カテゴリ:Storia (歴史)( 27 )


2012年 05月 02日

ベス神

大英博物館でベス神に出会った。
エジプトの巨大な神々やスフィンクスに混じって展示ケースの上の方に
踊っていた。
そのにらみをきかせながらも楽しそうな風体に思わず目を奪われた。
エジプト神というと厳かで静寂とした鷹の様相のホルス神や
猫を象ったバステト神など人間世界を超越した感じの神のイメージがある。
ところがこのベス神はどこかコミカルである。
怖い顔をしてにらんでいるように見えるのだが、笑いを誘う。
まるで太ったおじさんが懸命に舞台で踊っているような。
布袋様に近い朗らかな神様。
調べて見るとこの神は子供を孕んだ女性の守り神。
要するに家庭を守る守護神である。
故に他のエジプトの神々が常に横顔の抽象表現であるの対して
このベス神はいつも正面を向いている。
神というよりそばにいるおじさんに近い。

この神様に出会ってとても嬉しい気持ちとなった。
博物館や美術館の本当の存在価値はこういった有名でなくても心に残る
古代からの人間の営みの証に出会うことであると思う。
今回の旅で得た嬉しい出会いのひとつーベス神。

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by jamartetrusco | 2012-05-02 04:03 | Storia (歴史)
2011年 04月 22日

フェティッシュのオブジェ

ローマの民族博物館で西アフリカのフェティッシュー呪術のオブジェをその収蔵品の中にみつけた。
その姿の強烈な力におもわずぞっとする霊気を感じた。
いわゆるフェティッシュと呼ばれる呪物崇拝を背景に生まれた像である。
木製の人間の像にあらゆる形の刃物を打ち付けてある。

フェティッシュという言葉はフランスで初めて使われたらしいが語源は
ラテン語のfacere。イタリア語でもfareというが、要するに人間の手で
作られたもの、ということである。
人間が信仰を考える上でなにか対象となる崇拝物、礼拝物を作ろうとしたこと
から始まった歴史は長い。

カトリック教会では十字架や聖遺物などがそれだろう。カトリックの司祭に
十字架がフェティッシュの一形体などと言ったらしかられるだろうが。
聖遺物とは聖人の遺骨や遺品を箱に入れたりして保存して聖なるものと
して教会に配置して祈りの対象にするものである。そこにはまぎれもなく
アフリカのこの禍々しい像に通じる何かがある。
ギリシャ正教やロシア正教などの正教会ではイコン、聖像が祈りの対象となる。

それ自体は人間が作った物体、像が人間の祈りの対象、または魔除けとなる。
日本のお守りもある種のフェティッシュだろうか。

フェティッシュという言葉はその後フロイトが性的意味の定義付けをして以来
性的な嗜好を表す言葉として使われることが多くなった。
人間の体の一部にエロチシズムを感じるなどがそれである。
本来の呪術的、信仰的意味から遠のいているかのように見えてどこか人間の
奥底に潜む本能的心理を表すものとして共通性があるとも思われる。
そこから派生してタブーという言葉にも繋がる何か。
フェティッシュとタブーの発する源泉は同じかもしれない。

人間の光と影を表裏一体に合わせ持つ精神史、宗教史の一面である。

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by jamartetrusco | 2011-04-22 00:09 | Storia (歴史)
2010年 10月 30日

夏と冬の狭間

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明日10月31日は世界で祝われるハロウィン祭の日。
そして今年は今週末が10月最後の週末に当たるのでヨーロッパでは夏時間から冬時間に変わる日である。31日、日曜日の深夜の3時が一時間早まり2時となる。ハロウィンはアメリカを中心に広めた祭りであるが、もともとはアイルランドのケルト文化にあったSamhain—文字通り「夏の終わり」を意味するサウィンの祭りーが起源である。アイルランド人の移民が多くアメリカに渡り、この祭りを普及させたのであろう。当時のケルト文明では11月1日が新年の始まり。1年を光が明るい前半と暗い後半のふたつに分けたのである。時期が交代する一瞬の狭間にこの世とあの世の壁が薄くなる。その時に死者の魂がこの世を訪れ彷徨うという云われである。良き先祖の魂にはご馳走を用意して家に招き、悪い魂は火をともして追い払う。悪い魂に取り憑かれないように自らお化けのような仮装をする。これがハロウィンのTrick or Treat?, お菓子か悪戯か? パンプキンをくりぬき火をともす、そして仮装パーティーの由来である。同時に10月終わりに収穫を終えて冬に備え焚き火を燃やすというのが儀式であった。
この焚き火の儀式はイギリスではガイ・フォークス・デーとして形を変える。ウェストミニスター国会議事堂に放火した罪で火あぶりの刑になったガイ・フォークスを象って藁人形を焚き火に入れて燃やす祭りである。収穫の儀式とは異なるどこか残酷でしかも喜劇的な祭り。国を変えて色々な祭りと成り代わる面白さ。
現在の夏時間、冬時間の交代もこうしてみると歴史的発生の理由があると言える。夏と冬の狭間に現れる幽霊達、ゴシックホラーのような面白みがある。

さてこのハロウィン祭、最近でこそイタリアでもパンプキン、仮装のお祭りの要素が定着してきたが、もともと11月1日はすべての聖人を祝う祭り-フェスタ・ディ・オンニサンティーである。カトリック教の殉教した聖人達の魂を弔うという意味の日である。そして翌日は「死者の祭り」、イタリア人がこぞって先祖の墓参りをする日。ハロウィンの語源も実は「諸聖人祭りの前夜祭」ということであることから、イタリア起源の祭りが近年になって形を変えて逆輸入されたとも思えてくる。
いずれの国にも似たような風習があるという立証であるが、紐を解いてみるとこの「諸聖人祭」というはカトリック教会がローマ時代の異教の祭りに取って代わるものとして発明したようである。カトリック以前のローマではケルトの祭りと同じくレムリア(Lemuria)と呼ばれる死神レムーリを弔う祭りで、本来5月9日、11日、13日に祝ったのだという。5月13日は果実の女神ポモーナを祝う収穫祭でもあった。しかしカトリック教会が強くなる4世紀頃にはこのレムーリの祭りは異教的でけしからんということでそれに代わるものとして殉教した諸聖人の祭と決め日にちも5月13日から11月1日に移し、翌日11月2日を「死者の祭り」に当てたということである。

死者を祀る、収穫を祝う、人間の生きる営みに密接につながる事象が交錯しあって国ごとに形こそ違え同じような祭りとなっていく過程。どちらが先でどちらが後に出現したかわからないにせよ、ヨーロッパとはギリシャ、ローマそして北方の文明の大きな流れがあって発展していったのだな、それでこそ今のイタリアがあり、西欧があるのだな、とつくづく思うのである。「すべての道はローマに通ず」の諺は確かである。
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by jamartetrusco | 2010-10-30 21:00 | Storia (歴史)
2010年 06月 02日

東と西

ヴェネツィアという都市の魅力は只単に水辺のもとに朽ち果てていく美しさを備えているだけでなく何よりも西の世界と東の世界をつなぐエキゾチズムを背負っている故の面白さがある。海港都市として領土拡大と東西貿易などの富みで圧倒的地位にあった13世紀〜15世紀のヴェネツィア。
その円熟期に活躍した画家で唯一オスマントルコ帝国に渡り、スルタン、メフメト2世の肖像を描き、当時のイスラム文化圏の風俗衣装などの貴重なデッサンを残しているのが画家ジェンティーレ・ベリーニである。親子親族画家の家族である。息子は後世ではジェンティーレより著名度が高いジョバンニ・ベリーニ。義兄はアンドレア・マンテーニャがいる。
彼の残したメフメト2世の肖像。ジェンティーレ作とされ、後に上描きされたためにオリジナルの影は少ないと言われているが、それでもその繊細な筆使いや色調はベリーニを始めとするヴェネツィア派独特のものである。イスラム教国では偶像崇拝は禁じられていると聞くからスルタンの肖像画の存在は珍しい。
コンスタンチノーポルの攻略、1453年の東ローマ帝国の崩壊からオスマントルコ帝国支配となりイスタンブールと改名する歴史上重要な瞬間。その時代を生きたヴェネツィアで当時最も偉大とされた画家のジェンティ−レ・ベリーニ。メフメト2世の元に招聘される画家として任命される。只単に画家として出向いたのではなく対オスマントルコとの円滑な関係を保つために送られた外交大使のような役割を持っていたらしい。イタリア美術に興味を持っていてイタリアの画家に肖像画を依頼したいと希望したスルタンであるから、その望みを叶える意味でも肖像画制作は外交に一役買ったに違いない。
歴史の一幕を語る逸話として、東西の交流の一例として、当時のコンスタンティノーポル/イスタンブールの東西融合の華麗なる文化を象徴するかのような一枚の肖像画。

このベリーニの肖像画を題材にした小説がある。イギリスの作家ジェーソン・ゴッドウィン著のBellini Cardである。和訳されているのかわからないが、失われたベリーニ作のスルタンの肖像画をめぐって繰り広げられるサスペンスである。舞台はオーストリア支配下の19世紀ヴェネツィアで,
歴史にからんだ真実も含めながらの小説であるのでなかなか面白い。

一枚の絵の背後に広がる長い歴史物語。異なる文化や国の香りを感じながら生まれた作品としての
重みを持つとともに、画面の静けさの中にスルタンの人と柄への想像が広がる。

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by jamartetrusco | 2010-06-02 23:36 | Storia (歴史)
2009年 08月 09日

Ponte di Diavolo のあるTorcello島


Torcelloというヴェネチアのラグーナ内にあり、ヴェネチアの母と呼ばれる島がある。
5世紀のフン族、アッティラ王の侵略を逃れてヴェネト人が本土からこの島に移り住んで
以来7世紀頃から栄え始め10世紀には最盛期を迎える。しかし12世紀以降ラグーナが
沼化していきマラリア病が蔓延して住民が島から本土に逃れて15世紀以降はヴェネチアの
影に衰退してしまったという栄枯盛衰を生きた島である。ヴェネチアの源となったという
歴史的に重要なこの島には最盛期には20,000人ほどの住民と10数の教会があったという。
今では数えられるほどの住民しかいない。歩道もフェリーからホテルやレストランのある
一角までをつなぐものだけである。ビザンチンのモザイク壁画が素晴らしい7世紀ロマネスク、
ビザンチン様式の教会、カテドラーレ・ディ・サンタ・マリア・アスンタとその鐘楼がその
最盛期の面影を唯一残す。
ヴェネチアに人々が移っていった際に建築物を築き上げていた石などすべて持っていった
というのであるから、遺跡のようなものも見当たらない。あるのは教会の前にあるいつくかの
石。無造作に置かれた石座はアッティラ王座と呼ばれるが。
島全体にどこかメランコリックな空気が漂う。ここで流れる時間は日常を超越しているかのように。ヘミングウェイがこの島を愛し執筆のため少しの間滞在した。
本土から離れて作家が静かに制作に集中できる、そんな時空間がある島である。

この島にあるラグーナをつなぐ唯一の橋の名前がPonte di Diavoloー悪魔の橋。あいにく修復中でその全姿を見ることはできなかった。
8月6日に修復後のお披露目をしているはず。
この橋はPonte chiodoと同じ欄干のない石を積み上げた橋である。ヴェネチア
ではこの種の橋はこのふたつだけである。その両橋に出会えたことはどこか運命的
だが。
Ponte di Diavoloという名前の由来は?
世界でも数十の同名の橋が点在する。キリスト教圏にだけであるが。
様々な伝説がある。古い逸話によると悪魔と石職人が契約を交わすが、その内容は
悪魔が石橋を造る代わりに初めてその橋を渡る人の魂を彼に譲る、というもの。
結局は悪魔退治をして国は平穏にて終わる、という結末であるが。
要するに悪魔の手を借りたと思わせるほど石だけを積み上げた橋作りの技術がすぐれて
いるということを象徴して生まれた名称であろう。
13世紀に礎が築き上げられたこのトルチェッロの悪魔の橋。
その簡素な姿から悪魔の名前は想像しにくい。

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by jamartetrusco | 2009-08-09 00:13 | Storia (歴史)
2009年 01月 14日

ボルジア家発祥の地ー華麗なる町Xativa

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チェーザレ・ボルジア、ルクレチア・ボルジア、法王アレッサンドロ6世。
ボルジア家を代表する逸話多い人物達。法王とチェーザレは毒殺されたのか、または黒死病によるものか、真実は歴史が知るのみ。
ボルジア家にまつわる暗殺、政略結婚、陰謀などなどを語る塩野七生著の歴史小説
「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」という本をずいぶん昔、ルネサンスにのめり込んでいた頃、実に興味深く読んだのも記憶浅い。黒髪でハンサムなチェーザレ・ボルジア、ピサ大学にて勉学したバレンシア公。絶世の美女ルクレチア、そして悪名高き法王アレッサンドロ6世。良きにせよ悪しきにせよ個性豊かな歴史上のこれらの人物に心惹かれ興味を覚えたものである。歴史的にて稀にみる悪人とか悪皇帝とか、毒気のある灰汁の強い人物のほうが記憶に残るのはどういうわけだろう。

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ニコロ・マキャベリが著書「君主論」の中で「マキャベリスト」ー権謀術策の理想的君主ーの代表とみなすチェーザレ・ボルジア。人間としての魅力とともに政治家としての才能は抜群であったに違いない。
このボルジア家、イタリア・ルネッサンス後期の君主王国、ウルビーノやマントバやフェラーラなどの地域と深く関わるというような曖昧な記憶があった。
しかし今回のスペイン、バレンシア地域での滞在にて、「あーボルジア家はもともとスペイン出身だったのだ」、ということを思い出した。新鮮な驚きとともに。

法王アレッサンドロ6世の生家があるXativaーJativa(バレンシア語ではシャティーバ、カスティリア語ではハティーバ)。この町はバレンシアから少し内陸に入った古い城下町。ふたつの山頂を渡って高台にそびえるボルジア家の城塞は圧巻である。スペインの建築の特徴であるやや黄色い硬質の石造り。陥落不可能に見えるしっかりした造りである。ローマ帝国、ムーア人支配の時代などなどの歴史を経たこの地域を代表する質実剛健な城である。まさにスペインならではの城。いったいどれだけの血肉の戦いが繰り広げられたのだろう。

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城下町もその時代の趣きをそのまま残した勇ましく高貴な建物が多い。
冬の太陽の下、静かに佇む知る人ぞ知る人のこの古い町。その美しさと歴史の深さに感動した。

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アレッサンドロ6世は法王でありながら愛人に子供を生ませ(チェーザレやルクレチアはその子)身内に権力を与えて身の回りを固め、汚職と退廃の代名詞、史上最悪の法王という汚名があるが、一方15世紀末期のフランス、スペインの侵略が高まる混乱のイタリアをその巧みな政治手腕にて乗り切った政治家法王を代表する人物とも言える。この時代の法王は聖職者というより政治家としての面白みがある。
当時のヨーロッパ内の各国の権力争いの歴史は一読の価値がある。
その後イタリアの各都市は力を落し、航海国スペイン、ポルトガル、そしてフランスの力がヨーロッパを制覇することとなる。

シャティーバの町を歩きながらスペイン出でありながらイタリアに多大な足跡を残したボルジア家の歴史に思いをはせた。


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by jamartetrusco | 2009-01-14 22:11 | Storia (歴史)
2008年 11月 24日

エトルリアのゴルゴン鬼神

ギリシャ語で「恐ろしい」という言葉に当たるゴルゴンーGorgonーとはギリシャ神話の鋭い牙をもった文字通り恐ろしい形相の女神である。女神というより女鬼である。その恐ろしい視線を浴びると浴びたものは石に成り代わるという神話があるため聖なる場所を守る魔除けとしてしばしば神殿や酒壷を装飾する。髪はのたうち回る蛇である。
ゴルゴンの姉妹であるメドゥーサの方が有名かもしれないが。
ローマで「エトルスキーラツィオの古都市」という学術的な展覧会を見た。展示品はほとんどがローマのVilla Giuliaにある国立エトルスコ博物館の所蔵品である。Villa Giuliaは行く度に閉まっていたので今までその貴重は収蔵品は見る機会がなかった。
今回の展覧会ではローマの近郊のエトルリア時代に栄えた都市、Veio, Cerveteri, Vulci, Tarquiniaに焦点を当てて、その出土品である様々な表現を見ることができる。出品作で特に有名なのはVeioのミネルバ女神(ギリシャのアテネ神に当たる)を祀る紀元前6世紀頃のアポロ神殿の遺跡から出土したテラコッタのアポロ像とそしてこのゴルゴンの頭部。
恐ろしいというよりややユーモラスなその表情に魅入ってしまった。
アポロ像は神殿の屋根の上に高々とそびえたっていたらしい。そしてゴルゴンは瓦装飾である。
この瓦装飾は即日本の鬼瓦を想起させる。鬼瓦もゴルゴンと似通った魔除けの用途があったに違いない。人間というのは文化文明は違えども想像力は似通っている。
展覧会を通して見えてくるのはカトリック導入以前ののびのびとした神々や人間像である。踊り、歌い、バッカス神に酔う。歓喜の宴。そして死は生と同じく、或いはそれ以上に荘厳である。エトルリアの埋葬文明はあまりにも有名である。
展示品のほとんどは死者とともに埋葬された品々である。
墓があまりにもりっぱであったためその後の幾度にも渡る墓荒らしで今ではほとんど見る影もないのが残念である。今に残る墓の壁を飾る装飾絵や彫刻などでその美しさを想像できる。死をこれだけ重んじたエトルスキというのはいったいどういう人種だったのだろう。エトルリアの神秘は語るにはあまりにも未知の部分が多い。
次回はエトルリア文明を求めてこれらの古都市をまわってみようと思う。
ローマという法王のおわす古代都市にてそれをさらに遡るエトルリアの底知れない
文明の深さと面白さ。イタリアの七不思議である。

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by jamartetrusco | 2008-11-24 23:00 | Storia (歴史)
2008年 10月 30日

歴史の相対性にてみること

この数週間、西欧対イスラムの文明、宗教対立の危機、テロリズムの脅威が近頃の金融危機の台頭の裏にやや影薄という感じである。いったい毎日の生活をやっとやっと過ごしている我々のような門外漢にとってこの金融危機とは何なのだろうか?
一部の世界の状況をすべて制覇している大物達にとってはこの金融危機すらひとつの金銭的メリットであるかもしれない中で、家や財産を失い、途方にくれる人々もいるのである。
とにかく得体の知れない「悪」を感じるこの頃である。
このような状況の行く末に新たな精神革命が開けるのだろうか。

第二次大戦終了後、さまざまな危機があった。
その事を如実に実感させてくれる極めて開眼的な展覧会をロンドンのV&A美術館でみた。題してCOLD WAR MODERN、「冷戦モダンー1945年から1970年まで」。
装飾美術、デザインの歴史が中核にあるV&A美術館であるから根底には戦後のイギリス、また世界の生活デザイン様式を語る展覧会である。しかし、この展覧会が今までになくずしっと重みを持っていたのは私が実際に生き、体験した時代を扱っていることだ。
第二次大戦の恐怖を終え、平和の訪れにほっとしたのもつかぬま、ヨーロッパの危機を背景に米国と旧ソ連との冷戦時代に突入する。核実験の脅威、ベトナム戦争、ベルリン危機、61年に東西を分けるために築かれたベルリンの壁、中国の文化大革命、そして宇宙開発競争。はじめての月着陸。ガガーリン、アポロ宇宙ロケット、そして60年代の20世紀最後のユートピア思想。宇宙から見た地球の愚かさと儚さ。

米ソ二大国の冷戦の脅威を根底にさまざまな文化が生まれる。今でも大人気を集める英国諜報員ボンドの007シリーズもこの冷戦を背景にこの頃生まれたのである。
そしてスタンリー・キューブリック監督の傑作「ドクター・ストレンジ・ラブ」博士の異常な愛情。宇宙への願望が生んだスプーチニック時代、宇宙服のようなファッションデザイン、「2001年宇宙の旅」の本とその映画化。
展覧会には紹介されていなかったが黒澤明監督の1955年映画である「生き物の記録」は核兵器への恐怖に耐えかねて最後には狂ってしまうある老人の生き様を語る。この映画もまさにこの冷戦時代なくては生まれなかった映画だろう。

私の今までの人生の内、物心つく頃から青春期にかけて世界の情勢を支配した冷戦時代の精神文化をデザインやアート、生活様式を通して目の前に改めて確認したのである。
冷戦時代はある意味で白黒の比較的はっきりした時代であった。

冷戦時代の終焉の肯定的象徴のようなベルリンの壁の崩壊から約20年。冷戦が終わり世界がよりよい平和へと導かれるかと夢見たのも一瞬のこと。冷戦の危機を乗り越えて辿り着いた今現在の世界。善悪の白黒がはっきりしない、もっとたちの悪い状況になっている。ここにまた新たな精神革命が必要であるのは間違いない。
しかしどのような?
人間の存在価値であるはずの芸術、文化がいったいどれほどの力をもって次の世紀への原動力として受け継がれていくのか。芸術すら息切れがしているような今の世界のような気がする。
この20年の足跡としてはっきり発言権を持つのはITとかインターネットとか、すべてコンピューターの進歩に関わる事象だけかもしれない。1970年から2000年までのデザイン史の展覧会をさらに企画するならばインターネット革命がその中核になること間違いない。
どんな危機も時が経てば過去の中の歴史の一幕として相対性をもち、様々な文化、社会現象を携えて歴史の1ページを語ることになる。歴史的相対性の中で捉えることによって生きる道筋と勇気も生まれるものだ。そんなことを感じさせる展覧会であった。
11月の大統領選でアメリカ初の黒人アフリカ系大統領が生まれることになればまた新たな時代の開幕になるだろうか。そう願いたいものである。


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by jamartetrusco | 2008-10-30 01:44 | Storia (歴史)
2008年 05月 19日

カエサルの本当の顔

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イタリア語ではジュリオ・チェーザレ、ラテン語ではユリウス・カエサル。
とにかく「賽は投げられた」と「ブルータスおまえもか」の言葉で有名なかのローマ皇帝シーザーである。
この皇帝の肖像はいままで理想化され、果敢で凛々しい若年の彫刻像や頭像によりしか知られていなかった。
しかしつい最近フランスの南部アルル地方のローヌ川底から頭像が発見された。
残っている金貨のシーザー像との類似性からシーザーの晩年の頭像であるとフランスの
考古学者が発表した。それも実物に大変近い姿であるという。
三頭政治が破れローマ内戦の後、シーザーが独裁官として帝政ローマの安定を目指そうとする矢先共和制の危機を案じたブルータスらに暗殺される。

対ポンペイウスとの交戦に端を発した内戦時代、マルセイユ港への使用を許可しシーザーへの指示を示したアルルに感謝する意味でこの町をローマの植民地とした。
この頭部の研究者である考古学者ロング氏に説によると、シーザーの恩恵を被るこの町としてはシーザー暗殺の知らせを聞いてシーザーの頭像を飾っていてはまずいということで即、ローヌ川に投げ捨てた、という。味方と敵の身代わりの早さは必須の時代である。

今まで未発見のまま川底に埋まっていた、ということも驚異である。
どういうきっかけで上げられたのだろう。
誰かを想起させる顔ではあるが。

石の文化であるからこそ川に沈んで数千年後でも形が残っているという事実は見逃せない。
これを受けて80年代のイタリアにてモジリアニの彫刻の発見として世間を騒がせたニュースを思い出した。モジリアニ自身が自分の彫刻をリボルノの城塞の掘に投捨したという伝説を利用して、リボルノの大学生が自身で彫った模倣作品を投げたのである。
最後には偽物であることがわかったのであるが、かなりの物議をかもしたらしい。

海底に沈んだ宝、などなど西欧古代文明の発見の神秘はまだまだ続くだろう。
インディアナ・ジョーンズの発祥と人気の源もここにあり。
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by jamartetrusco | 2008-05-19 21:02 | Storia (歴史)
2008年 03月 11日

アウグストゥスの家

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引き続きローマ時代。大叔父であるユリウス・カエサルを養父とし、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス・オクタヴィアヌスである。Pax Romana、「ローマの平和」の始まりを飾り、August,8月の名前の由来でもあるその人である。それ以降ローマの皇帝はいずれもカエサル・アウグストゥスの名称をなのる。

70年代から行ってきた修復が終わり、昨日ローマ皇帝アウグストゥスの家が公開された。一度に5人しか入れないというから、どんな列ができることやら。
この素晴らしい遺跡とその宝庫はいつ見ることができるのか。

ラ・レプブリカのサイトからの画像をご覧下さい。
Apre la casa di Augusto

フレスコ壁画の色彩、表現力、意匠の斬新さと美しさ。
キリスト教導入以前のローマに誉れあれ。
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by jamartetrusco | 2008-03-11 20:09 | Storia (歴史)