トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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カテゴリ:Storia (歴史)( 27 )


2006年 08月 13日

エジプトの猫神 バステット

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何故急にエジプトの猫神の話なのか、なのであるが、それは我が家の完璧なる一員化しているビルバの立ち姿のおかげ。それをみて「あっまさにエジプトの猫神のようだ」、と思ったのは私だけではあるまい。

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大英博物館にすばらしいブロンズの猫神像がある。ビルバの顔の反転のようである。
猫がこれだけ神聖化されたのはおそらく古代エジプトが一番であろう。バステット神は頭が猫で女性の体を持つ神として象られる。太陽の神Reの娘と言われ、火の神、猫の神、家庭の神、妊婦の神とも言われる。温厚、従順でありながら好戦的な性格を併せ持つという。
ナイル川のデルタ東にあるBubastis神殿がその本殿。エジプト王朝後期(紀元前7世紀から4世紀)にかけて普及し、この猫女神崇拝の象徴として猫のミイラを墓に収めることも多くなったらしい。というわけで娘も猫のミイラにはいたく興味を持っていた。大英博物館の中で娘の興味は今のところ何と言ってもエジプトのミイラであるのだが。

その威厳あり、どこか超越したような姿。背中をきりっとしまられせて座したその様子、その美しさは抜群である。ネコ科の美学とも言えようか。

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by jamartetrusco | 2006-08-13 17:19 | Storia (歴史)
2006年 08月 11日

La Notte di San Lorenzoー8月10日の祭り

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8月10日から前後、今年は昨日が満月だったので12日か13日が一番の見頃と言われる流れ星の見える季節。夜ふけて空を見上げる。流れ星に向かって願いを唱えるとその願いが叶うという。どの国でも同じ伝説が存在するのだ。イタリアでは今日は聖ロレンツォの殉教の日。流れ星は聖ロレンツォが祈りのために流した涙とも言われている。涙が聖人の願いのこもったものであるということから聖人の痛みを感じて皆が聖ロレンツォのために祈りそして自身の願いを流れ星に託すのである。
聖ロレンツォはまた火に焼かれて殉教したという言い伝えがあるので、8月10日の流れ星は聖ロレンツォの火柱とも呼ばれている。自然の現象と聖人が密接に結びついたイタリアならではの祭りである。

イタリアの近代の詩人ジョバンニ・パスコリもこの日にちなんで詩を残している。文字通り「8月10日」。小学校2年生の娘が宿題の課題でこの詩の2節を暗記せよ、というのがあり、つばめとその雛の死を扱ったこんな憂鬱な詩をなぜ子供に?と思ったのだが、聖ロレンツォにまつわるものだったのだな、と今更ながら納得。日本訳はさすがに詩なのでむずかしいので原語のままですが、ごめんなさい。

X AGOSTO
di Giovanni Pascoli

San Lorenzo, io lo so perché tanto
di stelle per l'aria tranquilla
arde e cade, perché si gran pianto
nel concavo cielo sfavilla.
Ritornava una rondine al tetto:
l'uccisero: cadde tra i spini;
ella aveva nel becco un insetto:
la cena dei suoi rondinini.

Ora è là, come in croce, che tende
quel verme a quel cielo lontano;
e il suo nido è nell'ombra, che attende,
che pigola sempre più piano.

Anche un uomo tornava al suo nido:
l'uccisero: disse: Perdono;
e restò negli aperti occhi un grido:
portava due bambole in dono.

Ora là, nella casa romita,
lo aspettano, aspettano in vano:
egli immobile, attonito, addita
le bambole al cielo lontano.

E tu, Cielo, dall'alto dei mondi
sereni, infinito, immortale,
oh! d'un pianto di stelle lo inondi
quest'atomo opaco del Male!


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ちなみに昨日も書いたタヴィアーニ兄弟監督が”La Notte di San Lorenzo"「サン・ロレンツォの夜」という映画を制作している。ファシスト時代のイタリアの終戦まぎわの日々を6歳の女の子の眼から見た恐れと愛と記憶の交錯するタヴィアーニ監督独特の映画。これも私が80年代ロンドン滞在中に観た大好きな映画だ。

今晩はあまりにも月光が強いのでとても流れ星が見れる空ではないようだ、
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by jamartetrusco | 2006-08-11 05:11 | Storia (歴史)
2006年 07月 05日

Bolgheri —詩人カルドゥッチの詠った糸杉の参道

今滞在中の家のすぐそばにある街ボルゲリーBolgheri.
この街が特別なのはアウレリア街道からボルゲリの城まで5kmに渡って参道のように続く糸杉の並木道である。900年代以来貴族のゲラルデスカ家の領地である。もちろん現在ではボルゲリ市として成り立っているが、歴史はこの付近の広大な土地の領主であるゲラルデスカ家とともに歩んでいる。トスカーナのいわゆるマレンマーMaremma—と呼ばれるもとは沼地であった地域はアンティノーリやゲラルデスカなどのトスカーナの有数な貴族の所有地となっているところが多く、高価な葡萄酒サッシカイア、Sassicaiaはこの付近産である。
またボルゲリのロゼ・ワインも有名だ。

ボルゲリの糸杉の長い参道。初めてここにアレが連れて行ってくれたとき、そのあまりの美しさとダイナミズムに涙がでるほどであった。大きな糸杉が永遠と続くつきることのない道。その行き着くところがボルゲリの小さな古い街である。その当時は街もまだそれほど観光化されておらず、小さな食品店がこの地域の物産であるいのししのサラミやハムを売っていた。兄弟で経営している小さなバーでそのパニーノを食べた覚えがある。今では昼も夕も観光客であふれる地になってしまった。観光の弊害というのをつくづく感じる。伯父さんの経営する変哲もないバーも観光客相手のOsteriaになってしまった。

このボルゲリにまつわる歴史がある。19世紀半ばの詩人、Carducci, カルドゥッチがこの糸杉の並木道—Viale dei Cipressi—を詠った詩、Davanti a San Guidoはトスカーナ、ひいてはイタリアではあまりにも有名である。1838年から10年間ボルゲリに住んでいたカルドゥッチがこのVialeに触発されて書いた詩のおかげでこの糸杉の並木道は永劫のものとなった。日常を非日常の永遠不朽のものに変貌させる芸術の力強さであろう。

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by jamartetrusco | 2006-07-05 05:42 | Storia (歴史)
2006年 06月 18日

エトルリアの古代都市ーPopulonia

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Golfo di Barattiーバラッティ湾を遥か下に見下ろす丘の頂上にある古代エトルリアのアクロポリス、Populonia、ポプロニア(上の画像の遥か彼方に見える丘がそれ)。海に面して発達したエトルリアの都市として唯一である。目の前にあるエルバ島で採れる鉄などの鉱物供給の中心都市であった。エトルリア文明が製鉄に優れていたことは歴史事実である。この都市は丘の上のアクロポリスと製鉄に従事し、港としても栄えた地上の都市とのふたつに分かれて発達した。現在ではParco Archeologico di Baratti e Populoniaという考古址跡公園に指定され、80ヘクターの敷地内にエトルリアの古墳から製鉄業の跡など、当時の文明、人々の生き方を知る上で、最も重要な遺跡地となって公開されている。
目の前が息をのむような美しい海辺であるということも魅力のひとつであろう。

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このような背景があるので、バラッティの海辺の砂は、色は黄土色に近いが、その中にキラキラした鉱物の粒子が混ざっているのが目にもわかる。そのため日差しを浴びて熱が上がった砂はとても素足では歩けないほど熱くなる。なにしろメタルが入っているのだから。
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そして砂浜や海辺でみつかる石も鉱物の欠片のような真っ黒なものもあったり面白い。
浜辺の湾からみて左側奥の岸壁は夕日が当たると鮮やかな褐色となる。その土も長年の潮風と波に洗われ自然の微妙な影を作り出し、まるでエトルリアの神が現れたかのような豊かな表情を見せてくれる。
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そしてこのバラッティ湾以外にもこの付近にはBuca delle Fateという知る人ぞ知る(10数年前はそうだったが、今はどうか)の素晴らしい岩場の海岸がある。ダイバーや魚を見る人にはもってこいのところ。辿り着くまでにかなり歩かなければならず、また深海なので、一般の家族連れや泳ぎの下手な人などは来ない。アレは私と知り合ってすぐここに連れて行ってくれた。
今年は娘もだいぶ大きくなったので行ってみようかと話している。

エトルリア時代からの息吹が未だに感じられるトスカーナの海岸線。この辺りの海岸はRiva degli Etruschi(エトルリア海岸)として観光局のうたい文句ともなっている。

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by jamartetrusco | 2006-06-18 00:39 | Storia (歴史)
2006年 05月 14日

Giglio アイリス ー フィレンツェの象徴

f0097102_124654.jpg5月は庭の藤棚から、野山を甘い香りで満たすアカシアの花など、さまざまな花が咲き始める月。フィレンツェにてもミケランジェロ広場の"Giardino dell'Irisの庭にて5月2日から20日まで1957年来開催されている第50回国際アイリス・コンクールを楽しむことができる。3000種のアイリスを見ることができる稀な機会である。

f0097102_0573616.jpgさてこのアイリスーフィレンツェでは通常"Giglio"と呼ばれ、また方言では"Giaggiolo"という呼び名もあるーはご存知な方もおられると思うが、フィレンツェ市のシンポルである。白地に赤のアイリスの紋章である。地元の方言であるgiaggioloはラテン語で「刀」を意味するそうだが、アイリスの矛先の刃の形への類似に由来するのだろうか。もともとアルノ側沿いを飾っていた白いアイリス、alba fiorentinaが市の旗の紋章として現れたのは1250年頃、ギベリーニ派とグウェルフィ派との抗争まっただかの時代。ギベリーニ派が優勢だったときは、自然のままの白いアイリスが赤字の旗に描かれていた。ところが1266年グウェルフィ派がギベリーニ派を駆逐し、市を統治することになった際に、その色を逆転した、すなわち白地に赤のアイリスである。それが現在まで使われている。このアイリスの印はフィレンツェの当時の通貨フィオリーノ, "fiorino"の銀貨またその後は金貨にも押され使用されたという。

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フィレンツェの歴史を語るのに欠かせないこの"giglio",アイリスの花。
我が家のまわりにも白に始まり、薄い紫と白の淡い色合いのもの、濃い紫色のもの、城塞のあちこちを色付けている。近くの町、San Poloでも来週末にはfesta di giaggiolo、アイリス祭りが開かれる。


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by jamartetrusco | 2006-05-14 01:03 | Storia (歴史)
2006年 04月 05日

Tabernacolo ー聖なる道しるべ

イタリアの街を訪れますと街角に聖母マリアを描いた図が祭壇のようにガラス越しや柵越しに保存されているのを目にすることが多いと思います。これはこちらではTabernacoloと呼ばれています。日本語訳では壁龕と訳されています。

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起源はユダヤ教まで遡り、持ち運びできる神殿を意味するようです。語源はラテン語の
Tabernaculum(テント、小屋)から来ており、やはり神聖な遺品をおさめ礼拝する場所として
生まれたもので、教会の中などにも見受けられます。

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私の住む田舎の道を散歩しますと、道ばたのところどころに、もっと素朴な形のTabernacoloが佇んでいるのが目に入ります。ほとんどの場合は聖母マリア像、または聖母マリア図です。そしてそばにお花が添えられています。まただれかが土で焼いた現代のマリア像もあります。過去には巡礼者や旅人を守り、その道しるべとなるような重要な役割を果たしたに違いありません。今では人里知れず、花も枯れ、どこか寂しい様相です。
ところで、以前アレと友人カップルとでTabernacolo復活のため現代の作家何人かとともにtabernacoloのために作品を制作して、歩きながら発見する展覧会を企画したら面白いのでは、と話したことがあります。いずれ実現したい企画のひとつです。

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私の友人のフィレンツェ在住のじゅんこさんはこのTabernacoloに比較できるものとして日本のお地蔵様を思い、そのお地蔵様をフィレンツェに紹介しようと今お地蔵様展を企画し、お地蔵さまにまつわる表現をなさっている作家の方、また支援して下さる方の協力をつのっておられます。

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古くから伝わる精神文化というのはどの国も形こそ違え、どこか似た心の住処、よりどころがあるものです。ですからお地蔵様を通して日本とイタリアの交流となるようにと。草の根の文化交流などと一時期言葉がはやりましたが、そんな表面的な交流でなく、文化の神髄にある人間の「心」に関わる、一見目立たない事物を紹介することで真の理解が得られるかもしれません。どうかうまく実現できますように。

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by jamartetrusco | 2006-04-05 22:21 | Storia (歴史)
2006年 03月 31日

キャンティ(Chianti) とガッロ・ネーロ(Gallo Nero)

キャンティの名前はワインの銘柄として世界中に知られていますが、その歴史や
ガッロ・ネーロ Gallo Nero (黒雄鶏の意で、キャンティワインの検定付き品質保証を表すDOCGーDenominazione d' Origine Controllata e Garantita ーラベルのシンボルマーク)の由来についてご存知の方は少ないのでは? 


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現在のキャンティ地方、緑の部分
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Chiantiの語源はエトルリア語で人の名前をさす"Clante"か、ラテン語で狩りの始まりに鳴らすラッパの吹音を表す”Clango"のいずれかではないかと言われています。
歴史も古く、紀元前3世紀頃のエトルリア人の存在を見てとることができます。キャンティ地方の気候の良さ、豊穣な土質、また丘に囲まれた立地条件など定住するに最適な場所だったようです。実際エトルリア人の存在を証明するお墓の遺跡などいくつか残っています。カステリーナディ・キャンティにあるTomba Etrusco(エトルリアの古墳)などその一例。
この辺りの町の名前で ...naと終わるのエトルリアが起源だそうです(Olena,Russenaなどなど)。 もちろんその後ローマ人が入ってくるのですが。

それから時は下って、11世紀に端を発するフィレンツェとシエナの長い抗争に巻き込まれます。キャンティの都市を配下に入れようとするフィレンツェと自らの都市とその境界線を守ろうとするシエナの戦いです。結局はフィレンツェの優勢で終わるのですが、その境界線を決めるにあたって出てくるのがガッロ・ネーロ(黒雄鶏)の逸話です。
    
     「フィレンツェ、シエナの両都市の騎馬が朝、雄鶏の第一声で出発し、
     お互い出会った地点を境界線とする! と決めた。
     シエナの雄鶏は美食で太っちょ、しっかり寝坊。
     フィレンツェのは腹ぺこの盛りだった黒雄鶏、暗いうちにコッケコッコー。
     かくしてフィレンツェはシエナにずっと近づいて領土を広げたそうな。」  

13世紀半ばにはキャンティ地方は自治の同盟(Lega)を結び、14世紀にはその紋章として金地に黒のガッロ・ネーロのシンポルを選びました。そして良質のワイン管理のために9月29日前のブドウの収穫は禁止したと伝えられています。

グレーベにあるGallo Neroの彫刻
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キャンティの歴史のほんの一面です。


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by jamartetrusco | 2006-03-31 18:46 | Storia (歴史)