トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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カテゴリ:Arte (芸術)( 127 )


2010年 12月 16日

美と醜の表裏一体

美と醜はときどききわどい一線を画しながら表裏一体の様相を持つ。
アンセルム・キーファーの作品を前にすると常にそういった感慨が生まれる。
彼の作品はとにかく巨大である。ヴォイスを師匠としたことが一目瞭然に理解
できる物体と観念の合体した物質的、物理的作品群。枯れ木から落ち葉から
土から金属から様々な有機物が各々の発言力を持って画面や空間を埋め尽くす。
静けさの中に喧噪が隠れているような表現。その白黒の画面には血のような
赤が点々とする。モノクロームの世界に滴る色。傷口から血を流すかの
ような雪に被われた自然の荒野原。
人間の極致である死を直視するその視線。
美と醜が表裏一体に顕され、人間の本質を見極めようとする。
彼の作品に明るさはない。デューラーのメランコリーが漂う。
同時にドイツ美学に欠かせないフリ−ドリッヒの幻想的ロマンチシズムも潜んでいる。
これだけ大きな彫刻やキャンバスを制作する作家のエネルギーは一体なんだろう。
作品は収まる所を探しているようには思えない。
美術館での展示にすら大きすぎるかに見える作品である。
作家の表現の力が留まるところを知らずに与えられた十分に大きい制作空間を
100%駆使して実現された物質的絵画。箱の数々。
聖書の1ページを開く行為に似た、極めて抽象表現的な作家の心の記念碑。

ニューヨークにて見た彼の最新の作品群。ガゴーシアン・ギャラリーでの個展
あった。

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by jamartetrusco | 2010-12-16 07:15 | Arte (芸術)
2010年 11月 24日

象徴としてのひまわりの種

ロンドンのテート・モダンのターバン・ホールでのアート・プロジェクト。今回観たのは中国の作家アイ・ウェイ・ウェイのひまわりの種プロジェクトである。彼は一昨年の北京オリンピックの競技場の鳥の巣ような建築をデザインしたことで有名だが、元々はインスタレーション的彫刻作品を作る現代の作家として世界的に認められている。中国大陸のアーティストが時とするとグローバル化した現代アートの傾向を単に模倣的追従するだけのものに終わる中で、異色なエネルギーを見せている作家である。父親が毛沢東に意義を申し立て度重なる弾劾と迫害を受けた知識人であることもこの作家の制作哲学を見る上で見逃せない事実である。
今でこそ資本主義を自国の発展のために利用した経済政策を打ち出し、世界の経済大国にのし上がった中国であるが、国の根底は未だに独裁政権と貧富の著しい落差、人権侵害、言動の自由の制限の上に成り立っている。アイ・ウェイ・ウェイは自国の長い歴史と文化を再評価し、その中にある矛盾と困難を直視する。その表現はアートに興味のないものでも大変理解しやすいものであると言える。

ひまわりの種プロジェクトは過去5〜6年に渡って実現されたもので、要を言えばたひまわりの種をホール一面に埋め尽くしたインスタレーションである。何が特別かと言うとこの原寸大のひまわりの種は本物のように見えて実は磁器製であることである。いったい何個の種かできているのだろうか? 少なくとも一億個はあるだろう。
これらの種は古くから陶磁器生産で有名な景徳鎮にてこの2年半をかけて2000人足らずの職人の手を借りてすべて手作り、手描きにて制作されたものである。制作過程の簡単なドキュメンタリー映画を上映していたが、今では往年の繁栄の見る影もない景徳鎮の寂れた感じの窯業場で、ほとんど家内工業に近い職工達が毎日毎日無数のひまわりの種を作っていく様子はユーモラスでもある。手先の器用さは抜群であるから摘むのも技がいるような種の型をした白地の磁器に筆で上手にひまわり独特の筋を描いていく。内職として家事の傍らに家に持ち帰って作業する女性達もいる。これらの人びとは一律にいったい何のためにこんなにたくさんの数のひまわりの種を作るよう頼まれたのかわかっていないのだが、仕事とお金をもたらすということでこの作家を「ひまわりの種」の人と呼んで歓迎したらしい。あるひとつのダイナミックな芸術形体の制作とそれに協力する無名の人びとの日常作業の超現実的な交わりが面白い。
毛沢東が自身を太陽とし、中国人民はその太陽のある方向に向くひまわりである、と喩えたプロパガンダヘのひとつの異議申し立てとしても取れるこのインスタレーション。当初は種の絨毯の上を人びとが歩き、触ることによって体験できたのだが、踏まれた磁器製の種から細かい粉塵がたちのぼり、それを吸い込む観衆の健康への危惧から衛生法によってその場を歩くことは禁止されてしまった。今はただ外から観賞するのみであるのが残念である。10数億の人民を象徴するひまわりの種、国の力の影に踏みつけられる多数の人民の存在、という意味も含まれていたに違いないから。

ほとんど色のない灰色の世界。灰色の無数の粒からなるこのインスタレーションは寂とした白黒の大海原を視るような美しさがある。。簡素な形体が集まった中から生まれる不思議な光景とそれが象徴する風景。概念的ではなく本能的理解を促す。

大きなスケールのプロジェクトであるが何と言っても中国製であるという事実は過去の多くのプロジェクトよりも費用がかからなかったのでは、と思うのは下世話な想像である。

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by jamartetrusco | 2010-11-24 00:27 | Arte (芸術)
2010年 11月 04日

Tusciaelecta

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Tusciaelectaトゥッシァエレクタと呼ばれるキャンティ地方の各都市を中心に開催される現代美術展がある。1996年に発足し、キャンティ領域内の様々な町の中の屋内、屋外の会場に点在した形で企画される広範囲の地域展覧会である。地域の歴史や自然に見合った作品の展示や常設の設置など様々な形でアートを地域に広めていこうという動きである。発足した1996年はかなりの規模で作家もマリオ・メルツなどの世界的に著名な作家も含まれてのものだったが年々景気を繁栄してか小さくなってしまったのはやや残念である。しかし続けることに意義があるとも言える。
今年はインプルネータ近辺に焦点を当てて企画された。インプルネータはフィレンツェ圏内にある小都市で、11世紀建造のサントゥアリオ・ディ・サンタ・マリア教会が広場に堂々と建っている。この教会は基盤はエトルリア時代と云われ、この地域内では特に重要な歴史建築物と見なされている。
この他にインプルネータが有名なのはそのテラコッタ産業である。フィレンツェの大聖堂の円蓋の煉瓦も建築を担当したブルネレスキがこの地域から求めた伝えられている。中世、ルネンサンスの時代から煉瓦造り、テラコッタ造りで栄えた地域ということ。良質の粘土がこの辺りに豊富であるのがまず第一。赤レンガではシエナ圏がとりわけその製造と使用で有名であるが、インプルネータの煉瓦の
方が土質が良いのか寒さに強いと聞く。ひび割れる危険性が少ないということであろう。

この展覧会のメイン会場はインプルネータの町から少し出たところに位置するPoggi Ugo—ポッジ・ウーゴーというテラコッタの工房。この工房は14世紀から存続し、この地域では最も古く大きい窯場と言われる。他にあまり見られない正方形や渦巻き型など珍しい形の植木鉢や壷も生産しており現在の経営者がデザイン志向で、自分たちの工房の特殊性を打ち出そうとしているのがわかる。処狭しと並んでいる大壷の群れ。やや白味がかった赤色の質感は通常のねっとりした赤色とは違ってなかなか美しい。デザインも通常の花や果物のモティーフがふんだんに使われた装飾過多のものは少なく、すっきりしている。

この工房で制作した煉瓦を使った作品としてアメリカ人の彫刻家Alain Sonfistの常設インステレーション、題してBirth By Spearのお披露目があったのだが、自然との共鳴を目指すランドアートとしては幾分力に欠けるように思えた。せっかくの素材と自然を活かしきれていない。この作品よりそのシンプルさと大きさで目に留まるのはイタリアの彫刻家、Staccioliスタッチョーリのテラコッタ製の大円形。空の一部を内包したような大円。スタッチョーリは以前記事にしている。
同じ円形であるが金工の質感と違ってテラコッタ素材の温かみが加わった。

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町中にあるマシーニ工房では年の半分はフィレンツェ近郊の自宅スタジオに住むアメリカの女性作家、ベッティー・ウッドマンの作品が展示されている。工房の内部には古くから使用されてきた煤で真っ黒になった貫禄ある室窯がいくつかあり、その中での展示。この古い室窯は現在は使われておらず、歴史を見せるための展示品のようになっているようであるが、歴史の重みを伝えてくれる圧倒的な存在間のある空間。代々続くテラコッタ生産の情熱を語ってくれた若主人。作家とも長い縁だそうで、彼女の作ったカラフルな釉薬のかかった作品は黒い窯場を背景に効果的だ。


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by jamartetrusco | 2010-11-04 20:00 | Arte (芸術)
2010年 10月 03日

名画を細部まで見る

イタリアの宝である絵画の名作がテンペラのひび割れまでの細部まで見ることが
できるサイトがある。名前はHaltadefinizione、文字通り「高画質」のalta definizioneにどういうわけか
Hがついている会社。
このサイトを検索するとフィレンツェ、ウフィツィ美術館の代表収蔵品であるボッティチェリの
「春」や「ヴィーナスの誕生」、レオナルド・ダヴィンチの「受胎告知」、ブランツィーノの
「エレオノーラの肖像」、同じくフィレンツェのサンタ・フェリーチェ教会内のポントルモ作の
「キリストの降架」、その他にはミラノにあるレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」などの名画が驚くほど細部まで見ることができる。
画家の筆さばきから絵の具の状態などことごとくわかるから面白い。
興味のある方は検索してみてください。

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by jamartetrusco | 2010-10-03 21:29 | Arte (芸術)
2010年 09月 03日

友人の展覧会

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2005年以来友人の神道知子さんの京都での個展のご案内。
京都のMori Yu Galleryにて。

Mori Yu Gallery Kyoto

フィレンツェ、京都姉妹都市提携40周年記念の際にフィレンツェ
出のアレと京都出の知子さんとで当時の京都在イタリア文化会館にて
2人展を行った。題して'Terra e Aria', 「大地と大気」。
土の素材感があるアレと気を感じさせる知子さんの対照的とも言えるふたりの作品。
2013年にはドイツのケルンにて再度2人展を計画中である。

知子さん、展覧会のご成功をお祈りしています。
Bocca a Lupo!
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by jamartetrusco | 2010-09-03 15:59 | Arte (芸術)
2010年 05月 04日

再び木彫

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先日紹介した木彫家ルカに続いて、惜しくも熟年期に亡くなっているGiorgio Picciniー
ジョルジョ・ピッチ−ニの作品展が同サン・フランチェスコ美術館にて開催されている。
作品展といっても彼も含めた10人の作家のグループ展で、手法は違うがグレーベ近くの
集落Lamoleに住むという共通項のある作家達である。
"4 Elementi" (四大要素)という題名に匹敵するような力強い作家は残念ながら彼だけである。
今は亡き作家へのオマージュを兼ねた展覧会である。
彼の作品に初めて遭遇したのはアレとこの地域に住み出した当初隣街のPanzano in Chianti
近くの人里離れたEremo alle Stinche という隠者の住むような僧院を訪れた際である。
薄暗い礼拝堂内に置かれていたオリ−ブの彫刻はキリストを象ったものと思われるが精神性を
強く感じさせる凄みのある人物像であった。
実際に会ったこともある。アレが初めてグレーベにて個展を開いたときに訪れてくれた。
隠者のようなどこか超越した感じの小柄で温和な人柄を今でも覚えている。
彼の作品はこの付近の小さな教会内に置かれている場合があるが、ほとんどの場合ミサのある
日曜日以外は閉まっており、なかなか日常ではお目にかかることはないので今回の展覧会は
貴重な機会でもある。

作品数がもう少しあると良かったがそれでも置かれているオリーブの彫刻はいずれも迫力あるもの。
オリーブの木の歪曲した形体から人間が自ら外に出ようともがいているようなどこか痛々しい作品。
彼はおそらく病を煩い死を予期していたのだろうか、生命と死を強く感じさせる作品ばかりである。
木彫というと仏像である日本とは対照的にカトリックのイタリアではキリスト像や聖母マリア像である。
そして人間を抱擁するかのような仏教に対して痛みのあるカトリック教の精神文化の根本的違い。
生命の誕生もどこか生々しい。赤子を抱く像を取り巻くいくつかの顔面は何を意味するのだろう。
十一面観音と同じような功徳の意味を持つのだろうか。
語るのは今では作品のみである。

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by jamartetrusco | 2010-05-04 16:48 | Arte (芸術)
2010年 04月 23日

木の魂ーAnima di legno

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グレーベのサン・フランチェスコ教会はやや小高い位置にあることもあって通りがかる人は
一度はその広場に寄ってみたくなるような場所である。教会としての機能はすでにないが
中に小さい美術館がある。収蔵品は突出したものはないが、しかしときどき興味深い小展覧会を催す。
イースターの後たまたま寄ってみて出くわした展覧会、題してAnima di Legnoー木の魂。
アレと同じく森林や野原でみつけた木株や川床や湖などで水に洗われて年期の入った
木の断片などを彫り込み立体像を作り出す、Luca Mommarelliールカ・モンマレッリの作品展である。
素材は土台以外はすべて木である。焼けこげて黒く変色した木の断片を艶やかな肌合いまで
彫り込み動きのある人物像と変貌させる。木目の美しさが光る形。木の自然のままの
曲線と歪みをそのままとどめ、そこに根っ子を彫り込んだ頭部をつけた人物像。
中庭に設けられた古びた農具を埋め尽くすのはやはり根子を彫り込んだ頭部。
まるでトロイの馬のような貨車の中から列をなして現れる木の人物達。
すべてのインスタレーションの主役はここでも「木」である。
独学で学んだという木彫りの技術は初期のリリーフ作品を見ても明白である。
ブリューゲルの有名な絵画を木版にリリーフとして彫り込んだ作品など、一度彫り損じて
しまったら修正もききにくいだろうからその技はなかなかのものである。

木の魂を彫り出すルカ。木にとことん惚れ込み、木を知り尽くしてこそできる仕事である。

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by jamartetrusco | 2010-04-23 00:12 | Arte (芸術)
2010年 04月 12日

知られざるアフリカ

近頃どういったら良いのか、様々な展覧会を見てもなかなか感動できなくなっている。
美術という無限なる領域の中で過去何十年にもわたり絵画史、美術史に名を残す様々
な作家、学派などの展覧会を網羅してきた。まだ体験、知識が少ない時代に実物の
作品の前に感じる新鮮な驚きや感動は今では再体験することは難しい。これは「知る」
ということの弊害であろう。もちろん見れば見るほどに見えてくる真実というのもある
のだが。
見た後になるほどと頭にて消化する展覧会は幾度となくあるが、魂に訴えてくるような
感動を与えてくれる美術展覧会というのはあまり多くはない。

今回の短いロンドン滞在中に見た展覧会 "Kingdom of Ife"はそんな中で新鮮な驚きを与えてくれた。
12〜15世紀にかけて現在のナイジェリアの南部にあたる地域に栄えたIfe王国のブロンズ、テラコッタ、石などの彫刻を見せる。今までアフリカ美術というと木やブロンズ製の人間像や仮面で、いわゆるピカソが影響を受けたと言われるような一群のプリミティプで力強い彫刻を思い起こす。
扱いも文化人類博物館の範疇に入っている場合が多い。しかしこのIfe王国の頭部彫刻は全くそれとは趣きが違う繊細で技巧に長けた、まさにその人物を目の前に見るかのような自然さと独特の美学がある。王侯貴族の頭部なのだろう。顔に縦に走る細かい線が彫り込まれているが、高貴な地位の象徴と思われる。
20世紀初頭にドイツの探検家のレオ・フォルベニウスが発掘するまで西欧では知るものもなかったいかなる西欧彫刻にも劣ることない卓越した彫刻群である。
ひとつづつの顔の表現から発されてくるのは誇り高い魂の平安である。奥底から来る微笑みに近い淡々とした柔和な表情である。それはどこか仏像の笑みに近い。彫りの巧みもどこか控えめな無名の作家の純粋な巧みである。
西欧一辺倒の美術史に新たな光を与えてくれるの違いない。まさに一見の価値がある展覧会である。「知られざるアフリカの偉大」を発見させてくた。


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by jamartetrusco | 2010-04-12 18:10 | Arte (芸術)
2010年 03月 12日

再発見されたジョット

フィレンツェにあるイタリア・ゴシック建築を代表するフランチェスコ会の最大のバジリカ(聖堂)であるサンタ・クローチェ。もともとはサン・ロレンツォ教会と同様のピエトラフォルテによって被われた建築で、現在正面を飾る大理石肌の装飾は実は19世紀後半に追加されたもの。シエナやオリビエート、もしくはフィレンツェの大聖堂を元にしている。故にこの聖堂の様式とはかなりちぐはぐであると言える。

中にはダンテ、ガリレオ・ガリレイ、ミケランジェロ、マキャヴェリなどの偉大なフィレンツェ人の墓碑がある他、16の礼拝堂がある。このひとつであるペルッツィ家の礼拝堂にある初期ルネサンスの巨匠ジョットによるフレスコ画「洗礼者聖ヨハネ」と「福音書記者の聖ヨハネ」に関してつい数日前大きな発見が発表された。このフレスコ画は後のミケランジェロなどに大きなインスピレーションを与えた新しい表現と言われるものであるが、14世紀に描かれた当時から現在までの時の経過によって後期の修復や汚れなどのおかげで幕がかかったようなぼんやりした表現のみ残っており、当時の面影はない。

ところが今回ロサンジェルスのゲッティ美術館とフィレンツェ修復局との協力にて初めてUVライト、紫外線の光を使った照明器具を当ててジョットの描いた人物像の全体像が浮かび上がったのである。肉眼でみると輪郭などはっきりないフレスコ画の色彩が紫外線の元に消え去りそこにくっきりと生き生きとした表現の血の通った人物表現が現れる。確かに両者を比べるとその違いは明白である。ミケランジェロが眺めた当時はこのジョットの肉迫した表現が見られたのであろう。(掲載画像の内、上が現在の状態、下がUV光のもと)

とは言えこの発見、UVライトを当てることのよってのみ見ることができるのであるから、一般の鑑賞者にはなんの恩恵もない。そして当時のジョットを再生しようと修復など開始したらまたこのフレスコ画が何年間垂れ幕と鉄棒の作業台の下に隠れてしまうかと思うと、修復作業も善し悪しである。

さらに思うに現在のテクノロジーを使って長い年月の汚れと質の悪い修復を取払い元の状態を戻そうという意図のもとに修復されたシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画や最後の審判、レオナルドの最後の晩餐などの結果を見ると現在の修復がどれほど良い結果を後世にもたらすか疑問である。というのもどんなに修復技術が進んだと言われても修復に使用される原材料の質は現在の方が劣っているのは間違いないからである。現在手に入る材料にてルネサンス期と同じ色彩と質を出すことなど到底無理にきまっているのだから。

人間の作り出したものは時のなすがままに触らず置いておいたほうが好ましいのでは、どちらかということ修復反対派に属する自分である。


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by jamartetrusco | 2010-03-12 18:36 | Arte (芸術)
2010年 03月 08日

芸術考

20世紀後半の美術において神秘は失われてしまった。今日のアーティストは即時の
そして完璧なる承認を得ようするーそれも魂の領域にて起こることに対しての即時の
代償を求めるーーー中略ーーーー今日、芸術として通用しているものは大部分、
フィクションー虚構である、なぜなら手段が芸術の意義と目的になり得ると思うのは
誤信であるから。
にもかかわらず現代の作家達は思うままにその手段を示すことに時間を費やしている。
「アヴァンギャルド」という事自体、精神性を着実に失いつつある20世紀という
時代に特有のものである。芸術における「前衛」は無意味である。たとえばスポーツなどに
前衛という言葉を使うのは理解できる。芸術に「前衛」を当てはめるのはまるで芸術に
進歩があるかのようだ。進歩が存在するのは技術においてのみである。芸術において
どちらかが進んでいるなどと言うことはあり得るだろうか?
「前衛」ということに関して話すとき一般的に「実験的」とか「探索」とかの意味で語られる。
それは一体どういう意味だろう。
芸術において実験などできるだろうか。失敗すれば制作者の落ち度しか見えないというのに。
ーー中略ーー
芸術作品というのは完璧なる美的,哲学的不変性を内に孕んでいるのである。そのもの自体の
法則により生き、変貌する生物のようなものだ。子供の誕生について実験などという言葉が
当てはまらないのと同じだ。新たな審美の構造が理解できないために、自身の範疇も
見いだせないために、間違えるのが怖いために、目新しく感じられ、
容易に理解できない物に対して「前衛」と十把一絡げにしたいだけだろうか。
ピカソの逸話が面白い。彼の目指す「探索」について質問を受けたときに、
ピカソは明らかに不満げに「私は探索するのではない、発見するのだ」と語った。

                 タルコフスキー著、"Sculpting in Time"より抜粋。


芸術に進歩などないのである。あるのは宇宙の本質の表象である。
その神秘を発見することが芸術である。


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by jamartetrusco | 2010-03-08 21:43 | Arte (芸術)