トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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カテゴリ:Libri (本)( 12 )


2011年 11月 07日

根付けに関わる家族史

根付けの250以上の数に渡るコレクションを日本に長く住んだ大叔父の死より
受け継いだことをきっかけにそのコレクションにまつわる家族の歴史を解き明かして
行くというやや探偵小説的な面白さを備えるとともに、巨大な富と文化背景を
持ちながら大きな歴史の流れに巻き込まれ悲劇的結末を迎えるユダヤ系ロシア
の家系の雄大な歴史ドキュメンタリーでもある。オリジナルタイトルは
The Hare with Amber Eyes
琥珀色の目を持つウサギ。ウサギの形の根付けの一作品から来た題名である。
著者はイギリスで活躍中の陶芸家のEdmund de Waal
BBCの作家紹介の番組は一見あり。

私も仕事柄会ったこともあり、もの静かな中に不思議な力を潜めたような知性あふれる
好青年である。
小さい頃から焼き物作りに惹かれて親方に師事して学び、焼き物の伝統豊かな
日本にも赴く。そしてその後イギリスの名門大学で学ぶ。文学的才能があるため
焼き物の季刊誌などにしばしば投稿したり。またバーナード・リーチの本を出したり
作家としての頭角も常日頃見せていたのだが、今年4〜5年かけて調査し暖めた
本を今年出版、またたくまに自叙伝としての賞を受賞し、イギリスでベストセラーとなった。
というわけで私もさっそくロンドンにて購入して読んだわけである。
久々に良い本を読んだという感じで、読み始めたら止まらない本である。
話の面白さと歴史や家族史への鋭い観察力と文学的叙述。
とにかく読み応えのある素晴らしい本である。
数奇な運命を歩んだ264個の根付け作品へ思いはどんどん馳せて行く。
日本語に訳されることは時間の問題だろう。イタリア語版もつい先日出版されたばかり。

19世紀半ばのジャポニズムあふれるパリの文化背景、世紀末の文化円熟期のウィーン、
オーストリアハンガリー帝国全盛期から第一次大戦を迎えてのその衰退、ナチス台頭
などなど近現代史がそのままエドムンドの先祖の歴史を通して如実に語られていく。
歴史の重み、家族の重み、そして一人の人間の生き様はその中で弱くまた強いもの
であることをつくづくと実感する本である。

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by jamartetrusco | 2011-11-07 17:16 | Libri (本)
2010年 02月 19日

「昨日の世界」

ユダヤ系オーストリア人のシュテファン・ツワイクの「昨日の世界」を読んでいる。
世紀末の文化と芸術の円熟した旧き良きオーストリア・ハンガリー帝国の栄光を若き時代に生き、その後第一次大戦による悲劇、ナチ台頭による迫害を逃れて祖国脱出をして英国に亡命,米国を経て最後にはブラジルに渡る。1934年から書き始めた自伝である「昨日の世界」を書き終えた42年出版社に原稿を送った後、妻とともに自害、その翌年この本は出版されたというかなり劇的な背景のある本である。
ハプスブルグ絶世期の自由な文化人が謳歌するウィーンに織物工場を持ち金銭的に裕福だった家庭に育った若き日のツワイク。書き出しのページが印象深い。
要約するに、このような安定した黄金時代が永遠に続くものだと信じていた、過去にあった民族間や国同士の戦争など夢のようで国境すらなくなるユートピアを原体験していると思っていた、
と書く。その当時ヨーロッパのどの都市よりも文化的に栄え、民族間の軋轢もなく互いに互いを
尊重しあって共存することのできる都市だった、というウィーン。そして一歩外に出れば自然が
ある、という環境。ある意味では現代都市のいずれもが目指したいお手本のような社会を築き上げていたかに見える。それが一発の銃砲で崩れさっていく、という悲劇。
文化と芸術の中心地であるウィーンの絶頂期を味わった後に来る不穏な状況をまざまざと体験して、その落差はどれだけ悲劇的だっただろう。。。
世界の安定は築かれたと信じていたこの作家がその後世界の脱落をみてどれだけの悲痛と憂鬱に落ち込まれたか想像するにやさしい。
世紀末から第二次大戦へのヨーロッパの精神背景を理解するのに興味深い本である。
今の時代への教訓も多く隠れているに違いない。
この世界は一歩前進しては2歩後退し、という状況が永遠に続いていくのであろうか。
いつの時代に生きても同様の幸福感とそれに相対する悲劇感があるのだろうが。
波の頂点とどん底の繰り返しのように。
時代の重みに押しつぶされないように、外界の安定如何に関わらず自身の心の安定を目指すことしかない。

異常に細かい活字でまたイタリア語で読んでいるのでいつになったら読破できるかが唯一の
難であるものの。


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by jamartetrusco | 2010-02-19 02:30 | Libri (本)
2008年 04月 29日

ロバート・ウィルソンの面白み

Robert Wilsonーロバート・ウィルソンは近頃大変に気に入っている作家である。
1957年イギリス生まれ。イギリス、スペイン、ポルトガルを行き来している。
一般的に言えば推理小説作家ということになるのだろうか。
推理小説というと文学的に一ランク下がると考える方も多いだろうが、英国に
おける推理小説の伝統は深く厚く、そして文学的価値も衆知のごとくである。
スリラー、サスペンス、クライムストーリー、Who dunnit、いろいろな描写が
できるこの小説の一分野であるが、ロバート・ウィルソンを簡単に位置づけるのは
難しい。20世紀史と密着した人間模様の括りの中で、現在生きる人間の犯罪と
その周辺の人間関係が複雑な筋を縫って歴史を遡る過去の悪と繋がっていく有様。
単に誰が誰を殺したか、という発見ではなく、主人公である真実の探求者とともに
読者が発見していく主題の中に埋もれた事実が白昼に晒される様は実にタイミングよく巧妙である。
そして物語の特徴は第二次大戦の悪夢が筋の根底にあることだ。
それもスペインやポルトガルの大戦時、内戦、そして独裁政権時の歴史背景が
重要な鍵を占めている。
The Blind Man of Sevilleは特に圧巻である。

そして思うのである。
第二次大戦後の混乱から這い上がって経済的に成功していくのはほとんどが他人を踏みにじり反人間的悪行も辞さず、終戦後の都市再建設や財源収集などに直接関わっていく極度の悪玉ばかりである。混乱の中で手段選ばず土地や財産を自分のものにしていく。
これらの悪行の結果が現在の資本主義社会のまさに根底となるものである。現在の大企業なり、世界をコントロールする見えて見えない力のもとはすべてこういう所業にあるのでは、と。もちろんこういった見方はウィルソンの世界観によるものとは言え、真実は確実にそこにある。
故にしてこの現在の世界の行く末、良い方向に進むわけがないのである。大戦後の悪から腐って咲く華はもうそろそろ朽ち果てるしかないのであろう。

彼の小説を読んでいて想起したのは最近アカデミー賞の外国映画賞に輝いて話題を
集めたメキシコ生まれの監督ギィエルモ・デル・トーロの視覚的に美しく、そして
背筋が寒くなるような心理的恐怖を呼び起こす映画のいくつかである。
Pan's LabyrinthThe Devil's Backboneなど。物語の展開はいずれもスペインの内戦時代の混乱と残酷を背景に人間の本能的生き残りのための極限の心理状況がファンタジーと心霊現象との曖昧な領域の中に描写されるのである。映像はあくまで色彩鮮明で、残酷なほど現実味がありながら夢想的である。悲劇の中にどこか救いの一光もある。好きな監督の一人である。
余談であるがトーロはJRR トールキンの「指輪物語」の前話である「ホビット」の映画化に当たり監督として抜擢された。トールキンの世界を表現するのにまさに最適な監督であろう。「ロード・オブ・ザ・リングス」を監督したピーター・ジャクソンがプロデュースである。今から完成が待ち遠しい。

The Blind Man of Seville






Devil's Backbone
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by jamartetrusco | 2008-04-29 18:08 | Libri (本)
2006年 10月 17日

アガサ・クリスティーの失踪の謎

いつも読んでいるネット上の英国の新聞、ガーディアンの文化欄に面白い記事を見つけた。

f0097102_1975863.jpg自伝作家のアンドリュー・ノーマン著の"The Finished Portrait"、(完成された肖像画、という意味)がこの秋出版された。この本にて初めて著名な推理小説作家アガサ・クリスティーの人生におけるミステリーを解明してくれるらしい。
彼女の推理小説さながら、ある日アガサ・クリスティーはバークシャー州にある自宅から姿を消してしまう。過去80年間に渡り警察も周りも何故彼女は消えたのか、その原因を知ることはできずにいた。

1926年、12月3日の金曜日。その頃には第6作目の「アクロイド殺人事件」が成功を収め推理小説作家としての地位と名声をすでに確立していたアガサ・クリスティー。その日の夜9:45に階上に寝ている娘におやすみのキスをした後、自宅から姿を消す。彼女の乗っていたモーリス・コウリーはその後少し南下したサレー州のギルドフォードにて発見。しかし彼女の姿はない。車の発見されたそばに「静かなる沼」と呼ばれる場所もあったことから、その沼にはまって溺死したのではないか、不実な夫が殺害したのではないか、または売名のための演技ではないか、などなど様々に騒がれた。当時の内務大臣のプレッシャーもあって警察はその当時の一流の推理作家、コナン・ドイル(シャーロック・ホームズで有名)やドロシー・セイヤーに解明を依頼。これもまた面白い。オカルトなどに凝っていたコナン・ドイルはアガサの持っていた手袋を霊媒に持っていったというから笑えるではないか。

結局11日間の失踪の後、彼女はかなり北に上がったヨークシャー州のハロゲイトの保養ホテルに泊まっているのを無事に発見された。それも別名のもとに。失踪のニュースは世界を巡りニューヨーク・タイムズ紙のトップ記事となっているというそんな大騒動の中である。

では何故に? 車の事故で一時記憶喪失になったのではないか、夫の浮気を妨害するための彼女の狂言では、などなどの議論がかわされた。しかしこの自伝の作者のノーマンは元医師である観点から、このアガサ・クリスティーの行動は憂鬱症とストレスから来る一時期の精神性の記憶喪失、Fugue State (徘徊病)であると論ずる。これに似たケースは他にもあったらしい。

この記事を読んでイタリアをここ数年騒がしている未解明の殺人事件を思い出した。コンニェという山のそばの静かな町にて、1月末のある朝3歳の子供が自宅にて無惨にも殺害されるというあまりにも惨い事件であったが、容疑者は唯一母親。しかしこの母親は未だに無実を主張している。この母親もある種の精神不安定にて薬を常用していたという。ということはもしかして彼女も一時の記憶喪失にかかり、自身の犯した子殺しも覚えていないのでは、と思えて来た。

ストレス、トラウマ、憂鬱症、それらの要因がいかに一人の人間の精神状態に影響するのか。
人間の精神は素晴らしい可能性も生み出すとともに底なしの地獄にもなり得る。作家という素晴らしい頭脳に恵まれたアガサ・クリスティーでさえ、心の病には太刀打ちできなかったのだろう。心は頭に作用するが、頭は心には限られた力しかないのだろう。
心の持つ無限なる力とその及ぼす処を見た。
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by jamartetrusco | 2006-10-17 18:47 | Libri (本)
2006年 10月 04日

カンディンスキーの芸術論

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抽象絵画の先駆者のひとりであるワシリー・カンディンスキーの書いた芸術論の著作に"Concerning the Spiritual in Art"がある。ロンドンのTate Modernにて入手した。ネットでも読めるらしい。和訳すれば「芸術における精神性について」であろうか。訳者の解説などついているが、カンディンスキーの書いた部分は比較的短く、読みやすい。ただ意味を噛み締めるのには時間がかかる。
自ら絵を制作する作家としての「眼」から見た芸術論なので、わかりにくいところもあるが同時に直感的で説得力がある。中で面白いと思った箇所を紹介しよう。自己解釈的な訳なのでそこのところはご容赦のほどを。

真の芸術家は内面の必然性からものを作る。そしてそのような芸術家は上昇運動にある三角形の頂点に位置し、その頂点は「今現在」では前衛であり理解されにくいものであるが「明日未来」ではそれは当たり前のことのように受認される。そして真の芸術家たるものは自身の衝動を己の作品によって見るものに喚起することができる。

音楽が芸術の最高の師匠である、と信じていたカンディンスキーはピアノに芸術家を喩える。

色彩は鍵盤である。眼はつちである。そして魂は弦の多くはられたピアノである。芸術家はそのピアノを奏でる手である。鍵を使いわけて魂を揺さぶるのである。
故に色彩の調和は人の魂への波動のみに呼応するものであることは明白であり、内面の必然性へ導く要素のひとつである。

絵画の使用できる武器は「色」と「形」のふたつである。色彩は例えば「赤」という言葉を聞いたときに頭の中に赤の世界がひろがるのであるが、それが一定の「形」を与えられたときに具体的に魂へ働きかける。「形」は「色」を分離する線にすぎない。形は内面的意義である色を表すための外面的表現である。 故に形と色はある"object"ー「対象物」ー例えば人間であったり風景であったりーの代用である。人間は潜在意識下にまたはそれを超越して、この対象物に反応する。

芸術に"must"ーであるべきーは存在しない、芸術は自由である。

色彩をおおまかにわけると「暖」と「寒」、「明」と「暗」である。
暖色である黄色は肉体的、地上的、外交的、寒色である青は精神的、天上的、内向的。この二つはアンチテーゼである(A).
もうひとつのアンチテーゼ(B)は明である白と暗である黒。白は永遠なる不協和音であるが未来(誕生)がある。一方黒は完璧なる不協和音にて未来が存在しない(死)。
緑は静止、自己完成、赤は動、拡大を内包するアンチテーゼ(C)である。
最後のアンチテーゼ(D)であるオレンジは赤に含まれる黄色の能動的要素、紫は赤いに含まれる青の受動的要素。
この色彩理論を図式化すると以下のようである。3組のアンチテーゼの円の左右に静寂の白と黒がくる。
実際色彩というのは赤、黄、青の3原色と白黒からすべてが生まれるのであるからこの公式はその神秘をカンディンスキー方式で解明してくれる。

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そしてカンディンスキーの論理を読んでいて、芸術の抽象化、及び色彩と形の必然性が少し見えて来た気がする。抽象画を見て何が描かれているのかさっぱり、という意見は理にそぐわない。というのもすべての色や形は人間の深層心理になんらかの働きかけをするべきものだからだ。

自然を単に模倣したものはまったく力なくキッチュで醜い。自然の中から抽出された必然性を表すことが絵画であるのだろう。これはいわゆる具象画であれ抽象画であれ、すべての表現にあてはまることである。

カンディンスキー著作集 全4巻
ヴァシリー カンディンスキー Wassily Kandinsky 宮島 久雄 / 美術出版社
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by jamartetrusco | 2006-10-04 22:43 | Libri (本)
2006年 09月 03日

ArT RANDOM - VINCENT GALLO

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ArT RANDOMという80年代に京都書院が出版した美術家100人全集を覚えておられる方もいるだろう。80年代にやはり京都書院が出版したすぐれたシリーズ「陶」100選とともに貴重な美術書であると思う。文章は最小限度に押さえ作品画像中心のほんの1cmほどの厚みのハードカバー本である。今でも再販されているのか、それとも絶版なのかわからない。作家の選択もなかなかマニア向けである。その中で随分前にたまたま目にとまりその作品画像が気に入って買ったVincento Galloの作品集。

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この作家がミュージシャン、モデル、俳優、映画監督で常なる暴言と悪態で有名なヴィンセント・ガロであると知ったのはかなり後になってのことである。
ガロは1962年、アメリカのニューヨーク州バッファロー生まれである。最近では、2003年のカンヌ映画祭にて映画祭始まって依頼の最悪な映画と悪評されたThe Brown Bunnyを出品。その露骨な性描写は観衆のブーイングを浴びた。とにかくあまり良い評判のたたない人物、愛すべき人物とは正反対の性格のようである。その言動を見聞きすると強烈な自我の顕示とナルチシズムのもとで人間侮蔑を生き甲斐にしているかに見えるガロである。

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そんな人物とは裏腹に、この絵にある古色蒼然としたローマやポンペイのフレスコ画を思わせる繊細で崩れるばかりの微妙な色彩と形の美はなんだろう。ほとんどが静寂な時空間におかれた果物などの静物画である。このような幽やかな世界を作り出したのがあの過激で露骨なガロである事自体が不思議である。名前からもわかるように両親はもともとシチリアからアメリカに渡って来た移民である。その美的色彩感覚はやはりイタリアの血の中にある何かなのか。そして好んで描く静物の葡萄は故郷シチリアへの郷愁なのか。
残念なことに彼は90年代その絵画作品が絶賛を浴びている真っ最中に画家中止宣言をする。それも相変わらずの侮蔑の言葉を残して。
しかしこの細やかな線と淡い色調を見ていると、本人の悪魔の仮面の背後にある深層心理、外には出さない真実の不思議な世界が見え隠れしているのかもしれない。
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by jamartetrusco | 2006-09-03 00:15 | Libri (本)
2006年 08月 12日

百味菜々

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「百味菜々」という料理の写真集、私の大事な蔵書の中の一冊である。
まだイタリアに渡る前、ロンドンから帰って4〜5年東京の実家に戻って暮らしていた時期がある。90年代初めのこと。建築家の友人が青山にすごく素敵な店があるから行こうと誘ってくれて一度だけお邪魔した。店の名は「百味存」。今ではどうやら伝説の店と言われているらしいから、なんとわたしは貴重な体験をさせてもらったのか、と今更ながら友人に感謝。
基本的に野菜が主体の京料理である。しかしその味たるやもう今まで一度も味わったことのないような微妙でそれぞれの食材の良さを活かした想像を絶する美味しさであった。そして盛られた器も素晴らしかったと記憶している。あまりにも感激したのでさっそくお店で売られていた、このお店の料理人たる横山夫紀子さんの拵えで撮りは写真家の秋元茂氏による料理の写真集を買って帰った。


f0097102_1485182.jpgf0097102_149429.jpgこの本はしかし単なる料理本ではない。京都出身の横山さんのだしを重んじた、野菜それぞれのうまみを最大限に出す、いかにも粋な京料理の数々が写真となっているのだが、その野菜の姿が超越している。美味しそう!という奇声の前にその美しさに感動するのである。



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そして器にも拘りがある。章の中に「ルーシー・リーに盛る」、と「魯山人に盛る」、があるのだが、この全く違うタイプの焼き物になんとうまく料理があっていることか。
ルーシー・リーはオーストリア生まれ、その後ナチ時代に英国へ移住、以来イギリスにて現代陶芸の先駆者としてあまりにも重要な位置を果たした作家である。彼女とその同胞のハンス・コパーについては別の機会に書こうと思っている。

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そして魯山人と言えば焼き物に多少でも通じている方なら耳にされたことがあるだろう。やはり京都生まれ、そして料理への情熱のあまり盛りつけるために自身で焼き物を制作してしまった、という。感性豊かで、自由奔放、魯山人ならではの焼き物は独特の個性がある。

器プラス食、形と色、色と形、その調和の素晴らしさはまさに焼き物、食のふたつの要素の集大成とでも言えようか。互いに本望じゃという声が聞こえそうである。

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百味菜々
横山 夫紀子 秋元 茂 / コエランス
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by jamartetrusco | 2006-08-12 01:55 | Libri (本)
2006年 08月 03日

植物世界のアートフォーム

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ロンドンのヘイワードギャラリーにて開催されていた“Undercover Surrealism"展。
1920年代後半のパリにおいて前衛芸術運動の主流となっていたのはシュールリアリズムである。
この運動の主軸となったのは1929年から30年にかけてジョルジョ・バタイユが発行したDOCUMENTS(ドキュメンツ)という雑誌である。西欧文明の持つ価値観を根底から問い直し、プリミティブ、儀式的、大衆的文化を見直そうという革新的な視点をもっていた。シュールリアリズム運動を有名作家の作品展示ではなく、コンセプトの土台の部分からの切り口で展観する地味ではあるが、なかなか興味深い展覧会であった。

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この展覧会で最も印象に残ったのはドイツ人の彫刻家であり美術講師であったKarl Blossfeldt(カール・ブロスフェルトと読むのだろう)による植物写真。自身の彫刻制作の模範や授業のための資料として撮影した写真だそうだが、その超越した美しさに目を奪われた。
1928年に出版された「芸術の原型」という出版物によりその画像は初めて人々の目にとまり、あっという間に写真界のセンセーションとなる。この原本を改訂再出版したのがこの本である。
時代が時代なのですべて白黒によるイメージで植物の細部を厳粛に写し出す。彫刻家としての彼の視線は植物の持つ様々な形体を再発見し、そしてひとつの芸術形体へと昇華させていく。自然の抽象形のエキスを抽出しているかにみえる。建築物のような形体、複雑幾何学形また流水形、など植物に潜む形体のバラエティー、自然の創造物の驚異と美が直裁に、感傷性なし、露にされる。
先日海で発見したウニの殻といい、自然界の神秘と美は底なしである。


本の原題は 以下です。
ART FORMS IN THE PLANT WORLD
120 Full-page Photographs
Karl Blossfledt
Dover Publications , Inc.
1985 New York


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by jamartetrusco | 2006-08-03 21:24 | Libri (本)
2006年 06月 19日

聖なる淫者の季節 ー 詩人白石かずこ

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昨日夕方、フィレンツェに白石かずこさんが到着した。ジェノバにての詩のフェスティバルへの招待参加を終え、19日、夕9時よりフィレンツェにて開催されるpoetry readingの会のためである。
白石さんは私の長年の友人である。もともと姉のロンドンでの親友(私も家族ぐるみの付き合いであるが)のお母さんとして紹介を受けたが、友人のお母さんとは言え、それ以上の友達としてのおつきあいをさせて頂いている。知り合って早や25年。その当時ロンドン在住であった私は 82年の夏、姉、そしてかずこさんの娘さん夫婦、そしてかずこさんとその男友達とともにギリシャのクレタ島にて夏の休暇を過ごした。その時の経験と思い出はいまでも鮮明に心に刻まれている。クレタの体験がかずこさんの詩にも登場している。魚のフライを1キロ単位でオーダーした地元の飾り気もないが何を食べても頬がおちるほど美味しかった食堂を題材にした「ワンキロ・フィッシュ・ビーチ」や広大なる肌か山の頂上に生息していた山羊の群れを詠った「マウンテン・ゴート」などはこの旅から生まれたものだ。 経験が詩人の口から語られると美しく新たな想像の門戸を開けてくれる。
そしてその人柄の暖かさ、人間の本性や現実を本能的に理解してしまう。それ故生まれる真の優しさを持ち合わせている素晴らしい女性。

白石さんは1931年カナダ、バンクーバー生まれ。
二十歳で詩集『卵の降る街』を出版して以降、『聖なる淫者の季節』(H氏賞)、『砂族』(歴程賞)、『現れるものたちをして』(高見順賞、読売文学賞)、『浮遊する母、都市』(土井晩翠賞)など数々の詩の名作を書かれている。70年代以来、三十数カ国の世界詩人祭、作家会議に招かれ、詩の朗読、講演を行ってきて、現在でもまだそのエネルギーは絶えることがない。
彼女の朗読会は普通一般の想像する詩の朗読とは少し違う。ときにはジャズ・ミュージシャンとの競演、時には日本の前衛舞踏家と演劇的に、衣装も詩に合わせてカラフルに替える。日本、そして世界の詩の舞台に登場した頃、髪をピンクに染めてその美貌と抜群なるカリスマ性にて詩人世界を圧倒した。そして彼女の朗読する声は口からではなく、お腹の底から発生している。能楽の謡の声に近い。だからお腹に響いてくる。

Dedicated to the Late John Coltrane (ジョン・コルトレーンに捧ぐ)
白石かずこ / インディペンデントレーベル
ISBN : B0002LHWO4

彼女の詩、「ジョン・コルトレーンに捧ぐ」はジャズ・ミュージシャンの大御所のサム・リバーズらとの競演なるCDとしても発売されている。サクソフォーンやフルート、パーカッションの音とともに唄う彼女の詩は一聴の価値ありだ。

ビートジェネレーションの息吹を受けた現存する最後の詩人であると言える。

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続・白石かずこ詩集
白石 かずこ / 思潮社
ISBN : 4783708924
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by jamartetrusco | 2006-06-19 14:40 | Libri (本)
2006年 05月 12日

Scritti di Leonardo da Vinci ダビンチの手記

ここのところのダビンチ・ブーム、ひとえにダン・ブラウンの「ダビンチ・コード」の影響も多々あると思われる。フィレンツェでも現在 ウフィツィ美術館にてLa Mente di Leonardo展が開催中。(自転車娘フィレンツェを行くのブログのyossyさんが実際に展覧会を観て書いておられるます。)来年の1月頭まで開催されているので、それまでには観にいきたいと思っているが。

傑出した画家としての才のみならず、自然科学、哲学、発明など広範囲のテーマに関するダビンチの思想家としての優れた洞察力は有名である。彼の書いた手記はレオナルドの頭と心を知る上で最適な書物である。イタリア語は当時のものなので、日本の古典を読むように、多少の解説がないとなかなか真意がわかりにくいこともある。しかしフィレンツェの方言が今の標準イタリア語の基本となっているので、私でもなんとか読むことができる。これもひとえにダンテのおかげ。

ということで今日はレオナルドの手記からの名言をいくつか紹介したい。本の名前は
Leonardo ー Scritti
Tutte le opere: Trattato della pittura Scritti letterari Scritti sceintifici
Jacopo Recupero 監修、 Rusconi Libri Srl出版、1966年初版、2002年改訂版。

私が興味を持つのはダビンチの哲学的言及だ。言語ではPensieri e Aforismi (思考と格言)の1章から好きな格言5つ。

1) Salvatico è chi si salva.
この場合のsalvaticoはselvatico のこと。外界の有象無象から逸脱し、孤独と静寂の中にのみ己の深淵なる魂を発見できる。

2) Non si volta chi a stelle è fisso.
星に目が向くもの、つまり理想をかかげる心は日常の些少に目を向ける暇はない。

3) L'acqua che tocchi de'fiumi è l'ultima di quella che andò e la prima di quella che viene. Così il tempo presente.
目の前を流れる川の水は今流れて行った過去の水の最後であり、これから流れる未来の水の最初である。「今」はこのように過去と未来の狭間のつかのまの瞬間である。

4) Non si dimanda ricchezza quella che si può perdere. La virtu è vero nostro bene ed è vero premio del suo possessore. Lei non si può perdere, lei non ci abbandona, se prima la vita non ci lascia. La robe e le esterne dovizie sempre le tieni con timore, ispesso lasciano con iscorno e sbeffato il loro possessore, perdendo lor possessione.
自ら失われる、また失うことのできる物質的なものは真の富ではない。己の自由において選び、また完全に己のものとなった美徳はその所有者を見捨てることはなく、失われることはない。それこそが真の富である。

5) Lo corpo nostro è sottoposto al cielo, e lo cielo è sottoposto allo spirito.
人間は自然の力と法則のもとに存在するが、自然を内包するのも人間の精神である。

以上は私の稚拙な解釈の上での訳であるが、もし日本語訳読みたい方はこちらをどうぞ。上下巻ある。

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 岩波文庫 青 550-1
レオナルド ダ・ヴィンチ 杉浦 明平 / 岩波書店






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by jamartetrusco | 2006-05-12 17:08 | Libri (本)