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2007年 03月 29日

本質


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先日EEA21の横澤さんがスタジオを訪れた際にアレのオリーブ素材の木彫りに興味を持ってくださった。故に夏のEEA21の展覧会にはオリーブの彫刻を少し展示させて頂く予定である。

アレのオリーブ彫刻の特色はオリーブに忠実であることだろう。そこには作家の作為と自然との微妙なバランスがある。ある意味で焼き物が火にその魂をまかすのと似ている。
自らの手で彫る。故にオリーブのあるがままの姿が素直に形となって出てくる。機械はもちろんのこと、のこぎりさえの介入もないので、形自体はオリーブ主体である。オリーブの決めた動き、線に沿って手が動くのである。

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オリーブの年輪は根っ子からわかる。成長の足跡がそのまま根っ子の歪曲に示される。
柔らかい部分は彫り込まれて消えて行く。だんだんとひとつのオリーブの根っ子の神髄へと到達していく。否応なしに形が決まっていくのであるが、それは無心な行為によってのみ発見できる。だから最後に残る形はオリーブの魂が露になった本質、エッセンス、エキスなのである。まるでオリーブの内臓へと掘り下げるように。だから力強いのだ。

作家の役割は「本質」を発見し見極めるのみである。
オリーブの面と裏の顔。


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明日から4月13日まで日本にて、しばしお休みします。
桜の薫香色気に溢れる春爛漫の日本、楽しみです。
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by jamartetrusco | 2007-03-29 00:04 | Arte di Ale(アレのアート)
2007年 03月 28日

Trash People - ゴミでできた人型

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ローマのポポロ広場にて21〜29日までの期間、“Trash People"(ゴミ人間)と題される面白いインスタレーションに出くわすことができる。
H.A.Schultというドイツの作家の製作で、等身大の人間の形なのだが象っている素材はありとあらゆる「ごみ」。現代という時代の象徴は毎日人間達がその営みの中で作り出す膨大なごみであり、そしてしばしば我々自身も「ごみ」であるという風刺的な視点と問題提起からすでに過去10年間にわたりゴミを素材に使って人物を作り続けている作家である。
圧巻なのは1000体にもわたるその広大なインスタレーション。

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広いポポロ広場を埋め尽くすごみ人間たち。素材になるごみは空き缶からコンピューターに至るまで。ごみであるからその汚臭を洗い流すのに30人ものアシスタントを使っての作業。そして清浄されたごみの群を人型への変貌させていく。
このインスタレーション、すでに万里の長城、エジプトのピラミッド前、ロシアの赤の広場と繰り広げてきた。ローマの後はバルセロナで展示予定だ。

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今の時代の象徴は「ごみ」。確かに毎日自分でも出すごみの量には辟易する。
何を買ってもごみがでる。スーパーの過剰パック。以前はガラス瓶だったものもすべて缶やプラスチックに成り代わっている。海に打ち寄せるプラスチックのペットボトルの数の多さ、その醜さ。電気製品なども壊れれば修理するより新しいものを買ったほうが安い、手っ取り早いというのが常識のようになってしまった今の時代。コンピューターにしても次から新しいモデルが出て、古い機種を使っていてはテクノロジーの進歩に追いつかない。
ごみの処理がひとつの産業になりつつある。そしてそのごみを違法商売する人々。
他の国で出たごみが中国のゴミ捨て場にまで渡っているという状況。
確かにゴミはもう我々社会のシンポルである。人類は何故こんなにごみを作りだすアニマルになったのだろう。この100年に出したゴミの数は数千年の人類の歴史で出したごみより多いに違いない。

このゴミを再利用し、そして彫刻と変貌させ、世界の各都市にてインスタレーションを実現させるこの作家の物理的労力(助成金もたくさん入るに違いない)と情熱は凄い。そのメッセージはわかりやすいく力強い。
ただ「美的」という観点から言えばクリストがなす巨大パーフォーマンス・インスタレーションの方に軍配が上がるが。
最後にはどこに行くのだろう、このごみ人間たち、、、。



そういえばこの人間の集団で思い出した。以前紹介したアンソニー・ゴームリーの海岸に置かれた多数の彫刻の人型の話し。ついに地元の一部の反対を押し切って永久展示されることになったそうである。
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by jamartetrusco | 2007-03-28 01:02 | Arte (芸術)
2007年 03月 25日

心に残る風景

3月25日、きょうからイタリアは夏時間に入った。3月の最終日曜日に時間が
変わるという決まりなので毎年日にちは違ってくる。
急に一時間失ってしまうので、一日があっという間に経っていく。
たったの一時間でも小さな時差ぼけを引き起こすのである。

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先日初雪が降った。アレが写真にしてくれていた。
すぐに溶けてしまったというが、それでも
ほんのりと白化粧の景色はいつ見ても美しい。
テラスの同じテーブルの上でその前の週はポカポカ小春日和
でビルバもうたた寝をしていたのに。

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去年の地元の花祭りで買った小さなサボテンに花が咲いた。
たぶん一度限りの花だろう。と思うとなにか惜しくて写真に収めた。
淡い壁の色とうまく調和して鮮やかな朱色の奇麗な花である。

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ここのところ友人の作家との再会が続いている。
有機農家を営みながら自給自足の素晴らしい生活をされている3人家族。
ご主人は人生の歩みがその人となりにしっかりと刻印を残した奥の深さ
を感じさせる、本当の意味で「面白い」人。
奥様のまどかさんはその彼の傍らでしっかりと家を支え前に進む力の源。
日本女性の奥ゆかしさと強さを兼ね備えた素晴らしい存在である。
子育てが一段落してきたので本業の作家活動を再開した。

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彼女は彫刻家である。木彫りが主であるが、遊び心溢れるその想像力の
泉からは毎回いろいろな表現が表出する。土を使ったもの、エッチング、木彫の
人物像。面白悲しいような、哀愁のある表情。
そして今回のグループ展で見せてくれた木箱の中の小舞台。紐をひっぱったり
手回しで動く仕掛けになっている。懐かしい手作りの風情が漂う。
彼女の作品が好きなのは素朴な手の感触が必ず感じられるからだ。
彼女の心がそのまま表れている作品たち。
作っていて本当に楽しかったのよ、と嬉しそうに話してくれた。
アレも毎回違った表現を見せてくれる彼女の作品が好きだ。

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by jamartetrusco | 2007-03-25 23:15 | Vita (人生)
2007年 03月 24日

生きる

春が来てまた冬が戻りまたやや春が戻った昨日、今日。
まるでシーソーゲームのように三寒四温の繰り返しである。
この4日間ロンドンは真冬の寒さであった。キャンティでも雪が積もったらしい。
そして後一週間で東京へと発つ。
なんだか気分が落ち着かない時期である。
今日は久々に友人のカルロ・サインが遊びにきてくれた。
彼も以前はキャンティに住んでいた芸術家である。今ではフィレンツェを拠点とする。
写真をなし、インスタレーションやハプニングの作品を作る。
そして絵も描く。
人生を作家活動にかけ、彼から制作を取ってしまったらほとんどゼロに近い。
それだけ人生イコール制作、の人である。
家族もないので自分のみをかろうじて支える。
そしてこんなに誠実な人物がいるか、というほど全うな生き方をしている。
礼儀正しく他人への思いやりも多い。
ただ言えることは作家としての生き方を直進していること
他の興味は二の次である。自然と直接関わる仕事。紙の作品を自身の心の動く
場所に設置して、そして写真を撮る。写真の腕もなかなかである。

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カラフルな紙の生き物が忽然と自然の中に、フィレンツェの街角にハプニングのように出現するのである。自然と人間のつながりが即興的に、視覚的に示される。ひとつのブックマークのように。
かれとトスカーナは切ってもきれない。トスカーナの自然とかかわって数十年。

彼とアレとはこの10数年、互いに良い刺激となる交流がある。
ふたりとも独立独歩、我が道を行く。作家の生き方として「本物」であるふたり。
他の世界がどんな動きになろうとも彼らふたりは、このまま「生き続ける」だろう。
生きる、ことの意味。
黒澤明監督の映画「生きる」をみると「生きる」ことのなんと尊く、そして力強いことかが痛切に感じられるのである。

早朝たまたま撮った風景。まるでIkiruと霧が書いてくれたようだ。



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by jamartetrusco | 2007-03-24 00:00 | Vita (人生)
2007年 03月 18日

隠された自画像

作家が自画像を残すことは珍しいことではない。
しかしこれはあくまで近代以降の現象とも言える。中世以前の画家や彫刻家の肖像は記憶にある限りあまりない。ましてギリシャ時代なども彫刻家の名前は知られていても顔まではわからない。ルネンサンス期を境に作家が自身を描く例が突然と増えてくる。やはり近世以降の自我の目覚め、そして作家の自己認識の表れなのだろう。
ボッティチェッリもその「東方三賢人の礼拝」の絵の中で右端に立つ人物像として自画像を残している。(ちなみに彼の左側に立つ黒髪の美男は後に殺害されるロレンツォ豪華王の弟のジュリアーノとされている)

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その場合必ず他の人物の姿勢や目線はそれぞれ空間に統一する方向性もつのに対し、画家は必ず相対する観衆を意識するかのようにこちらを直視しているのである。

それ以外に故意に自画像を時代を追って残していく画家もいた。ドイツの15世紀の画家、アルブレヒト・デューラーもその一人である。生涯にわたりなんと50あまりの自画像を残しているそうだ。

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13歳のときに初めて描いた鉛筆画の素描の自画像に始まり、その後立て続けに22歳、27歳、29歳の自画像の油絵を描いた。いずれもデューラーの代表作である。特に29歳のときの自画像は今回のミュンヘンのアルテ・ピナコテーカにて初対面できたのであるが、キリストに自らをだぶらせた圧倒的な精神性が感じられる。オランダ17世紀の画家レンブラントも若きから老いに至るまでの自身を描き続けた。

自画像の中にはしかしあからさまな形式でない例もある。フラマン派の15世紀の画家ヤン・ファン・アイクはその傑作「アルノルフィーニ夫妻の肖像画」の画中、鏡に移った姿として絵の背景にひっそりと自身を写しだしている。
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鏡の上にはラテン語の装飾文字にて「ヤン・ファン・アイクはここにありき,1434年」と書き残している。鏡に映し出された二人の人物の一人が彼とされている。

そしてフィレンツェ、16世紀マニエリズムを代表する金工家、画家、彫刻家のベンヴェヌート・チェリーニ。彼の残した自叙伝はあまりにも有名で、その破天荒でエキセントリックな性格や人生を如実に読み取ることができる。彼の自画像はやはり彫刻に隠れて残されているが、これは案外知られていない。

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フィレンツェのヴェッキョ宮まえにあるロッジャ・デ・ランツィに置かれている「メドゥーサの首をかかげるペルセウス」の彫刻。前から見ると精悍なペルセウスがメドゥーサの首を高くかかげて立つブロンズ像である。しかし後ろまで回って見る方は少ないであろう。

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なんとチェリーニ自身がぺルセウスのヘルメットの陰に浮き上がってくるのである。まさにだまし絵の世界に近い。さすがチェリーニの大胆な発想。

もうひとりフィレンツェの巨人、ミケランジェロも奇想天外な自画像を残している。
システナ礼拝堂内の「最後の審判」に描かれる皮を剥がれた聖バーソロミューはミケランジェロその人に他ならない。
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最後に自画像とは言えないかもしれないが、「だまし絵」的な面白さとアナモルフォーシス(歪形)の代表として有名なハンス・ホルバイン(以前にも紹介した)の「大使」。

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この絵は駐英フランス大使と司教の二人の立つ肖像画であり、背後に描かれている静物の意味について論議が多い絵であるが、何と言っても目を惹くのはふたりの真ん中にあって不可思議に浮かぶ物体である。まっすぐ見ても形が即解明できないように歪曲(アナモルフォーシス)されており、画面を斜に眺めるとこれが頭蓋骨であることが判明するように描かれているのである。
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何故頭蓋骨が描かれているのかの論議はさまざまで、画面に描かれるさまざまな要素から、この絵の主題は天上の世界、人が生きる現在、そして死の世界の3つのレベルを表すという説がある。いずれにせよ死を示唆するメメント・モリーmemento moriー人とは死するものなりーであることは間違いない。しかし、これが同時にホルバインの名前の署名に他ならない、という説もある。ホルバインーHolbein−は英語でHollow Boneー虚ろな骨ーの意であり、故に頭蓋骨を表すことによって自身の署名としている、というのだ。
本当だとするとこれも一種の隠れた自画像の一種と言えよう。

自画像とはやや違うが、フィレンツェのヴェッキョ宮の前に立って右端に人知れず顔が彫られているのに気づかれた方はいるだろうか。この顔、実はミケランジェロがどれだけ彫刻家としての技に長けているかを証明するために前を向いたまま後ろに手を回して彫ったというのである。あまり信憑性はないがルネンサンスの天才にまつわる逸話として説得力あるひとつの伝説である。

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余談:
この週末はわが町モンテフィオラーレにて、春の訪れを告げる3月19日のFesta di San Giuseppe(聖ヨハネ祭)に合わせて恒例のフリッテッレ菓子祭りが開催されている。
お米ベースのこの揚げ菓子、それはそれは美味。これを食べないと春が始まらない気がする。
そして去年のちょうどこの祭りの次の日から拙ブログを開始したことを想い起こした。
(Moさん、新ためてありがとう!) ということで3月20日にてブログ1周年。早いような色々あったような1年であった。感慨無量なり。

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by jamartetrusco | 2007-03-18 02:17 | Arte (芸術)
2007年 03月 16日

エトルリア人の起源ー牛のDNAにより解明?

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エトルリア人の起源の新説についてのやや苦笑を誘う記事を読んだ。
エトルリア人がどこから来たのかを解明するのにあたり、トスカーナ地方に特有の白いキアニーナ牛(かのビステッカ・アラ・フィオレンティーナの牛)のDNAがいわゆるアナトリア半島や中近東の牛のDNAと一番近いというのが調査で明らかになったことから、トスカーナ地方近辺に栄えたエトルリア文明の起源はここにあり、というのである。500頭にわたるこの牛種を検査したところこのキアニーナ牛と一番近いDNAを持つのは地理的に近いヨーロッパの他の地域や北アフリカの牛ではなく、アナトリア、中近東の牛であり、また牛に限らずトスカーナ地方の住民の5%のDNAが遺伝子学上中近東の人々のDNAに近いこともわかった。特にそれが顕著なののはエトルリア人の街として有名なムルロ(Murlo)やカゼンティーノ(Casentino)の住民であるそうだ。

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キアニーノ牛の存在は古く、すでに2200年前からトスカーナ地方にて飼育されていたらしい。元々の先祖はラスコーなどの洞窟絵にも描かれているBos Primigeniusであるという。
どうりでトスカーナのこの白牛、その純白の肌と相まってどこか神聖な感じの面持ちである。

牛のDNAの類似点だけであるなら、当時商業的にかの地から持ち込まれたのではないか、という疑問も残ったのであるが、人間のDNAもしかり、ということで、この時代にアナトリア地方から移住してきた民族がエトルリアの先祖であるという説が堅くなってきた。それも陸地移住ではなく海から渡ってきたらしい。陸地つたいであるなら必ず通るはずのトリエステやアルプス山脈沿いの街にこの遺伝子の種子の跡が全く発見されていないことがその理由である。

エトルリアの彫刻の顔つきからしてもギリシャのヘレニズム期の微笑みに似ているのでいずれにせよギリシャか小アジアとのつながりは美学的に一目瞭然である。
ここにきて牛のDNAにてエトルリア文明の起源が解明、というのではあまりにもあっけないというか、味気ないというか。
なんでもDNAで解明しようという現代科学の良いのか悪いのか、神秘性を残していて欲しいというのが率直な感想である。
でももしもこの古代から存続するこの牛のおかげでエトルリア人の起源がわかるのであれば
まさに牛神の神話もまさに生きて真なり、ということであろうか。
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by jamartetrusco | 2007-03-16 00:33 | Storia (歴史)
2007年 03月 13日

モニュメントとしての美術館

パリを訪れる度にその美術館の質と量に驚くのである。そして何よりもフランス人の発想の大胆さとモニュメント作りの才能に感心する。

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ポンピドーセンターがオープンしてすでに30年が経つが、オープン当初のこの建物に対する賛否両論。建物の内部に隠れているべきチュープが全面にうちだされた醜い建物、という批判。
それが今ではパリにはなくてはならない文化芸術センターとなっている。今年開館30周年記念として展示を大幅に変え、ヨーロッパの近代美術の流れをそれぞれの美術運動にくくりながらコレクションを通じて見せており、近代美術の動向が一目でわかる展示となっていた。

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その後1986年に開館したオルセー美術館は元駅を改装して19世紀から印象派にかけての絵画、デザインを見せている。広大な駅構内を美術館にするという発想もその当時は大胆であった。

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そしてやはり80年代後半に完成したルーブル美術館の中庭の景観を大きく変えたガラス張りのピラミッド。これも賛否両論かもした建築だった。しかしこの建築はガラスの美しさを利用してルーブル宮に新たな美の要因を作ったと思う。ピラミッド階下の中央ホールから見たいコレクションのウィングに上がっていくことができる。ほとんどの人は「モナリザ」のある部屋を目指すようであるが。

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さらに昨年6月開館されたばかりのQuai Branlyケ・ブランリ美術館。もともとある民俗学博物館のコレクションを収蔵展示するためにエッフェル塔のすぐ横に新しく設計建築された美術館である。
あらたなパリの魅力として観光のスポットとして人気を呼ぶことは間違いない。

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展示は横長の建物のせいか、展示ケースごとの空間が狭くすこしでも人が多いと見にくいし、小さな展示室への出入り口が狭すぎてこれも難ありであるが、全体に現代性を重んじた空間は好感がもてる。民族学博物館が多々あるようなカビ臭い研究室のイメージは一層され、アフリカ、アジア、アメリカ、オセアニアの民族学的な収集品がオブジェとしての美しさを発揮すべく魅力的に展示されている。

古い建物を利用し、美術館に改装したり、また全く新たに建物を作りコレクションを展示する、このような文化遺産への国家の大胆な政策ー美術館を町の、ひいては世界のモニュメントとすべく反対を招くような斬新さを取り込む政策ーはフランスならではである。

にわかに地元になるが、フィレンツェのウフィツィ美術館は世界で特殊である。というのもフィレンツェ市の歴史と発展にそのまま直結した形で生まれたコレクションであり、建物であるからだ。というより、メディチ家の力の偉大がそのまま美術館になったようなものである。メディチ家の背後にある精神性や哲学も含めて。

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(ウフィツィ美術館の窓からヴェッキョ橋を眺めて)

先日お目にかかったナターリ館長がいみじくも指摘されていた通り、収蔵品の多くが美術館の外に見渡すことのできるフィレンツェの風景と関わりながら生まれて来たものであり、その意味で、フィレンツェと表裏一体、「内」と「外」が互いに共鳴し合う美術館である。世界広しと言えどもなかなか存在しないタイプの美術館かもしれない。というのも世界に誇る美術館のコレクションの多くはその国の最盛期に他の国に侵入し、略奪した結果であったり、多額を出して購入した結果であったりするからだ。
ウフィツィ美術館はフィレンツェ市民が誇ってしかるべき歴史背景に裏付けられている。

さて、ここのところ立て続きにアラブ首長国連邦の首都アブダビにて新美術館建設の構想の記事を読んだ。

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ひとつはスペイン、ビルバオのグッゲンハイム美術館の建築を手がけたアメリカの78歳になる建築家フランク・ゲーリーが今度はアブダビに新たにできるグッゲンハイム美術館の設計にも携わっているというニュース。ゲーリーの建築は一目でわかる特異な空間構成で有名であるが、今回の建物はアラブの町の持つ伝統的で有機的な広がりに似せ、自然光や空気などの存在が感じられる開放的な空間にしたい、従来の箱的、閉鎖的美術館とは趣きを異にしたいそうである。

もうひとつのニュースはアブダビになんとルーブルの別館を作る計画案。これにはフランスでもかなりの反対の声が上がっている。政治的、外交的メリットを考えてのことで芸術文化の意義をないがしろにする行為であり、美術品をお金で貸し出すのか、という尤もな批判である。
ルーブルのコレクションを期間限定で貸し出すという意向らしく、開館は2013年予定。
確かにルーブル美術館の名品がある期間貸し出されて見れないというのはパリ市民、フランス市民もしくは此の地を訪れる人々にとっては大問題である。
ウフィツィ美術館のレオナルド1点貸し出しの問題どころではなくなってくる。

いずれにせよ美術館の生まれるところにはお金あり、は常の時代も同様だろう。
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by jamartetrusco | 2007-03-13 00:11 | Paese (土地柄)
2007年 03月 09日

かたちに備わる力と美

ロンドン、ミュンヘン、パリの旅行を振り返って、実に多くの「かたち」との出会いがあった。
形、象、モニュメント、人がた、オブジェ、器、仮面。

なにゆえ人はある「形」の前で感動、畏敬、憧憬の念を抱くのか。
太古から人間の歴史には土偶や儀式の仮面、祭儀の器、食する器など日常、非日常の営みに不可欠なオブジェの創造が必要であった。それはまた神殿、墓標、ピラミッド、トーテムまたはそれに相当するモニュメントへと繋がって行く。
そしてこのようなモニュメントを制作する作り手の中から時代を経て芸術家の立場をとるものが現れる。
生と死に関わる土偶の表現志向は芸術家による純粋な形の追求に内包され、モニュメントはインスタレーションへと変貌する。ある作家の時代を先駆ける前衛的な表現はそのインスピレーションの源へと人の目を導いていき、常に存在する「美」の再発見を促して行く。
人の作る「かたちの美」は時代とともに形を変えながらもその美の源へつながる糸を編み込みながらさまざまな応用を繰り返すのである。バロック音楽が同じテーマのバリエーションから限りなく広がりを持つのに似ている。かたちの連続性、類似性とメタモルフォーシス。

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アンセルム・キーファーのセメントの塊を積み上げたモニュメント。ギリシャ神殿の柱さながらである。

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サイ・トンブリーの日常のオブジェを組み合わせながら、「白」で被うことによってそこに記念碑的な神秘性を作りあげる彫刻。

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ヨセフ・ボイスの石塊のインスタレーション。
石の古色蒼然とした力強さを感じる。崩れかかった太古の遺跡を想起させるからか。

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アンリ・ロランスの石の人がた。キュービズムの幾何学的構築。

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ヤン・アルブの白大理石のフォルム。オーガニックな形のダダ的、シュールリアリスト的解釈。

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パブロ・ピカソの原始回帰。 プリミティズムを再発見した彼の天才。


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コンスタンティン・ブランクーシの鳥。鳥をこれほど抽象的にそして本質的に表した作家はいないだろう。
鳥が抽出され、昇華されたかたち。天へと届かんとするばかりの限りなく続くトーテム。彼の生地ルーマニアに古くから伝わる死者をとむらう記念碑としての柱を抽象化した形。

そしてずっと時代を遡って縄文時代の土偶。
すでに説明はいらない超然とした姿である。宇宙的表情。
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国と時代は忘れてしまったが曲線と鋭角の調和の美しさが突出している刃。

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限りなく展開し、変貌し、昇華し、そして原点に回帰していくかたち。
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by jamartetrusco | 2007-03-09 21:29 | Arte (芸術)
2007年 03月 07日

EEA 21展によせて

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EEA 21ーEcology Earth Art 21。非営利団体として数年前に設立され、アートを媒体として地球自然環境への意識を促し、アートがいかに社会へ貢献できるかを問う美術展覧会であり、その趣旨に賛同する作家、有志から成り立つ人ベースの団体である。
率いるのはEEA21副代表の横澤氏。今回パリを回ってフィレンツェを訪れた。フィレンツェ訪問の目的のひとつはこの7月に行われるEEA21第7回展のためにイタリアからの招待出品作家を選ぶことである。7回目を数えるこの展覧会。毎年EEA21の活動に賛同する埼玉県立近代美術館において夏休みの時期に開催されている展覧会である。
夏期という通常は展覧会開催期間として避けたい時期に何故行われているかというと、夏休みの研究課題として中学生達が展覧会を見て感じたことをレポートにするという学校課題への美術館参与があるからだそうだ。

今年が“Primavera Italiana"ー「イタリアの春ー2007年」ーと題された日本におけるイタリア年であるため、EEA21もこのプログラムの公式イベントとして日伊の文化交流の促進に寄与していこうという意図である。そしてその作家の一人にアレが幸運にも選ばれた。たまたまわたしのブログにてアレの存在を知って頂いたことがそのきっかけである。アレが生まれ育った地元の大地、自然に強く根ざした仕事を続けていること、また使用する素材が自然のオリーブの根っ子であったり、トスカーナの土や砂であったり、という制作志向も自然への想いを喚起させようというEEA21の主旨に近いものであるからと思う。
短いフィレンツェ滞在中にスタジオまで訪れ作品を見て頂く幸いを得た。
そしてフィレンツェ在住の自然と密接に関係しながら制作する作家数人も紹介することができた。これは友人の美術評論家のエルダ・トレス女史が選んだ作家達である。いずれも作風が異なる4名の作家達。EEA21の展覧会に興味深い色彩を添えてくれることは間違いない。

氏のフィレンツェ訪問のもうひとつの目的はウフィツィ美術館の館長とのインタビューである。
メディアを通じてすでにご存知の方も多いと思うが、「イタリアの春」の目玉展覧会である「レオナルド・ダ・ヴィンチー天才の実像」展においては、ウフィツィ美術館より門外不出のレオナルド作「受胎告知」が展示されるということで今から話題となっている。

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イタリアでもこの重要な文化遺産の貸し出しには実は賛否両論ある。こんな重要な遺産を何故危険をともなう海外移動をさせなくてはならないのか、ウフィツィの中でも重要なコレクションを貸し出す必要はあるのか、などなど。

先日の新聞の記事では移動には国立修復機関であるOpificio delle Pietre dureの専門担当員ロベルト・ボッディ氏が科学的調査の上、その最善方法を考案した。作品の保管される梱包木材の安全性はもちろんのこと、この梱包内の環境を常に一定の温度、湿度(ウフィツィ美術館内の温度19−20度、湿度50−60%と同じ)に保って飛行機移動される。さらに作品の状態を逐一管理できるセンサーのような機器も設置し、まるで病院の心電図さながらの完全防備にて保管移動される。3月12日に美術館の壁からはずされ、日本までの長旅を開始するのである。

今回のインタビューはこの話題の展覧会を背景としてその当事者である館長にそのあたりの意見と昨年6月に館長就任したばかりという新館長としての今後の方針など伺うためである。
インタビュー記事は横澤氏が投稿している月刊美術雑誌「ギャラリー」の4月1日発売号に掲載予定であるので内容に興味あるかたは是非ご覧あれ。
新館長のアントニオ・ナターリ氏は物腰の柔らかくダンディーな容姿で、言葉のひとつひとつに深みを持つ非常に魅力的な人物である。ウフィツィ美術館の今後のあり方を真剣に考えておられる問答に印象つけられた。

この週末はこんなわけで実に内容の濃い、充実した2日間を過ごすことができたわけである。
EEA21の横澤氏に感謝。
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by jamartetrusco | 2007-03-07 18:45 | Vita (人生)
2007年 03月 05日

ミュンヘンの旅 2 ーJan van Kessel の生物繪

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ベルギー、アントワープ生まれの画家ヤン・ファン・ケッセル(1612〜1679)はその生き物の描写で特異の才を示している。
ミュンヘンの今回の旅のもうひとつの収穫。アルテ・ピナコテーカのギャラリーの入り口付近の暗がりに4枚のキャビネット・ペインティングがあった。ケッセル作とある。
4つの大陸ーアフリカ、アメリカ、アジア、ヨーロッパーを動物生態系にて区別し動物絵巻でも見るかのようなとても興味深い作品である(上の図はアメリカ大陸)。中心となるパネルの周りを16枚の小さなパネル絵が囲んでいてひとつの大陸を表しているのである。中心絵はかならず絵画や宝の山が散乱する風景でそこにそれぞれの大陸を代表する人物が描かれている。

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とりわけ興味をそそるのはやはり周りの16枚の小パネルに描かれる生き物の描写である。写実的で細密画のごとき手法のもとにありとあらゆる動物、鳥、虫、魚などが画面に描かれている。上の図はアジア大陸の中からの絵はがき。かえるの反り返る様子がコミカルで鳥獣戯画を想起させる。

4つの大陸に生息する生物の知識は当時からあったのだろうか。アントワープは大きな港町として15世紀から17世紀にかけての大航海時代に黄金期を迎え、ヨーロッパの商業流通の中心地となるのであるから、ケッセルのもとに異なる大陸からの資料や知識が入っていたことも不思議はない。

帰ってからさっそくこの画家について調べてみた。ピーター・ブルューゲル(1525〜1569)の2番目の息子であるヤン・ブルューゲル(1568〜1625)が祖父に当たるということなので、有能な画家の家系の血を受け継いでいることは明らかである。この美術館にも多くのヤン・ブルューゲル(父)の作品があった。その子であるヤン・ブルューゲル2世がケッセルの叔父に当たり、また絵画の師匠であったというから、様式も父、子そしてケッセルと似通ったものがある。
1645年にアントワープの聖ルカが守護聖人である画家のギルドのメンバーになり、多くの花の静物画から通称「花の画家」と呼ばれたらしい。その画題は多岐にわたり、花の他に、動物、魚、昆虫、鳥などの生物画、人間の五感、四大要素、四大陸、などの寓意画。ノアの箱船に乗船していく動物たちの図も残している。


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そして圧巻は自然科学の資料ともなり得る昆虫画。
イギリス、オックスフォードにあるアシュモリアン美術館、及びケンブリッジにあるフィッツウィリアム美術館にまとまった数の昆虫画が収蔵されている。小さいものでは9 x 13cm、大きいものでは19 x 29cmぐらいの銅版に油彩のパネル画でもともとは上記の四つの大陸のもののように家具にはめ込まれたキャビネット画であったのだろう。

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このとんぼが野いちごに宿る姿など芸術性が高いだけでなく、17世紀に生息する様々な昆虫の種類を見極めるのに重要な資料だろう。
そしてもうひとつ面白かったのはあまりにも虫に拘りすぎたのか、自分の署名まで毛虫文字を使ったという事実だ。毛虫嫌いの方にはお勧めしないが。

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絵画を見るに当たって最近自分の嗜好が変わってきたな、と思うのは今まで名を知らなかった作家や知っていても興味が少なかった作家に目がいくのである。新たな作家や作品の存在を発見していくことのわくわくどきどき感が頭と心の琴線に触れるのかもしれない。新しいことを知るときに沸々と湧く好奇心のエネルギー。これがあるうちは頭の硬直も防げるかもしれない。まだまだ未知の画家たちに会える機会とその瞬間の喜びを楽しみに。
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by jamartetrusco | 2007-03-05 01:27 | Arte (芸術)