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2007年 04月 29日

無一物

自分の中に静かに変化を感じるこのごろ。
人間というのは面白いもので苦境にあったりにっちもさっちも
行かなくなると、なにやら不可思議な平安が生まれるもので、
このところの心境はまさにそんな感じである。
目の前の問題や心痛が靄が晴れたようにすーっと消えたような。
すべてを捨てること。何もない。自我も捨てる。
禅でいう無一物の心境。
これに到達するにはまだまだ道は長いだろうが、少しだけ
その域に近づいている思いがする。
物欲など、とうの昔に色あせてはいるが、自然が最も美しい
今の季節を前にすると生きることの意味が透明に見えてくる。
戦時中、何もかも失い道ばたのあちこちに屍体が転がっていて
それをまたぎながら歩んだという母の信じられないほどの
ポジティブさをみた。
母にあやかり今年という時の波に力を抜いて乗っていこうと思う。

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by jamartetrusco | 2007-04-29 19:25 | Vita (人生)
2007年 04月 26日

自然と糸の妙技

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カルロ・サイン、アンドレア・マリーニについて語ってEEA21展のもうひとりのフィレンツェからの作家エレナ・サルヴィーニ・ピエラリーニ女史を紹介しないのは片手落ちだろう。
カルロとアンドレアはアレと互いに刺激し合うフィレンツェ在住の数少ない作家の友人として以前から知った仲間であったのだが、この展覧会のための作家選出を依頼した友人の美術評論家であり作家であるエルダの推薦でエレナとは今回初めて出会うことができた。

彼女は我々よりずっと年齢的にも年上で人生においても大先輩である。アンドレアの工房を訪れたときがほんの2回目の出会いであるので、やはり年上の方に話す敬語を使ったり、Signora(ご婦人)という言葉を使いがちだったのだが、すぐにしかられてしまった。
エレナ、と呼んでくれないかしら、と。少し話していたらそのエネルギッシュで若々しく、そして時にフィレンツェ人独特の毒舌も混じる楽しい人柄に惚れ込んでしまった。

50年代にロンドンに滞在していた頃に、ヴィクトリア&アルバート美術館にてトスカーナや他のイタリアの都市の伝統刺繍をみて、母に教えてもらった刺繍に自分も情熱を捧げてみようと決心して以後90年代初めまで刺繍作品を作り続ける。その繊細な糸と絹、麻、オーガンジーなどの布地との妙技は単なる手芸の刺繍の域を通り越して、ひとつの絵画としての力を持つ。

刺繍以外の彼女の興味は様々な自然や体験の写真を撮ること。そして自然の賜物である落ち葉、貝殻、海岸の小石や流木などへの愛情は並ではない。彼女の家の中の棚という棚はそれらに埋め尽くされていた。アレも同様のコレクションがあるが、なんといっても収集している年月の違いは歴然としている。

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刺繍、写真、自然からのfound objectsという3つの要素が組み合わさって出て来たのが彼女のI Libri in Piedi ー「立つ本」ーの全30巻のシリーズである。写真と自然の素材そのままを糸という媒介物にて織り上げた作品である。日本なら絵巻物になるところをやはりイタリアなのでアコーデイオン式の本の形式となっており、開いて立たせた状態で展示する。
彼女の鋭い美意識と糸の巧みが自然を媒介にひとつのロマンチシズムとファンタジーの世界を編み出していく。

長年刺繍作品を作ってきて、どこへ行っても「刺繍家」と言われるのに飽きたのだ、という。
なんと呼ばれようが、彼女の目指すユートピア、桃源郷がその刺繍にも本にも一貫して表れているのは明確である。
50年代、60年代、70年代、80年代、90年代、そして21世紀の今。それぞれの人生を糸という手段で綴ってきたのだろうと思うとそれだけで脱帽するし、人間として、女性としてのダイナミズを感じる。実に素晴らしい作家と知り合うことが出来て嬉しく思う。

追記であるが、EEA21の横澤さんの興味深いワールドアートレポートEEA21にて今回のフィレンツェ、ミラノの体験レポート、EEA21の夏の展覧会に出品が決まっているアレや他の作家の方について、画像とともに紹介してくださっている。

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by jamartetrusco | 2007-04-26 02:12 | Arte (芸術)
2007年 04月 23日

Artificial Paradise - 人工の楽園

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アンドレア・マリーニはフィレンツェ出身の彫刻家である。夏のEEA21の展覧会に出品するイタリアからの作家としてアレとともに選ばれた一人である。
そろそろ作品発送の手続きもしなければならない由もあり、先日彼のスタジオを訪問した。
フィレンツェからやや車でプラート方向に行く手前の産業地帯の倉庫を借りてスタジオに
している。

彼は自分を「彫刻家」と呼ぶより"Costruttore",「形作る者」と説明するのを好む。
確かに彼の作品は自然の素材から形を彫り起こしたりするのではなく、人工素材を使って
ゼロから形を作り上げていくものである。

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彼の作品は自然に見いだされる有機的形体を明らかに喚起させる形を自然とは正反対な人工素材でもって再構築するものだ。
生き物の形、植物、鳥の巣、卵、などなど。有機的な形、柔らかに孤を描く形、生まれたての胎児のような生命形ーそれらがファイバーグラス、ポリエチレン、鉄線、アルミニウム、鉛、などなどの人間の作りだした人工素材によって形作られる。

この人工サボテンの群、面白い。家の片隅に置いておきたいオブジェである。

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自然と人工の対比と不協和音が彼の魔術によってあたかも自然の形而上下の象徴のように見えるてくるである。
自然を限りなく慕う心がなければ生まれ得ない不思議な人工の楽園。

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彼のまた凄いのはすべて自身の手で作ることである。近頃の多くの大規模作品の彫刻家達が作品の考案のみを担当して実際に製作するのはそれ専門の工場、職人さんたちという
時代。ルネサンスの工房とも違う。工房は少なくともマエストロが自身で監督し、助手を育てて行く仕組みであり、単に仕事を発注するという現在の仕組みとは根本的に異なるだろう。
この巨大な鉄線の怪物もすべて手に軍手をはめて巻いて行ったという。それは大変な作業だった、手が最後にはきかなくなって傷だらけだったよ、と苦笑していた。

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使用する人工素材と対する製作の厳しさ、想像するにやさしい。しかしそんな仕事とは
うらはらにアンドレアはまるで森林にて木こりをする自然人のような人柄である。
自分の生んだ落し子が遥か日本まで飛んで行くことに心から喜んでいた。
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by jamartetrusco | 2007-04-23 18:05 | Arte (芸術)
2007年 04月 20日

「工芸的造型」

東京の国立近代美術館の工芸館にて「岡部嶺男展ー青磁を極めるー」を観た。

岡部嶺男は「永仁の壷」事件にて一躍脚光を浴びた加藤唐九郎の息子であり、そのスキャンダルとの関わりがあってか、その素晴らしい才能にも関わらずしっかりした回顧展というものが開催されずに過ぎて久しかった。ここのところ八木一夫、加守田章二、富本憲吉の近代名陶芸家の回顧展が相次ぐ中、この岡部嶺男の回顧展も陶芸好きな方には是非一見の価値ある展覧会である。東京の後も名古屋、岐阜、山口、兵庫、茨城と日本各地を巡回する。

「青磁を極める」という副題もついているように展覧会の後半は岡部の青磁作品が占める。
しかし私が感動を受けたのはなんといっても前半の土もの作品である。

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荒縄を巻き付けた特製の叩き棒をつかって縄文模様を施した驚く程力強いの壷の数々。
織部、志野の技法を使い荒々しいばかりの壷の肌合い。縄文時代の炎の形をした野性的な
壷の内包するプリミティブで根源的な造型の力強さと同質である。
彼の作品は写真ではまったくその良さがわからない。今までこの作家の作品はおおむね画像でしか観たことがなかったのに加え、まとまった数を見る機会もなかったので、作品の持つ気迫とダイナミズム、そのどっしりとした存在感など全くわからなかった。
実物を前にして驚き、感動した。
焼き物作品にてこれほど土から立ち上がる立体性、ボリュームを持つ作品も少ないのではないか。土でしから表せない必然的形体。

岡部嶺男は陶芸と音楽の共通性を感じていた、という言及に大変興味を持った。
実際制作中は大音響にてクラシック音楽をかけながら、そのリズムにて仕事をしていたという。両者とも形式が意味を持ち、その制約故に具象を越えた深い可能性が秘められている、と言う。
また彼の言葉をそのまま引用すると「絵画的造型性と彫刻的造型性が工芸的制約によって同化されたとき工芸的造型が生まれる」というのである。
「材質そのものが存在の意味をもつところに仕事の出発がある」という彼の制作姿勢。

カタログを読んでいて、どこかアレの近頃の制作姿勢への類似性を感じてしまった。
思うにアレも多分に工芸家的作家であるかもしれない。
彼の仕事はまさに素材との対話がまずある。彼の頭に形が先にあるのか、それとも素材を感じている内におのずと形が生まれてくるのか。
アレの彫刻作品を見る限り岡部の仕事の出発点と似ている。初めに形ありき、ではなく彫っているうちに素材の魂を見いだすのであるから。絵画にしてもしかり。彼の作品が光るときは決まって色彩のマテエールが感じられるときであると思う。だから表現しようとする何かが露骨に
表出してくるときにはあまりにも生々しく映る。
このような素材への感性はアレと日本との交わりの中から出て来たのかもしれない、ともふと思った。

芸術の様々な絡み合い、それぞれの作家の持つ制作哲学など、とても興味がある話題である。

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by jamartetrusco | 2007-04-20 00:10 | Arte (芸術)
2007年 04月 17日

土の素材感= 存在感

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私が一定の期間不在なとき必ずと言って良いほどアレの絵画表現が展開を見せてくれる。
毎日朝から晩までお互いが空気のように並存する、共存する存在同士であるので
ふっといなくなるとき何かの刺激が生まれるのだろうか。
それとも冬の暗い帳から春のほのかなセンシュアリティー満ちる透明感ある
大気の浮上のせいで、今までの肉体的、物理的作業である彫刻制作から、頭と心
の操作が多分に関わる2次元表現へと自然に想像力が移行していくのか。

砂や土をそのまま素材として色彩にする。
ここ数年試行錯誤している手法である。
土と言えども様々なパレットがある。テッラ・ディ・シエナ(シエナの土)と言えば黄褐色の絵の具の顔料を表すが、そもそもシエナ付近に見いだされる土色から来ているのであろう。
まさにそんな色調のカンバスである。
これはおそらく単にまだ「地」色であり、これからなにか足されるのかもしれない。
或はこの純粋な「土」色で止まるのかもしれない。
いずれにせよこの素材感が好きだ。マチエールのみの魅力である。

素材感が存在感にかわるとき表現が生まれるのだろう。


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by jamartetrusco | 2007-04-17 01:01 | Arte di Ale(アレのアート)
2007年 04月 15日

たわわ

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金曜日夜遅く帰宅した。
朝起きてまずはテラスにて春の色満ちる景色を仰ぐ。
2週間強の忙しかった日本滞在の余韻を感じながらふーっと息をする。
藤の花、まだ散っていなかった。

我が家の藤棚が過去始まって以来の豊かな花をつけた。一昨年の剪定のせいか、今年の気候が見事に藤好みだったのか。これ以上無理というぐらいの量の藤花が枝もたわわに咲き誇っている。ほんのり甘い芳香が庭中溢れる。たわわ、なる感動。

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壁の色に見事に調和して藤の古幹から花だけがその激しい生命力を見せて咲く姿は尚美しい。一輪の花の力である。

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お昼には20度を越す暖かさである。
レモンの黄色が太陽の吸収を感じさせる。

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ビルバが藤棚を背に化粧する。テラスにて昼寝する時節の到来である。

春眠暁を覚えず。

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by jamartetrusco | 2007-04-15 15:29 | Natura (自然)