トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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カテゴリ:Storia (歴史)( 27 )


2008年 02月 26日

Villa Mediciの存在感

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ローマのスペイン広場を上りぬいたところにあるVilla Medici。今では アカデミア・フランチェーゼ(フランス美術院) として知られる。過去にはアングルやバルトュスがこのアカデミアの館長であったことは有名である。

ローマ時代まで遡るこの地所に今そびえて建つのは1576年にこの地所を買い取った
メディチ家の枢機卿であり、後にトスカーナ大公となるフェルディナンド・ディ・メディチが建築家バルトロメオ・アッマナーティに設計建築させた屋敷である。古代ローマ芸術の愛好家であった同枢機卿の希望により建物の外観にもローマの遺跡の部分を取り込んで装飾とした。ローマ時代の収蔵品を集めてこの屋敷に保管していたらしい。
建物の中心に配置された見慣れたメディチ家の紋章が多くを語っている。

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ローマ時代の基盤に建ったこの屋敷の規模とその美しさ、典型的なヨーロッパの庭園、遠景にはサン・ピエトロを中心にローマの街が展望できるという、まさに理想郷の実現に近い。

18世紀になってメディチ家の血筋が途絶えた後、フランス国の手に渡ることになり、以前からあったアカデミアをこの屋敷に移転して現在までに至る。ナポレオンも強く
この屋敷を望んだらしい。当時のヨ−ロッパの諸国間の複雑なる交わり、攻略に支配、それぞれの国の歴史があまりにも交錯し、王侯貴族の家系も互いに切っても切れない関係にあり、独立独歩にて存在する国などないのがヨーロッパである。この屋敷の歴史もそれに呼応する。

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現在ちょうどイタリアの現代作家、ジュゼッペ・ペノーネの展覧会を開催中であった。
ペノーネ(1947年生まれ)は主にブロンズ、大理石など彫刻の古典的素材を使って「自然」を再現する作家である。アルテ・ポーヴェラ、ランド・アートを代表する作家と見なされている。展示空間の美しさとあいまってなおさら効果的である。

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ひとつのヴィラを通して芸術というもの、文化というものの重みを否応なしに感じさせる。
そしてとりわけメディチ家の遺産の重み。メディチ家の存在がなければイタリアの
今はないと言えば過言であろうか。


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by jamartetrusco | 2008-02-26 18:37 | Storia (歴史)
2007年 10月 21日

First Emperor - 兵馬傭の偉大

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ベルトルッチ監督のLast Emperorという映画があったがそれと対照的にFirst Emperor,
つまり中国の最初の皇帝、秦の始皇帝のことである。
最近の中国ブームにあおられて中国関係の展覧会があちこちで開かれているが、その中で
いかにも観覧者数の成功を最初から祝うような展覧会が大英博物館で開かれている。
来年4月6日まで開催の"The First Emperor"展。考古学的研究を見せるのではなくどちらかというと一点豪華主義の展覧会であり、もう少し学術的説明があっても良い感じはするがそれでも兵馬傭の実物を見れ、始皇帝の偉業を実体験するだけでも価値がある。
兵馬傭はご存知の通り秦の始皇帝の墓に埋葬されていたテラコッタ製の軍隊の等身大の像。
墓の広大さだけでも頭がくらくらする。なにしろ56キロ平方の敷地に7000体の像が埋まられていたというのだから。今までにまだ1000体ほどしか発掘されていないという。これらの兵馬傭は死後も国を治めることを信じていた皇帝がそっくりそのまま自分の軍隊と馬を30年の年月をかけて作らせ、自身の墓の周りに埋葬したものである。顔の作りや表情も一体ずつ違うというのだから凄い。

1974年に畑を耕していた百姓がこの陶像の頭をたまたま発見した。それから始まった発掘作業。20世紀最大の考古学的発見として度々話題となってきた。
秦という言葉が英語表記ではQin、発音はChinであることから中国の国名Chinaの由来があることも案外知られていない事実であろう。
そして始皇帝のピラミッド型の墓自体は周りに水銀の川が流れていて人工の星空があるという伝説もある。現在まで未発掘の謎に包まれる始皇帝の墓である。将来この墓自体も白日にさらされることになるのか。


兵馬傭の像を実際に目前としてその精巧さにまず驚嘆する。細部まで細かく描写が行き届いている。そして写実的でありながら様式化した表情の顔。馬も驚くべき迫力がある。
この陶像の素晴らしさもさることながら、心に残ったのは始皇帝の超人的な思考体系である。
13歳にして初めての皇帝となり49歳にて死すまでのその功績。
流れ作業に則った大量生産の仕組みを作ったのもこの皇帝である。

このテラコッタの彫像の比類なき存在感をみて芸術作品を生むには良きにしろ悪しきにしろ独裁者(否定的隠喩が含まれることが多いがそうばかりでない)が必要であることを痛感した。それも啓蒙精神に満ちた独裁者が。これだけの作品をそうでなければ誰が生むことができただらろう。
ひとりの偉大な心ーそれが狂気に満ちたものであれ、力への妄想であれーのもとに為さずには為せない芸術的創造、文化熟成が存在することは歴史が語っている。
エジプトのファラオしかり。フィレンツェのメディチ家しかり。桃山時代の秀吉しかり。

全く違った分野であるが、現在最も刺激的とされる現代アートフェアのFriezeを見た後で、現代アートの不毛をつくづく感じてしまった。もちろん単に個人的意見であり、現代アートの動きに直接的に関わっている作家や画廊の人々にはひとつの揺るぎない歴史の構築であるに違いないのであるが、客観的な立場から見るとなんだか虚ろなものに見えてしまうのは最近のアートの金権至上主義のせいか。資本主義と民主主義に則った世界には真の力ある芸術は生まれないのかもしれない。
多かれ少なかれアートの世界に携わるものとして、そして今生きる作家の妻としてこれからどうして生きていくか、どのような目的を持つべきか、難問である。2000年以上前に作られた兵馬傭の実体を前にして芸術の普遍性を考えさせられた。

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by jamartetrusco | 2007-10-21 21:14 | Storia (歴史)
2007年 03月 16日

エトルリア人の起源ー牛のDNAにより解明?

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エトルリア人の起源の新説についてのやや苦笑を誘う記事を読んだ。
エトルリア人がどこから来たのかを解明するのにあたり、トスカーナ地方に特有の白いキアニーナ牛(かのビステッカ・アラ・フィオレンティーナの牛)のDNAがいわゆるアナトリア半島や中近東の牛のDNAと一番近いというのが調査で明らかになったことから、トスカーナ地方近辺に栄えたエトルリア文明の起源はここにあり、というのである。500頭にわたるこの牛種を検査したところこのキアニーナ牛と一番近いDNAを持つのは地理的に近いヨーロッパの他の地域や北アフリカの牛ではなく、アナトリア、中近東の牛であり、また牛に限らずトスカーナ地方の住民の5%のDNAが遺伝子学上中近東の人々のDNAに近いこともわかった。特にそれが顕著なののはエトルリア人の街として有名なムルロ(Murlo)やカゼンティーノ(Casentino)の住民であるそうだ。

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キアニーノ牛の存在は古く、すでに2200年前からトスカーナ地方にて飼育されていたらしい。元々の先祖はラスコーなどの洞窟絵にも描かれているBos Primigeniusであるという。
どうりでトスカーナのこの白牛、その純白の肌と相まってどこか神聖な感じの面持ちである。

牛のDNAの類似点だけであるなら、当時商業的にかの地から持ち込まれたのではないか、という疑問も残ったのであるが、人間のDNAもしかり、ということで、この時代にアナトリア地方から移住してきた民族がエトルリアの先祖であるという説が堅くなってきた。それも陸地移住ではなく海から渡ってきたらしい。陸地つたいであるなら必ず通るはずのトリエステやアルプス山脈沿いの街にこの遺伝子の種子の跡が全く発見されていないことがその理由である。

エトルリアの彫刻の顔つきからしてもギリシャのヘレニズム期の微笑みに似ているのでいずれにせよギリシャか小アジアとのつながりは美学的に一目瞭然である。
ここにきて牛のDNAにてエトルリア文明の起源が解明、というのではあまりにもあっけないというか、味気ないというか。
なんでもDNAで解明しようという現代科学の良いのか悪いのか、神秘性を残していて欲しいというのが率直な感想である。
でももしもこの古代から存続するこの牛のおかげでエトルリア人の起源がわかるのであれば
まさに牛神の神話もまさに生きて真なり、ということであろうか。
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by jamartetrusco | 2007-03-16 00:33 | Storia (歴史)
2007年 02月 11日

エトルリア人の宇宙観

ここのところエトルリア続きである。
エトルリア文明は神秘に満ちていることは以前も書いたことがある。
その文明がローマ帝国に吸収されて以来2000年経った今でもエトルリア人がどこかか来たのかはっきりしていないし、その言語の起源も解明していないのである。

その宗教、儀式、人生哲学などを知ると驚くほど超越していることがわかる。
エトルリア文明の研究者のRaymond Bloch氏によるとエトルリア人がギリシャやローマ人と明らかに異なるのは彼らが神や運命に対してそのまま身を任す、宇宙から与えられた運命には逆らわないという点である、とのことだ。その点においては主体ではなく受け身の姿勢である。
要するに流れる水に身を任す、自我を通さない、という哲学に通じるのである。その精神性は多分に東洋のそれに近い。

バチカン美術館蔵の腸卜師のブロンズ像
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彼らは身の回りの自然とその営みを「宇宙の大法則に従うものとして」見なしていた。
であるから自然の現象は宇宙ー神ーが人間の義務や未来の運命を示す指針であった。
故にエトルリアにはこの人間の行いのすべを予言するindovino(易者)やsacerdoto(司祭)が存在した。彼らは鳥の飛行をみて吉凶を占い、生け贄となった動物の肝臓を腸卜した。稲妻や雷鳴を読むことに長け、自然の驚異や災害を予言し、その恩恵を仰ぐことも防ぐこともできたのである。なんとも素晴らしい自然との共存ではないか。
こうしてみるとレオナルド・ダ・ヴィンチの人間の体は宇宙の仕組みを体現する、という概念もこの思想と相通じるものである。エトルリアの神秘を血に受け継ぐトスカーナ人ならではであろう。

今でも我々は空を仰ぎ、風の向きを感じ、鳥の往来を見ては季節や天候を確認する。
ナマズが動くと地震が来るとか、鼠が逃げ出したらその船は沈む、などという説もあながち嘘ではあるまい。


肝臓占いの図
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追記:
明日から22日までお休みします。ロンドン、ミュンヘン、アムステルダム、パりの駆け足旅行。
帰宅後旅で見たもの何か書ければと思います。
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by jamartetrusco | 2007-02-11 20:23 | Storia (歴史)
2007年 02月 07日

いつからか存在する石壁ーエトルリアを憶って

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この週末は目の覚めるような快晴の日々が続いた。今年は暖冬であるものの、なかなか外に出て散歩をする時間も気力もなかったのだが、久々に近間の丘を上った。
グレーベからキャンティの山を越えてValdarnoの方面に向かうこと、数キロ、山あいにある小さな集落Lucolena(ルコレーナ)を抜けてさらに行くとCastellacci(カステラッチ)という場所に辿り着く。
ここにワインをリットル売りする農家があるので初めて訪れてみたのだが、もうひとつの目的はこの小さな丘の上にある遺跡の発掘状況を見に行くためである。

キャンティ地方はエトルリア文明の遺跡が埋もれているとされる地域が点在しているが、はっきりとお墓の跡としてすでに公開されているところが2カ所ある。
ひとつはCastellina in Chianti(カステリーナ・イン・キャンティ)の紀元前6〜7世紀の墓跡。古墳状の墓で、入り口が四方にある。最近のレオナルド.ダヴィンチ研究家のCarlo Starnazzi(カルロ・スタルナッツィ)氏の論によるとルーブル美術館蔵のレオナルドによる霊廟草案としての素描がなんとこのカステリーナのエトルリアの墓跡に基づいているらしい。

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墓の発見された1507年の冬、レオナルドはちょうど兄弟との遺産相続問題のためフィレンツェを訪れており、その際この墓跡を訪れ念入りにスケッチした、というのである。あいにくこの素描が手元にないのでなんとも言えないのだが、この研究家によれば瓜二つ、そして当時のキャンティの風景を彷彿とさせる背景が描かれているらしい。

もうひとつはSan Casciano(サン・カッシャーノ)市の地域内にあるLa Tomba dell'Arciere(射手の墓) の墓跡。 「射手の墓」との命名はこの墓跡から弓矢などの武器が発見されたことに由来する。紀元前7世紀頃造られた墓であることがわかっている。1978年に農作業をしている際に偶然発見され、ただちに考古学管理局の監督のもとに発掘が始まった。墓の大きさは5、3メートル四方、高さは2メートル。形は古墳状、粘土状の石灰土(alberese)と砂岩(arenaria)の二種類の石質でできている。中からブロンズや陶器の欠片なども発見されたことから裕福な貴族家の墓であると推測された。

アレに言わせるとトスカーナにはあちこちにこのような巨大墓地、ネクロポリスーギリシャ語で「死者の町」を表すーがあり、大体の場合が古墳型の山をなすということ。故にこんもりと丸い古墳の形の丘をみるとその下にエトルリアの墓を想像するわけである。
このカステラッチの丘も例外にもれずまさに古墳型の丘。

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またこの丘からは他の遠方の山を一望できるのである。これもその時代の丘の上の中心地同士の連携を表す証拠として重要な要因である。例えばわが町モンテフィオラーレの一地点からフィレンツェ背後のエトルリアの町フィエーゾレが一望できるのである。


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この丘の頂上にはいつからかあるのか石積の壁の跡があり、最近の考古学発掘の対象となっている。今見る姿からはどの程度の規模かは想像するのはむずかしいが、確かにしっかりとした城壁の跡のような石垣、石壁の名残りが見て取れる。


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栗の木が林立する上り坂を上がって頂上に辿り着くと現れる石積の跡。そしてものによってはかなり大きい。いつのときからか、どっしりとここに座して時を経て来たのか、と恒久的な時の流れと同時に石の不朽な命を感じた。


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by jamartetrusco | 2007-02-07 21:16 | Storia (歴史)
2006年 11月 01日

フィレンツェ大洪水から40年

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ここのところフィレンツェの大洪水40周年が間近であるのでテレビでも特集番組が組まれたりと話題になっている。
1966年11月4日。フィレンツェの真ん中を流れるアルノ川が氾濫した。24時間で降雨量199mmという大雨のせいで3日の晩から4日にかけてフィレンツェ近郊のダムも倒壊したせいもあり、大量の水がフィレンツェへ流れ込んだ。
アルノ川が溢れる寸前、そしてヴェッキョ橋に容赦なく流れ込む水、そして水に浸かったドゥオーモ、洪水後のサンタ・クローチェの様子などの写真から、この洪水の威力がいかなるものだったか想像できる。

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そして美術品や貴重な古書への被害は膨大であった。国立図書館は浸水し多大な数の古書が泥まみれとなる。そしてサンタ・クローチェ教会の有名なチマブーエのキリスト磔刑木像は修復不可能にみえるほどの状態で発見された。
私がこの洪水の事実を知ったのは大分後になってのことである。66年はまだ幼く、この世界遺産への大惨事を記憶するすべもない。
ロンドン留学当初、81年か82年だったか、ロイヤル・アカデミーにてこの作品の修復を記念した展覧会を開催していた。そのときいかにこのフィレンツェの洪水の被害が多大で、またその中からからくも助かったこのキリスト像の存在が大であるかを理解した。

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記録写真からもわかるように洪水の泥水に浸かった後の状態は悲惨である。なにしろガソリンやらなにやらあらゆる要素のまざった汚水に浸かってしまったのであるから、顔料は剥脱するし、木は朽ちるし、大変なことであったろう。修復はまずはこの汚染をスプレイにて洗い落とすことから始まる。そして絵の顔料の部分とベースとなる木の部分を別々に剥離して修復を施したのである。
オリベッティ(最近ではついぞ聞かなくなったタイプライターの製造で有名な企業で、この修復のスポンサーとして活躍した)の支援にて可能となったその後の修復活動。
わたしも実は93年フィレンツェにて絵画修復の勉強を1ヶ月試みたので、このフィレンツェ式の修復法が多少ともわかる。要するに隣接する色に近づくために平面として彩色するのでなく、線描にていくつかの色をあわせて原画の色に似通わせていくのである。近くでみると線描であることがわかるのだが、遠目にみると区別がつかない。

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要するに点描画と同じ手法である。この技術は簡単そうでなんとも難しい。考えられないような原色を並列させることによって隣接する色彩を作りだすのである。ミケランジェロの描いた肌の色を線描にて似せるのになんと苦労したことか。結局この1ヶ月のコースでつくづく修復家に必要な緻密さと根気がないことに気づき、わたしの夢も崩れさるのであるが。

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こうして修復の終わったこのキリスト像。色の剥脱したところはやはり痛々しく残ってはいるものの治療を受けて安全な状態となった。
その後再びサンタ・クローチェ教会美術館内にて実物と再会したときはやはり感激ひとしおであった。

洪水の後の被害救出の援助に世界あらゆる国からボランティアの応援があった。ヒッピー文化、精神革命が盛んであった60年代後半。洪水の泥沼を必死に掃除する長髪の若者達の映像をテレビで目の当たりにして、60年代というのが、肯定的意欲と平和志向が若者に溢れていた古き良き時代であるといまさらながら感じた。心からLoveとPeaceを夢見た時代であった。戦争が再び当たり前のように、そして殺し合いが日常茶飯事となってしまった今現在。60年代に起こったかにみえた精神革命はいったいどこへ行ってしまったのだろう。
しかしこのところ真剣に騒がれ始めている地球環境問題。この10年ほどで革命的改善をしない限り世界が大変になる、と言う記事をいくつか読んだ。
次の精神革命が目指すべきはここにあるかもしれない。
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by jamartetrusco | 2006-11-01 00:42 | Storia (歴史)
2006年 10月 27日

ポンペイの遊郭ーLupanare

ポンペイの官能的かつエロス溢れるフレスコ画は有名である。ポンペイの数多くある遊郭の中で最大の通称”Lupanare"が昨日再び公開となった。過去一年にわたる精密な修復作業を終えてあらたに公開されるこの高級遊郭。

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Lupaとは雌狼のことであるが、ラテン語の俗語で売春婦のこと。このlupanareはなんと2階建てにて一階ごとに5部屋、計10部屋の大型の遊郭。2階はバルコニーなどついていて裕福なお客向き。

フレスコ画にある性表現は直裁で想像の入りうる余地などなく、各部屋の入り口に提供するサービスの看板代わりに描かれている。まだ人間の根源的本能である性愛が社会のタブーとされていなかった時代の開放的な表現。どこか生き生きとしてユーモア溢れる。考古学的価値は言うまでもない。

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この快楽的都市ポンペイが紀元後79年、ヴェスビオ火山の噴火により6メートルの火山灰に一気に被われて跡形もなく消滅したことはあまりにも有名である。この遊郭もその例外にもれない。18世紀になって初めて発掘が始まり、灰の下に奇跡的に保存された建物やフレスコ画などが現れたときの驚きはいかなるものであったか。
そして18世紀、19世紀を通じて発見されたこれらのエロチックなフレスコ画はその性質上、ナポリ考古学美術館に保管され、「適切な年齢に達しており、倫理感のしっかりしたもの」のみに公開が許されたという。

私がポンペイを訪れたのはもう遥か昔、80年代半ば。まだ修復など行き届いておらず、またほとんどの建物が閉まっており中に入れなかった。夏暑い時期で、炎天下のもと土ぼこりにまみれながら、ヴァカンスをともに過ごしたパリに住む女友達とポンペイの周囲を足をひきずりながら歩いたのを覚えている。そして守衛さんのいかにもナポリ人気質の人の良いおじさんが「本当はだめだけれどちょっといれてあげよう」、と特別に入れてくれた。彼女のそのときのボーイフレンドがイタリア人でマルコ・チェイといったのだが、ある建物にCeiと記されていて、彼の遠い先祖かなーと笑いながら話した思い出は太陽の光と遺跡の匂いとともに今でも鮮明に心に残っている。
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by jamartetrusco | 2006-10-27 23:28 | Storia (歴史)
2006年 09月 07日

ローマは一日にしてならず

日本領事館に用があり、ローマに日帰り旅行してきた。古代ローマの建築物のスケールの大きさ、歴史の重み、皇帝の権力、今のローマ人の心意気、そして日差しの暑かったこと。なんと歩いたことか。疲れた足を噴水の冷たい水に入れたときの快感。すっかり疲労困憊して、観たいものの半分もみれずに帰ってきた。
町自体のスケールの大きさ、遺跡が街角にごろごろしていて、また知らずに入る教会の中に芸術の大傑作があったりする。昨日も何気なく入った教会の中にベルニーニの彫刻の傑作
「聖テレザの法悦」に出くわした。
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教会は建築設計もベルニーニが手がけた有名なマリア・デラ・ヴィットリア教会だったのである。この作品はかのダン・ブラウンの「ダヴィンチ・コード」の前作であるAngels and Demons「天使と悪魔」の小説にも出てくるのでさらに一般に知られるようになったのだろう。中にたくさんの観光客がいたので驚いた。ちなみに私はこの「天使と悪魔」の方が面白かった。最後はすこしやりすぎで、荒唐無稽になっているが。
それはさておき、今回の訪問では、アレともどもどうしても古代ローマに畏敬を払いたく、コロッセオめがけてとにかく歩いた。炎天下、日陰と言えば建物の少しの影ぐらいで後は容赦ない日照りである。娘は根をあげるし、すこしづつ休みながら歩く。
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イタリア大統領がおわすカンピドリオ周辺を抜けてさらに行くとFori Imperialiに辿り着く。
フォロ・ロマーノという名前がよく知られるローマ帝国の公共広場。さまざまな皇帝が作り上げたモニュメントである。その巨大なスケールにただただ感心するばかり。
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Fori Imperialiのサイトがとても興味深い。歴史を語り、そして2000年前のローマがどうだったか、視覚的に再現してくれる。今では単に朽ちたる遺跡が実は壮大、絢爛豪華な建築物であったのが目の当たりにわかるのである。
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(下の図は上の図の2000年前の姿?)
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コロッセオなどすべての開口部に皇帝の彫像が立っていたである。
その当時はいかなるものだったのか、考えるだけでわくわくしてくる。ルドリー・スコット監督作のグラディエーターさながらである。
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さらにすごいのは皇帝が代わる度に前の皇帝の建造物を埋めてその上にまた新たに自分の権威を誇る建造物を上乗せしていったらしいことだ。だから発掘研究が進むと、下から想像を絶する巨大空間が出てくるらしいのである。
もう頭は古代ローマ。今生きる私など虫けらのごとく。巨大ということはやはり畏敬の念をいだかせるものだとつくづく感じた。ローマにただただ圧倒されて。

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by jamartetrusco | 2006-09-07 04:04 | Storia (歴史)
2006年 08月 24日

La Porta Magica ー魔法の扉

Si sedes non isーSi non sedes is.

左から読んでも右から読んでも読める回文をイタリア語ではpalindromoという。上記のラテン語の格言はまさにpalindromoの一種であるが、面白いのは左から読んだときの意味は「座するものは進まず」、そして右から読んだときの意味は「座さぬものは進む」。双方とも逆説的に同じ意味を表している。

数日前アレと夕食後、色々と語っていたときに、突然この格言についての話となった。彼の気に入りの格言であったが、どこで見たのだったかなー、ということで早々にインターネットにて調べた。この格言が刻まれているのはローマにあるPorta Magicaー「魔法の扉」ーの扉の石枠の下部であることが判明。この扉、神秘に満ちている。
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もともとこの扉は1655年にローマの元老院議員であるマッシミリアーノ・パロンバラ侯爵によって建てられたVilla Palombaraの一部であった。この侯爵は当時の少数の学問的エリートがしばしばそうであったように、錬金術などの秘教的学問の追求に熱心であった。自身の資産を使って多くの錬金術学者のパトロンとなり、この屋敷にてサークルを開いていたらしい。メンバーには王位を放棄した後ローマに住んでいたスウェーデン女王クリスティーナも入っている。この屋敷はあいにく19世紀の後半新地区開発のために破壊されてしまったという。なんとも残念なこと。ただ幸いにも屋敷の離れの入り口であったこの扉のみが残り、現在ではヴィットリオ広場の「魔法の扉」として訪問者の好奇の的となっている。魔法というよりは錬金術的扉と称した方が適切であろう。扉に細工されているシンポルや言葉など、すべて秘教学の錬金術に関係しているのだ。そして上記の格言がその中のひとつである。

9月頭、ローマに娘のパスポートの更新に行かなくてはならないので、その際に是非このPorta Magicaを見て来ようと思っている。こういう秘教学など興味津々である。ヨーロッパの多くの文化、芸術の根底に流れていると思うのである。

さてこの格言、どうも主人の展覧会プロジェクトに関わっているらしい。アムステルダムにあるイタリア文化会館にて展覧会の提案をしたい意向があり、そのために提出する企画書のようなものが必要らしい。9月にそのミーティングがあるのでそれまでに提出する必要があるのだが、こんなにゆっくりで良いのかなと実は懸念している。
「静止するものは進まず」「静止せざるものは進む」。当たり前のことなのだが、人生の究極的な真実を語っているようである。そして作品制作についても同様だ。
アレの現在の心境を物語る一言である。是非とも静止せずに進んでもらいたいものだ,
この川の流れのように。

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by jamartetrusco | 2006-08-24 23:54 | Storia (歴史)
2006年 08月 17日

エトルリア最古の壁絵


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今年の6月、ローマの北部のエトルリアの都市Veiiの遺跡の付近にて現存する墓内壁画の中で最古と思われる壁絵が見つかった。図柄は吠えるライオンの図。
稚拙であるが、表現力豊かでコミカルな雰囲気の大口を開けるライオンが何匹か列に描かれている。ライオンと言われなければ何の動物か想像のみにまかすような面白い絵である。頭上には渡り鳥が飛んでいる。渡り鳥はエトルリア人にとって時間の推移を象徴するものらしいが、吠えるライオンが何を表すのかはまだわかっていないという。考古学者がこぞって興奮するような最新の発見であるが、なにがイタリア的かというと、このお墓の中の壁画の存在が明るみになったのは熱心な考古学者のおかげではなく、墓荒らしの輩(イタリア語ではtombaroloという)が逮捕され墓あらしに参加したことに対して4年の求刑の裁判の席に着く前に弁護士を通してこの墓の所在を告白したのである。カラビニエーレに同行され前代未聞のこの墓に入った関係者の驚きたるや想像に値する。現文化大臣であり副首相のフランチェスコ・ルテッリも興奮気味に「ギリシャやフェニキアの初期時代の壁絵はすべて失われていることからも今回の発見がどれほど重要であるか推し量られる」と言及している。

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専門家によればこの壁画は紀元前7世紀初期のものでこの付近の族長の墓であるらしい。
Veiiという都市は紀元前6世紀に栄えたエトルリアのテラコッタ彫刻制作の中心都市。ローマとの覇権争いにき込まれ最後には破壊されてしまうが、最盛期には10万人もの住民がいたというから当時では大都市である。Veiiのアポロ像は有名である。

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考古学の発見の興味もさることながら、墓荒らしが文化遺跡発見に貢献するというなんとも悲喜劇的なイタリアの面白さがとても笑えるニュースであった。
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by jamartetrusco | 2006-08-17 01:45 | Storia (歴史)