洗濯物」のようにひもに吊るして大きなひとつのインスタレーションにする。
たくさんのイメージが交錯するひとつの森に入るような。
ただし会場は真っ白なwhite cubeでないのでその辺もむずかしい。
煉瓦色が入ってくるとどうしてもうるさくなる。
6月までの課題。

どなたか良い案ないですか。。。


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by jamartetrusco | 2009-01-10 22:15 | Arte di Ale(アレのアート)
2008年 12月 02日

先祖帰り

作家の作品制作というのは自身の本能的欲望、情熱、夢、拘り、嗜好、ある時期頭をぐるぐる巡る衝動から自然と出てくるべきものであろう。
もともと作家としてのアレはエトルリアやマニエリズム時期の精神文化、神秘主義、錬金術などに惹かれて、そこから得られる生命や宇宙の神秘と自身の存在との相互作用から作品を作っていた。それが彼の本来の姿である。

その後に日本との関わりができて、日本の文化、美術の持つ抽象の極致、意匠の斬新さに触れ表現が一変する。今までのシンポリズムに溢れる人物や風景やは消えさり、色彩と質感の勝ったひとつの事物を無心に追求する表現となった。抽象性も増した。
しかしそのような他の文化への憧れに似た傾倒も時期が来ればまた消化され、自身の属する文化や魂への追加的な栄養となるにすぎない。

今またひとつの転換期に来ている。無心に追求する姿勢は変わらないが、その主題が変わっている。肉食動物であるイタリアの血がむらむらと湧いてきている。人間をある種の肉塊として見るような生々しい表現が現れ始めている。動物の内臓で未来を占うような予言師が力を持っていたエトルリアのエキスが流れ出している。十字架にはりつけとなり血を流しながら死して行く救世主の存在する文化が浮上し始めている。血のしたたる分厚いビステッカを食べるトスカーナの大地が叫び出している。

そんな感じのする最近のアレの表現。この地で展覧会をする必要がある。
最近開廊したグレーベのギャラリーを初め他の空間を使って是非発表できたら
良いと思う。

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by jamartetrusco | 2008-12-02 19:38 | Arte di Ale(アレのアート)
2008年 11月 14日

心の中の神殿

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アレのBicのボールペンでのデッサンはその日その日の気分が
出ていてとても正直である。
デッサンが時としてより面白いのはまさにその部分である。
完成させようという気負いがなく一瞬の閃きがそのまま手先に
現れるからである。
夏のヴォルテッラでの展覧会でもてあました時間の多くはこの
デッサンの小本に結晶となって残っている。
この時期のデッサンが今の彼の描くテーマの源ともなっている。

心の中にある神殿。エトルリアの神々の囁きが息吹となり自身の
心の拠り所の再発見へと繋がる。
自分の体、心、すべては頭にある思いの交錯した一塊
や蓄積された歴史の記憶から培われるのである。
頭は心へひとつの周波を発心し、心はその肉体の存在する意味を追求する。
黄金発見を目的とするアルケミスタのように心の黄金を発見することこそ
作家の生きる術である。

心の神殿。中にある宝の所在はこれからさらに掘り下げられる。


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by jamartetrusco | 2008-11-14 22:23 | Arte di Ale(アレのアート)
2008年 10月 18日

失敗それとも必然的

この数週間、絵画表現に向かっているアレ。
何を表現して良いのか思いめぐらした時期が長かった。
今でも自分の中でもやもやしたものが在るのは見ていてわかる。
でもそれも時間の問題。やっと見えたてきた何かがあるようだ。

下地を砂地で入念に準備してそろそろ何が出てくるのだろう、
と期待していたら次の日真っ黒のドロドロの画面があった。
あーまたドロドロになってしまった、と思った。
そしてそのどろどろを克服しない限り次に進まない。
精神、表現が沈殿する、ということの表出。
ところがこのどろどろの色は何故か翌々日に消え去っていた。
下地の具合が悪くて全部溶けてしまった、とがっかりとスタジオから
キャンバスを持って出て来た。
ところがその溶けてしまった跡の方がよほど良いように思った。
だから、もうそのままにしておいた方が良いのでは。

という私の言葉に納得したのか、ひとつの絵となって残っていた。

失敗の結果なのか必然なのか。
制作の中の不思議である。

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by jamartetrusco | 2008-10-18 21:15 | Arte di Ale(アレのアート)