トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

jamarte.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:Arte (芸術)( 127 )


2010年 02月 11日

二つの展覧会

二つのある意味では対照的な展覧会をフィレンツェで見た。
ひとつはAlberto Boraleviの小さなギャラリー空間にて開催されている"Fuutou"展。
文字通り「封筒」展である。Boraleviは古い民族織物などを専門とするアンティーク
ディーラーであり建築家である。フィレンツェの貴族フレスコバルディのお屋敷の
一階の小さな空間にある展示室。天上高い空間の壁に処狭しと飾られた古織物に
混じって現代のテキスタイル・アーティスト4名の作品が展示されている。
ふたりはローマにて仕事をする日本女性、そして日本からの影響を受けたイタリアの
二名。封筒というタイトルが由縁する包むもの、箱、器などなどを象徴的に表すかに
見える糸や古布やfound objectが紡がれ、織り込まれたオブジェ。
旅の記憶と体験がそこに宿るかのようである。
赤の暖色が占める古い民族織物の壁面のある空間は暖炉の暖かさがあり、旧きヨーロッパのサロンのような小空間である。

これとは対照的にニューヨークのロフトを思わせるような広大なホワイト・キューブの
空間を持つGalleria Alessandro Bagnai。前者のギャラリーが旧市内に位置するのに対してこちらは郊外に向かう
車道に面している。もとは車の修理工場だった空間を改装している。
広々として天上の高い展示室は3つにわかれ、それぞれが一作家の作品展示に当てられる。

今回ここを訪れた理由はこの画廊の取り扱い作家であるPizzi Cannellaの最新作品を見るため
である。1955年ローマ生まれのPizzi Cannellaの作風は常にもやもやした色彩の平面に現実世界の物体ーときにはシャンデリア、ときにはやもり、または洋服とった物体が浮かぶといったー象徴性の強いものである。
エンツォ・クッキやミンモ・パラディーノなどのイタリア、トランスアヴァンギャルド派の系列を組むようにも思われる。新作はお茶でよごしたような古色蒼然とした粗地のキャンバスを木枠にはらないまま打ちっぱなしにして壁で釘で留めている。すべてが茶色のパピルスのようである。
壁一面を被うかのような横長の建築線を表した幻想的な空の風景。3枚一組の世界地図。そして天上から床まで届く縦長の作品。日本や中国の墨絵の掛け軸を想起させる。
描かれたモチーフも東洋の影響を明らかに感じさせる即興的な筆描写。笹の葉や扇子を散らした
ような襖繪のようなものもある。展覧会タイトルも”Orientale"ー「東洋」とあるから意図は
明白であろう。素晴らしい空間に映える統一性を持った作風がその大きさとともにある種の感動を
与える。
さて展覧会をともに訪れた友人作家のエレナのコメントが心に残った。
「この作品は明らかにこの画廊の展覧会のために、この画廊の空間のために描かれたもので
そういう制作にはどこか嘘があるようで自分は好きでない。作家は己の思いのままに制作しなければ。」
確かにホワイト・キューブの「現代アート」専門ギャラリーの空間は大きい作品を置くために
存在するかのようである。作家はその画廊空間のために制作作品も決めてくるというのは本当
かもしれない。とは言え作家が思いのままに制作できるのであれば自ずと巨大な作品を制作する願望が生まれるのも事実である。人間の本来持つ巨大願望志向、メガロマニアの表出は古代からある。一方こんな大きな作品を置ける個人邸宅も少ないのである。納まるところは美術館ぐらいしか
ないのか。

ここでまた作家が制作するのはなんのためか、という原点に戻る。
画廊のために作る作品はコレクターに売るため?美術館に納まるため?
誰にも認められなくとも自身の心の叫びが制作を促す、というのが本来の姿であろう。
しかし一旦取り扱い画廊ができればある種の達成感が生まれる。
一体作家で画廊が自分を選んでくれたことの喜びを感じないものがいるだろうか?
やはり教会とか貴族などの旧アートパトロンが消えてしまった現代に生きる作家の困難。
美術館、学芸員、美術評論家、そしてそれらに影響力のある金持ちコレクターが
価値を決めていくような状況は「個人」というレベルを無視して組織や官僚といった具体性のない
美術界という体制を相手にすることになるわけだから。


f0097102_21241943.jpg

[PR]

by jamartetrusco | 2010-02-11 18:58 | Arte (芸術)
2009年 12月 25日

The Sacred Made Realークリスマスの感慨

12月25日クリスマスにちなんで、カトリックという宗教から生まれた生々しいばかりの
宗教画とリアリズム溢れる宗教彫刻の展覧会を見ての感慨。
The Sacred Made Realという題名の地味ながら信じられないほどの力強い美術表現を体験できる展覧会である。
反宗教改革激しい時期のスペインのカトリック教への信仰の具現である。
絵画は見る機会があり新しい驚きはないが、彫刻作品には目を見張る表現がある。
超現実性を持つ聖人像や死するキリスト。血と肉が通う一人間としてのキリストの
生々しい肉体表現。色彩と彫刻の技の統合された不思議な世界である。
宗教のために心をゆだねる作家の意気込み。それとも単に教会から依頼されて生まれた
教会芸術の一面であるのか。
迫真に迫るとはまさにこのような表現であろう。
偶像信仰に近いどこかアニミスティックな原始的な叫びがある。

イタリアという法王おわすカトリックの国に住むこともあってカトリック信仰文化は
無視できない。しかし宗教の弊害があるのも事実である。人間は宗教の名のもとに他の文化を殺め、それを良しとできる歴史を持ち、それは現在も尚継続している。
その反面、信仰の力というのは人間の道義的行動を占める一つの肯定的要素ともなり得るだろう。
無信仰であればどのような行為も肯定できるであろうから。
自己の存在の無力を謙遜の気持ちで確かめ、より大きな力に存在を委ねること、本来の宗教とは
そうあるべきであろう。

f0097102_112535.jpg

[PR]

by jamartetrusco | 2009-12-25 01:05 | Arte (芸術)
2009年 12月 19日

Sculpting in Time

映画監督タルコフスキーの数少ない著書のひとつ、Sculpting in Timeを読んでいる。
「時間を彫りおこす」とでも訳せようか。自身の映画に対する美学、哲学ばかりでなく芸術の在処を語るタルコフスキーの詩人たる側面が浮かびあがる一冊である。中でも特に興味を持って読んだのが"Art - a yearning for the ideal"ー「芸術ー理想への願望」という一章。私が常日頃感じながらも言葉足らずで思うように表現できない芸術に対する把握、思想を端的に綴ってくれている。芸術というのはいかなるメディアー絵画、彫刻、音楽、詩、文学、映画などなどーであっても多かれ少なかれ真実の発見に向けての表現をするものには共通する神的なインスピレーションがあると思う。
しかし芸術とは一体なんであるのか?という問いかけに対して答えを求めるのは難しい。この未知にして無限なる広がりと底知れぬ力のある芸術の意義と認識に関して、映画という一芸術の中で「本物」の作り人であるタルコフスキーがその答えを模索する。

「すべての芸術の目的は<消費者>対象に売り物という意識で作られたものでない限り、芸術家が自身と自身の周りの人々に対して、いったい人間は何のために生きているのか、自身の存在の意義はなんであるかについて問いかけ、答えを解き明かそうとすることにある。」

芸術の役割とは「知る」という試みである。終わりなき「完全なる真実」追求の旅。

「芸術は精神性、理想を求める時を超越した飽くなき願望の中から初めて生まれる。その願望こそ人々を芸術に惹き付けるのである。現代アートがどこかで道を間違えたかに見えるのはおそらくそのような存在意義の追求を捨てて、自己意志の表現のみに基づく一個人の価値の是認を知らしめるためだけに走っているからだろう。」

そして真なる芸術は美と醜、生と死、調和と緊張など、相反する2元性を内包するものである。

「無限という概念は言葉で表現したり、解釈したりすることは不可能であるが、芸術を通して認知することができる、芸術を通して無限を感触することができる。」
「創造を目指す葛藤の唯一の条件は自身の営みを信じること、自身を捨てて無になること、そして妥協しないこと。」

自己表現などと言うのは真の芸術たるものに成り得ないのである。ここに60年代以降のアート界の嘘と無理が隠れている。作家の意志、個の表現を表そうとすればするほど真なる美は遠ざかっていくのであろう。

人間の個や自我を超越して、存在の過去、現在、未来を抱擁する無限なる芸術の美を発見する。そこには生と死を内包する人の存在の真実が刻まれている。それでこそ真なる芸術は人の心を震えさせるのであろう。

f0097102_3181678.jpg

[PR]

by jamartetrusco | 2009-12-19 03:01 | Arte (芸術)
2009年 11月 30日

Borse Nere come Nidi ー第三弾

f0097102_22275373.jpg


友人の作家エレナのBorse Nereイベントの第3弾を飾る展覧会"Borse Nere come Nidi"が12月5日(土)にフィレンツェのSS Annunziata広場にあるブルネルスキの建築によるもと捨て子養育所の建物内のサローネ・ブルネレスキにて一日イベントとして午後3:00から7:00まで開催される。
Istituto degli Innocentiとして知られるこの建物は現在でも子供や家族のための施設として様々な活動をしている。
Borse Nereのイベントは2007年の7月、エレナが別荘を持つカプライヤ島にて始めて行い、2回目のBorse Nere come Rondiniは今年の5月、スカンディッチの図書館内にて催された。
そして今回が3回目、最終回である。
エレナの黒い鞄は中に含まれる彼女の半世紀を黒い本の中に収めてツバメのように旅立つ。
旅の最終地として選ばれた生まれ故郷のフィレンツェ。展覧会タイトルにあるNidiとは巣のこと。まさに巣に戻るツバメの暗喩を含めてのタイトルであろう。
彼女とともに参加する視覚作家、作家,詩人、建築家、グラフィック・デザイナー、写真家は39名。アレもその一人である。
今回はどんなイべントとなるか。

f0097102_22281187.jpg

[PR]

by jamartetrusco | 2009-11-30 22:32 | Arte (芸術)
2009年 11月 12日

新旧のアート・パトロンの格差

ヴェネチアという水上の夢のような古都にて現代と近代の新旧のアート・パトロンの典型とも言える二人のコレクションを収めた美術館がほぼ並立している。
アカデミア美術館からさらに歩いて行った大運河沿いに昔の栄光を讃えながらも静かに佇むペギー・グッゲンハイム美術館。建物も蔦がからまり、個人邸宅をそのまま美術館にしているので空間も人間レベル。人が多いと作品を拝めるのがやや窮屈なぐらいであるものの、その秀逸な近代絵画のコレクションは真に宝物である。同じ作家でもその選ばれた作品の質は絶品である。あまり好きな作家ではなかったホアン・ミロの作品がこんなにも魅力があったのかと驚く。ジャコメッティの初期の美しいトルソ。永遠の美の姿。ここに収まっているピカソもベーコンも素晴らしい。
彼女が初めて世に認めたとも言えるジャクソン・ポロック。そして一時彼女の夫であったマックス・エルンストの作品も逸脱している。まだまだ挙げたらきりがない。

f0097102_1912058.jpg


50年代の力と夢ありのアメリカのゴールデンエージを飾る人物と言えるペギ−・グッゲンハイム。その時代のヨーロッパと関係を持つアメリカの文化人の典型である彼女は自身もジュエリーをデザインしたりアーティストとしての感受性を持ちながら何と言っても資産家であるグッゲンハイム家の経済力を駆使して当時の売れない作家をサポートするのである。
真の意味での趣味人であり、エクセントリックな洒落者、決して美人でもないのに人を惹き付ける人間的魅力。50年代の良き時代の文化人の象徴とも言える。
要するにお金があり、それを芸術と文化のために有効に使った昔ながらのアート・パトロンである。
さてこの趣味の良い輝く宝石のような美術館を後に運河沿いに歩くと現れるのが、大運河とジュデッカ運河を分ける三角州の突端につい開館したばかりの美術館がPunta della Doganaである。文字通り「税関の先端」。もともと海運で栄えたベネチアの港通関所であった17世紀の建物であるが、安藤忠雄の設計にて美術館として今年のべネチア・ビエンナーレに合わせて6月に開館した。収められたいるのはフランスの企業家の大富豪(グッチグループやナイケその他有数ブランドなど持つ)フランソワ・ピノーのコレクション。建物は昔の面影を残す船着き場の巨大な空間であり、ただただその空間の広大さと
船に関わるベネチアの歴史の偉大をまず感じさせる。空間自体が歴史という力に支えられている。
ところでそこからが問題である。現在開催中のコレクション展。Mapping the Studio。

f0097102_1914047.jpg


ピノーに選ばれることによってどれだけの恩恵を被るかは想像できる。例えばオークションに出した場合に価格が保証されるとか、要するに経済的な部分では作家は潤うのであろう。しかし!
なんという趣味の悪さ。Gaudyと英語の形容詞がぴったりのけばけば、派手はでしい、グロテスク、成金趣味、大きいだけが取り柄、こけおどかし、話題性、金に飽かす、、、。とにかく通常ましな作家までこのコレクションに入っている作品は趣味が悪い。はっきり言ってまともな作家であれば彼のコレクションに入ったら格が下がるような気がするのでは?!
ここに入ったら作家としての墓穴を掘ったと言うしかない。
いったいこのピノーという人物、チャールズ・サーチとともに現在のアート界を悪くしている張本人の一人であろう。

ペギー・グッゲンハイムという自身の美学を信じて秀逸な作品を集めていった前者の古く良きコレクターと比べて、金にあかして自身の富をさらに増やすために美術館を作っているようなこのピノーという成金コレクターのなんと限りなく現代的なことか?
すっかり憂鬱になってしまう美術館であった。しかしその反面、こんなに悲惨にアート界状況、
真剣な作家の生きる余地があるというものだ。
さらに輪をかけて悲劇的なことに、このピノーがヴェネチアにて以前から優れた展覧会の企画で有名な18世紀の屋敷空間、Palazzo Grassiの持ち主となり、この趣味のよかった展覧会会場が新たなる成金趣味の殿堂と成りかわってしまったことだ。ここの内装建築設計も安藤忠雄、この常にワンパターンな空間形成、なんとかしてほしい。18世紀の技巧を生かした装飾天井もすべて白壁白天井に被い尽くしてつまらないホワイト・キューブになってしまった。
皮肉にもこの展覧会場の元のパトロンはイタリアの昔ながらの文化人の今は亡きフィアット会長のジャンニ・アネッリであったのである。ここも、世代交代、新旧入れ替わり、美が醜に制覇された結果と言えよう。
最後にアレと訪れた「バルテュス」の展覧会を思い出し、強者どもの夢の跡、これからそんなに長くは続くまい、と最確信した。
[PR]

by jamartetrusco | 2009-11-12 19:13 | Arte (芸術)
2009年 10月 15日

カラヴァッジョとベーコン、今日の感慨

イタリア、バロック画家の代表とも言えるカラヴァッジョとアイルランド生まれの画家フランシス・ベーコンを組み合わせた展覧会がローマのボルゲーゼ美術館にて開催されている。二人の時代も文化背景も全く異なるこの画家を並列して見せるというアイデアはある意味で現在の美術の見せ方を示しているようである。美術に東西、古今を問わずにその価値をひとつの焦点のもとに見せるという学芸の一志向である。従来行われて来た学派による展示、同時代の傾向を見せる展示、ある画家一人の作品紹介、などなど過去に様々な展覧会企画が試みられてきたが、時代と文化、国を越えてひとつの接点を見いだすという企画はすべて種も技も出し尽くした展覧会のあり方に飽きてきた現在に残された手段の一つであろう。
ともすると曖昧な選択肢による意味のない展覧会になる危険性もある。こじつけ?としか見えない後からの言い訳的展示主旨にもなりかねない。そしてお互いの作品を殺し合う結果ともなりかねない。

いったい肉体と精神の葛藤に表現のエネルギーをぶつけた400年の隔たりのあるふたりの画家の作品をつなぐ糸は何か?カラヴァッジョとベーコンに通じる日常の常識や平穏無事に身を寄せない生き方やダイナミックな表現方法、カラヴァッジョの明暗、chiaroscuroの表現様式、ベーコンの黒いキャンバスと叫びのある人物、生と死への直視、眼にする絵画は全く別物であるが、表現の背後にあるエネルギー源はどこか共通項があるようである。
このふたりがいずれも生存する画家であったならそれぞれが異議申し立てを唱えたに違いない。
この展覧会、どちらの画家も好きなので是非開催中に訪れてみようと思っている。
実際に並列された作品を見てから善し悪しを決めたいと思う。

美術評論家、批評家や美術館学芸員、ギャラリスト、美術を手段に仕事をするこれらの職種の人々に対してどこか言いようのない不満と諦めの気持ちがある。
自身の美術に関わる仕事をしているのでその分野への感心は多いにあり、また夫も画家であるから
実際に生きる術をいかに見いだすかなど日常の悩みと絶望感の源でもある。
どっぷりと美術につかりながら一体なにをして美術の上下の価値を決めるのか、わからなくなってきたこの頃である。
作家、芸術家などというのは職業に成り得ない。一人の人間の人となり、生き方、哲学である。
批評家にあれこれ言われるような状況に自身を晒して作家としてどれだけの満足感があるのかもわからない。ファクトリーのような他の多くの人々の力を借りた作品ではなく久々に(もしくは初めて自身で)筆を取って自作絵画を発表したダミアン・ハーストへのほとんどの批評家からのブーイング反響を読んで、批評家というピラニアのような軍団に寒々しいものを感じた。もともとあまり好意を持たない作家であるハーストであり、メディアを使ったその戦略は最後には自分の落とし穴となることは明白であるにせよ、作家が新たに作品を作りだすことのエネルギーは並大抵ではないのであるから。

ベーコンもカラヴァッジョもその意味ではまわりの反応や批評など蹴散らして自らの表現の許すままに人生を生き抜いた作家であることは間違いない。

f0097102_22365355.jpg

[PR]

by jamartetrusco | 2009-10-15 22:38 | Arte (芸術)
2009年 10月 04日

美しい形の根拠

いったい何をして美しい形、を決めるのか。
様々な形がこの世の中を埋め尽くしているが、其の中から「美」を感じさせる形がある。
その形を美しい、と把握する根拠は何か。
美術史を知り尽くし、美の理解を深めたわけではない限られた世界に生きる人の作る
形が何故にこれほど説得力があるのか。
名の知れぬタイの陶工の作った壷の形。
コンゴの生活雑器。
楽器として作られたアフリカのモニュメント。
これらの美しさは説明の余地ない。無作為の美である。
美しいものを作ろうとして作られたわけでない。


f0097102_2248264.jpg


f0097102_22482251.jpg


f0097102_22534440.jpg


説明不可能な美という実体に時々戸惑いを感じる。
知れば知るほど遠のいていいくような、知らないが故に到達できる深淵のような。
人間の智慧などこれらの無限な力に比べればいかなるものか。
ただこれらのものを美しいと感じられる目線の由来は何か。
美の追求は自分の尾っぽを追いかける蛇のようなめくるめく無限の探求であろう。
[PR]

by jamartetrusco | 2009-10-04 22:50 | Arte (芸術)
2009年 09月 28日

ある陶芸家のスタジオ

f0097102_23544781.jpg


あるオランダの陶芸家のスタジオを訪れた。
アムステルダムのOoster 公園の近郊にあるこのスタジオは今年初めに引っ越してきた。
住まいとスタジオを兼ねる小さい空間からの移転。やや中心からは遠のいたものの
その広々として自然光あふれる空間は彼にとっては最高の賜物である。
オランダの多くの作家は政府の助成金によりこのようなスタジオを借りる幸運を
得ている。近頃はそうでなくなった、とこぼす彼ではあるが、イタリアや日本の状況
に比べると天国である。住まいにしないことを条件に格安に借りられるこのアーティスト
専用スタジオ。アパートの同棟に数人の作家が共存する。
彼の作品は妥協を許さない。ろくろでひいた壷の形体をカットして抽象形を構成していく。
裏と表、光と影、色の濃淡が完成形を決める。
ひとつの作品を完成させるまで数ヶ月かかると言う。
半乾きの状態で削りを入れ形をさらに定めて行く。
釉薬の意外な色調が彼の特徴でもある。鋭い形とは対照的な淡いピンクやオレンジ、青、緑、紫。
オランダという空の低く、雲の厚く、水の多い土地柄であるからこそ生まれる色合い。
グレーやモノトーンの背景に映えるシュールな色。
水や空に効果的に映ろう人間の夢や祈りを表す色。

世界の陶芸界でも中堅の作家としてその名は知る人ぞ知る。その作品はこの9月オープンした
ばかりのロンドンのV&A美術館のセラミック・ギャラリーの広報イメージにも使われた。
そんな彼は実に人間味あふれ、誠実,謙虚、ともにいて気持ちの良い人柄である。
奢りや虚栄心や野望が皆無の作家である。だからこそ生まれる純粋で本質的な表現。

その名はWouter Dam
[PR]

by jamartetrusco | 2009-09-28 23:59 | Arte (芸術)
2009年 09月 24日

物語のあるオブジェ

 Telling Talesという楽しい展覧会がロンドンの工芸装飾美術館であるヴィクトリア・アンド・アルバート美術館にて開催されている。家具、照明など日常に使われる機能のある形体が展示物であるのだが、それぞれの物体はさまざまなデザイナーの思いのままの物語が繰り広げられひとつの不思議なオブジェとなっている。
機能はほぼ無視したものもあるのだが、思いがけない素材の使用やシュールリアルなオブジェとしての家具などみていて飽きない。Telling Talesという展覧会の題名の通り、物語のある家具達である。副題も面白い。「現代デザインにある空想と悪夢」 そして3つのセクションに分かれた展示室。第一室はForest Glade, 森の奥深く、妖精世界を喚起させるような自然や空想風景、第二室はEnchanted Castle, 魔法にかかった城、歴史的なデザイン様式の誇張やパロディー、そして最後の部屋はHeaven and Hell, 天国と地獄、文字通り人間が避けることのできない死と死後の世界。
森にうごめく妖精達の悪戯か、天国へつながる階段か地獄へ導く扉か。そんな想像力を駆り立てる展覧会のコンセプト。デザインという分野の地平線の広がりを感じる。
デザイナーの生まれを見るとかなりの割合がオランダやベルギーのデザイナー。
彼の地の伝統がシュールリアルな表現に長けているのかとも思う。ベルギーと言えばボッシュから
始まり、アンソール、マグリット、デルボーなどシュールリアルな表現を好む作家が多くいるようだ。オランダは思い起こすのはエッシャーぐらい。しかしフェルメールやレンブラントも自身の精神世界を追求した意味では超現実的な表現とも言える。
この展覧会のサイトの構成もなかなか優れている。展覧会の主旨にあった物語性のあるデザイン。
ひとつひとつの展示物もすべて網羅されている。
子供の持つ想像力と新鮮な驚きをもって創造された奇怪なオブジェ達を前にデザインとアートの統合、ものつくりの面白さ、物語のあるオブジェという新たな一分野の発見を促す展覧会である。

f0097102_16354919.jpg

[PR]

by jamartetrusco | 2009-09-24 16:38 | Arte (芸術)
2009年 09月 11日

展覧会情報

フィレンツェと近郊での展覧会2件。

友人のアントネッラ・ブッサーニッチの個展。
Casa della Creativitaという元僧院の回廊の空間にて。
2006年から現在に至るまでの彼女の軌跡を語る展覧会。
フランスで活躍する彼女の久々の故郷フィレンツェでの作品紹介。

チェルタルド。ボッカチオの生地にて有名な古い美しい町のPalazzo Pretorio (管区長屋敷)
での展覧会、Concreta 2009、「土の彫刻」展。
イタリア、フランスの陶芸家のグループ展。
[PR]

by jamartetrusco | 2009-09-11 23:49 | Arte (芸術)