トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2007年 05月 30日

シュールリアルな時代

明日から仕事でロンドン、そしてニューヨーク。
今回たったの2日間のロンドン滞在中に絶対に見逃せない展覧会が2つある。
ひとつはV&A美術館にてすでに3月末から開催中のSurreal Things: Surrealism and Designシュールリアリズムとデザイン展である。
そしてもうひとつはテイト・モダンで6月1日から始まるダリとその映画展である。

シュールリアリズムの草分けであるダリとシュールリアリズムのデザイン、というふたつの同類ジャンルが同時期に開催されるのは偶然ではあるまい。そして去年の夏にもやはりシュールリアリズムに関する展覧会をヘイワード・ギャラリーでも開催していた。この突然のシュールリアリズムの人気はなんだろう。

美術史には様々な動き、運動、グループなどがあり、時代時代によってその人気度や注目度が変遷する。ある美術の傾向へ回帰するがための表現まで登場することもある。
イギリス,ヴィクトリア朝,19世紀半ばに登場したラファエロ前派などはその一例だ。ラファエロ(だけではないが彼が代表ということで)に端を発するマニエリズム様式に反撥しラファエロ以前の15世紀(クワロトロチェント)の美学へ回帰しよう、という動きである。
作家も時代によってその人気度が上がったり下がったりするのは常なることだ。

シュールリアリズムもしかりで、あまり脚光を浴びない次期が続いていた。
つい最近まではミニマリズムの旋風が吹き、ビデオ・アートやインスタレーションがもてはやされいた。バウハウス、構成主義、シュプリマティズムなどがI N でオルガニックなシュールリアリズムや色彩重視のフォービズムなどはOUTという時代が続いていたように思う。

シュールリアリズムの絵画を代表する作家というと、ダリの他にイヴ・タンギー、マックス・エルンスト、フランシス・ピカビア、ルネ・マグリット、ポール・デルボーなどなど。そして彼らに多大な影響を与えたのはジョルジュ・デ・キリコである。
1920年代にアンドレ・ブルトンが唱道者として発起したこの動きは相反する、説明不可能な事物を並列させたり、奇抜で空想あふれる主題やコンポジションがその主な特徴である。そして人間の奥深くを掘り下げて行くような深層心理的な作品や夢や悪夢を具現したような極めて空想性と想像力に訴える作品が多い。

その代表作家であるようなダリ。テイト・モダンでの展覧会は100点あまりの絵画、デッサン、映画を集めたもので、そのインスピレーションの源であり表現のはけ口でもあった彼の映画を再評価しているらしいから、楽しみだ。ブニュエル合作の「アンダルシアの犬」を改めてじっくり見てみたい。
ダリはピカソなどよりも数倍重要な20世紀を代表する画家である、という興味深い記事を読んだ。反社会的な行動でショック療法のような影響を常識にのっとる社会に与えることのできた最後の大物アーティストというのである。確かに変わったダリ独特の口ひげをしたため、常に自己顕示欲旺盛で、現在誰もがまるで宗教のようにあがめている「ポリティカリー・コレクト」(政治的に正しい)とは正反対の発言をし続け。そして永遠のミューズであるガラを崇拝し。
とにかくエキセントリックという言葉がふさわしい人物である。彼の表現も生き方も実は現在の視覚イメージが氾濫する21世紀を先駆けていたように思える。今現在ダリのような作家はいるだろうか、と問いかけると確かに頭に浮かぶ名前はない。

シュールリアリズムが何故に再発見されているか、それはやはり人間の心がやや八方ふさがりになって心の再確認や再発見に目が向いている時代であるからではないか。論理や理屈が通る社会はすでに過ぎ去り、混沌とした暗黒時代に突入しているかに見える現在。そういう時期に人々は不可思議で理屈の存在しない表現を求めるのだろう。そして現在の社会時代がすでにシュールな状況である。理不尽、深層心理、悪夢、キッチューシュールな特性はまるで反面鏡のように社会を映し出してくれる。


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by jamartetrusco | 2007-05-30 16:53 | Arte (芸術)
2007年 05月 26日

選ばれたるわが町モンテフィオラーレ

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Il Club dei Borghi più belli d'Italiaーイタリアで一番美しいボルゴ(集落)のクラブ。
イタリア全国の州から選出された小さいながら美しい玉石のような町。巨大な観光産業のルートからも外れて人が訪れることも少ないが、しかし歴史、文化、芸術、人々の生活が今に至るまで受け継がれている歴史的な価値に満ちたボルゴ。
町によっては若者が外に出てしまって人気がなくなり、廃墟のごとくになっているものもあるらしい。
そういったイタリアに山ほど存在する小さな集落をクラブの一員に任命することによって保存のための財政を集めたり、観光プロモーシォンに力を注いだり、減少してしまった住民に取って代わる新たな住民を勧誘するなどの目的のもとにできた全国レベルのクラブである。
このたびわが町モンテフィオラーレもその一員に選出された、という案内の手紙がグレーベ市長より届いた。実はグレーベの市長は国営放送Rai3の土曜日に放映されるBella Italiaという番組も担当しており、イタリアの小さな町の歴史や文化を保存しよう、という常からの情熱がある。そのせいで地元推進のために尽力を注いだに違いない。

さて、これを機会に私的な此の町への思いを綴りたい。

私はモンテフィオラーレのresidenza (住民票)をもって10数年である。
この町の良さも悪さもかなり見て来ている。
代々この町に住んでいて外国人に対してかなり排他的な地元の人々との真の意味の交流の欠如。「我々」対「よそ者」の図式は決して簡単に払拭されるものではない。
主人もフィレンツェ出身であるから私とそう変わらない「よそ者」である。
13年もこの地に住んでいったいどれほどの人が私たち夫婦の名前を知っているだろうか?
おそらくアレのことはPittore (画家)、わたしのことはせいぜい moglie del pittore,画家の妻、もしくはGiapponese,日本人、東洋人の区別のつかない人たちにはCinese 中国人と呼ばれていることは間違いない。
どこまで行っても地元の人々との表面的な交流は平行線を辿るであろう。
これは国の違いというよりは都会と小村の人々の生活様式と精神性の違いに他ならない。

しかし小さい町であるからある程度誰もが誰もを知っている世界であるので、住所の番地がなくても郵便物が届く便利さはあるし、子供達は親がいなくても集まって広場で遊んだり、行き来したりして、子供同士の小さな世界を心置きなく享受している。また夏の夜など広場で夜遊びをするのも至って安全である。
子供達はあたかもこの町全体の人々の宝のように目をかけてもらい、大事にされている。大きな集落の家族の一員のような感じだろう。娘もそのひとり。

そして面白いのはこの新世代にとっては私たちは「よそ者」ではなく、彼らの親友の両親、であるからにして、彼らと同レベルでの交流の対象である。そして名前もしっかり覚えてくれている。だからこの新世代にとっては娘はもちろんのこと、我々も彼らの世界に属するメンバーなのである。小さな町のこのあたりの構造は至って流動的である。大都会のような隣はなにをするひとぞ、のわれ関せず縁のドライな関係ではない。排他的でありながら無限の広がりの可能性も含んだ面白い世界。

私自身、東京生まれで大学卒業後ロンドンという大都会に住んでいたという生まれと育ちの関係上、このような小集落的住処は初めてである。
だから戸惑いや窮屈さや意思疎通の欠如など多少のメンタリティーの違いは否めない。
しかしそれを補ってあまりあるほどの田舎の生活のもつ純粋さ、自然に即した生き方への同調がある。
それぞれの空間を侵さずに、静かに、この町の掟の調和を崩さずに暮らす。
出る釘は打たれるとあるが、まさにその感あり。
この13年間、小さな村での生き方を学んだ。
長年の付き合いで愛着がでてきたこの町、ボルゴクラブに選出されてますますその美しさを磨いてほしい。

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by jamartetrusco | 2007-05-26 23:50 | Paese (土地柄)
2007年 05月 23日

Terra Mater


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Terra Materーテッラ・マーター。
Terraは土、大地、地球。目の前にある手で触れることのできる土から抽象的な意味での大地、そしてすべてを包括する地球。
Materはラテン語で母の意。
要するにMother Earth, 母なる大地。
しかしどうしてもTerra Materでなくてはならない。Terra Materの響きが大切だ。
古代エトルリア文明にその根をおろすTerra Materなのである。
ローマの神話での豊穣の女神もTerra Materと言うらしい。
アレの夏の展覧会のタイトルである。

アレの言葉より。

Materia prima per la realizzazione dell'opere.
作品制作の前提にある素材。

Realtà e Fantasia  現実と空想
Materia e Immateriale 事象と非事象
Natura e Artifizio    自然と人為

Corpo, Anima, Spirito, come alchimia della natura
自然の神秘の賜物である肉体、魂、精神。

Tutto scritto con terre e sabbie per rappresentare il viaggio alchemico e esoterico dell’uomo alla ricerca della sua quintessenza aurea, la sua ricongiunzione con lo spirito, mistico e reale.
Purgazione e purificazione.

黄金なるエーテル(精髄)を追求するために人がなす錬金術的、秘教的旅程を土や砂で書き記すこと。
神秘と現実が表裏一体の精神との結合。
浄化と純化。

Terre sabbie e sassi rappresentano la cruda materia iniziale che tramite il lavoro manuale dell’uomo si trasforma di continuo nel suo cammino. Sabbie come deserti da attraversare. Sassi come lavoro della natura. Mattoni e muri intesi come evoluzione tesa a migliorarsi tramite la levigatura e il lavoro dell’ ingegno umano.

土や砂、小石は人の作為の歩みにおいてたゆまず変貌をとげる太古の原素材である。
越えなければならない砂漠の砂。
小石は自然の作為。
煉瓦や石壁は人の研磨や技のなす進化の過程。

Forme rettangolari e cubiche fino ai contenitori “Scatole” che rappresentano l’involucro che contiene l’essenza o meglio la quintessenza aurea nascosta dentro di noi.
四角い形、箱のような器は我々の中に潜む黄金エーテルを内包するもの。

エトルリア、ルネサンスの土壌に根ざすこのトスカーナの大地の本質を抽出すること。
そしてそこから到達できるOpus ー偉大なる宇宙のなす技ーGrande Opera。

Si sedes non is - Si non sedes is
以前にもLa Porta Magicaの記事にて触れたが、左から読んでも右から読んでも逆説的に同意を表す「静止するもの進まず」の錬金術の暗喩に満ちた格言はアレのお気に入りの一言である。

故に彼の仕事はたゆまず進むトスカーナの大地に残される足跡、筆跡のようなものである。
中にエトルリア、ルネサンスの奥義を隠しもちながら。
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by jamartetrusco | 2007-05-23 23:30 | Arte di Ale(アレのアート)
2007年 05月 21日

自然の法則

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椰子の木の成長の過程を見せる節々はそのままひとつの美しい造型表現である。
ウニの殻の寸分違わぬ精巧な点々模様。
いずれもまるで計算しつくされて生まれてきた完璧性がある。


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この完璧性はどこにあるのか。以前にも書いたことがあるが、フィボナッチの数字を思い出す。
自然界のさまざまな仕組みにあるフィボナッチ数字に基づく黄金比。
0から始まり隣同士の数字を足していってできる無限の数である。
0、1、1、2、3、5、8、13、21、34、などなど無限大に広がっていく世界。
様々は花の花弁の数や貝殻の螺旋、ひまわりの種の並び方、木の枝ぶり、などなどこのフィボナッチの数字のごとくなのである。神秘としか言いようがない。
美の世界にも通用するこのひとつの法則。

自然界の一規則として存在するこのような数字があるのであれば、我々人間はいったいどこに位置するのか。あらかじめ存在する一筋の真実というのが人間の行為にも適応するのであろうか。

毎日の行為や感情起伏などはどのように人生に影響していくのだろう。水がなければ枯れ、雨ばかりであれば腐り、数が多くなりすぎれば自然淘汰がある、というはっきりした自然界の掟。しかし弱肉強食の世界もひとつ間違えば、大変なことになる。増殖性の強いものが少数派を殺してしまいかねない。だいたいの場合こういう破壊行為には人為が関わっているのであるが。

「思う」ことが人生に反映される、これは暗黙の真実であろう。
人間の体の中で一番の謎は「思考」「脳」の機能ではないか。
よく右脳や左脳とかの区別を論理と情緒を司るとか説明するのを読む。
「思う」「思索する」「考える」といった行為は目に見えずしかし一人の人間の最も重要な一筋となっていると思う。
毎日怒ってばかりいれば何故か自分に戻ってくることがあるし、機嫌よく暮らせばあまり悪いようにはならない。日常の小さなできごとにも「有り難い」、「幸せ」と思って生きること。
なにか辛いことがあればそれは何かの意味があるのだな、と肯定的思考体系に自らを置くようにすること。夢は叶うと信じる心。
そして何かの問題や出来事には体の力を抜いて接すること。恐怖感や緊張でこちこちの体は沈むしかないである。
美しいものに対する感受性も大切である。これがなくしてどうやって人間は生きられるのか。

ある一定の思考はどこか自然の中にある掟の一部であるような気がする。自然に一貫する調和、宇宙の見えない気とつながるためのアンテナのようなものであろうか。ひとつの調和する考えは次の調和する状況を生む、肯定的連鎖反応のような仕組み。
フィボナッチの連鎖のように。


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by jamartetrusco | 2007-05-21 22:09 | Vita (人生)
2007年 05月 19日

Inaugrazione alla italiana  イタリア式オープニング

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Galleria Alessandro Bagnaiは1987年シエナにて創立した現代アート・ギャラリーでその後フィレンツェの骨董店の並ぶVia Maggioにあったのだが、最近、中心からやや外れたガヴィナーナという地区へと移った。
フィレンツェの中では数少ない現代アートのギャラリーで、なんといってもこのギャラリーの特色はその空間の広さと美しさである。元々自動車の整備工場とか、そういう類いの空間を改装したのだろう、今では見事な自然光一杯のギャラリー・スペースとなっている。

企画展は年に2〜3回という少ない回数ではあるが定期的に行っている。扱い作家は国際的に有名な各国の作家とイタリアの現代作家の有名どころから若手作家。
昨日は取り扱い作家のパオロ・グラッシーノ、ピエールイジ・プーソレ、フランチェスコ・セーナの3人展。3人とも偶然か故意かわからないが、生まれも含めてトリノにて仕事をする作家ばかり。
展覧会の主軸となるコンセプトは「人」と「自然」、もしくは自然が打ち出す次元と人の作為や文化がそこにどのように対応するか、の関係を問うといったことらしい。

ここのところよく出会っている作家仲間のカルロとアンドレアと約束してオープニング会場で直接落ち合った。
まずはスペースの大きさに驚く。まるで美術館の中のスペースのようで、こんな空間はニューヨークのソーホーあたりでもなかなかない。
あまり映像を撮っては失礼だろうと遠慮がちにカルロの後ろ姿を前景に一枚。

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作品は2次元の作品を作るプーソレとセーナ対巨大彫刻のグラッシーノ。
グラッシーノの彫刻はバスルームの床にひいたりするゴム素材を紐状に切ってそれを鉄は木やポリステロールの彫刻型に被せフォルムを完成させる。鹿や鹿の頭など、リアルな動物表現がこの人工素材から作り上げられている。逆説的な自然像。

第2展示室にある巨大な黒い彫刻は何と中に逆さに置かれた車のまわりにチュープを何本もつけて、まるで枝が交錯する森林の残骸のような巨大オブジェを見せている。
心臓部にあるものと表象として見えるものとのアンビバランスが面白い。
そして第1展示室には心臓の形であろう黒い塊。アルミニウムを黒く彩色している。
存在感のある心臓である。

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実はこのオープニングのことを紹介したかったのは芸術批評をするためではない。
空間の他に驚いたのはパーティーに出される飲み物、食べ物の驚くべき量と質である。
6時頃から始まって8時も回ったのでそろそろ娘を迎えに帰ろうかな、と言い出したら、カルロもアンドレアも「これからが本番、プリモ(パスタの類)が出てくるからそれを食べてからにしたら」と居残るように勧める。このギャラリーのオープニングはなんとパスタなどの暖かいお皿も出すことで有名らしく、それを知ったる常連者がたくさん控えているのである。

上質のシャンパン、白ワイン、生ハムやタルトゥッフォ入りプチ・パニーノなどはほんの序の口で、グラスが空くと即ついでくれるボーイさんたちの大サービスのおかげでもうすっかり上機嫌になっていたら、8:30頃からいよいよ小皿に乗った冷製パスタやらパッパ・ディ・ポモドーロやらクスクス・サラダやらチキン・サラダやら、まあどんどんと出てくること、出てくること、、。そしてシャンパンも白ワインも、、次から次へ。そしてその味たるや下手気なレストランで食べるより美味しいのである。
あまり意地汚く食べても、と、やや恥ずかしい気持ちはあるものの、お盆に載せて「どうぞ」と目の前に出される小皿はなんとも食欲をそそる。Grazie, Prego、と連発しながら何皿食べてしまったことか。。
そして究極はデザート。これもチョコムースからクレーム・キャラメルからフルーツトルタからまあ4〜5種類のデザートを出すのである。

この辺で娘を連れてきてくれたアレの弟と合流。娘もこの美味なデザートのお相伴に預かり、それではこの辺でいよいよ失礼、と帰ってきたのだが、たぶんあの後、コーヒーが出て、もしかするとグラッパも、限られたお客さんには出て来たのでは。

世界色々なオープニングに顔を出したが、こんなに食事と飲み物と充実したパーティーに出くわしたのは初めてである。シャンパンいったい何杯飲んだかな、、、。
そして満腹、ご機嫌で楽しい作家仲間と飲み話しまくり。
ギャラリー・オープニングに来たのに、こんなに食べて飲んで良いのかな、数多くいるこのお客達の中に作品を買うコレクターなどいるのかな、などと余計な心配をしながらも、大変充実したひと時を過ごせた。企画展が少ないのもその辺に理由ありか。こんなパーティー毎月できないですよね、やはり。あまり圧倒されてお皿の画像はいっさいなし、ご勘弁のほどを。

嗚呼、太っ腹のギャラリー主に乾杯。
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by jamartetrusco | 2007-05-19 03:41 | Paese (土地柄)
2007年 05月 17日

Grotteschi ー グロテスク文様

5月12日から20日まで、Ministero per i Beni Culturali、イタリアのいわゆる文化庁によって毎年企画されているSettimana della Cultura 「文化週間」となっている。その期間の国立美術館の入館料は無料。また様々な文化イベントが催されている。
というわけで住民も日頃は悲しいかな観光客の列にて入館不可能なウフィツィ美術館などにも入る機会が得られるのである。無料であれば家族で行くことも容易であり、以前もこの週間を利用して美術館を梯子した。
5月の観光シーズン、長蛇の列であったが、フィレンツェ人のアレの機転でうまく入館した。

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ウフィツィにはフィレンツェ・ルネサンスの名画がこれでもか、これでもか、と展示してあり感動は常なることであるが、最近私の目は回廊の天井画によく向けられる。1579年から1581年にかけてアントニオ・テンペスタ(1555~1630)によって手がけられ、その後アレッサンドロ・アローリとその仲間達が継続して完成させたグロテスコ文様のフレスコ画である。

グロテスキーGrotteschi(grottescoの複数形)。イタリア語のgrotta (洞窟)が語源であるが、この言葉の由来はローマ時代まで遡らなければならない。

時代はローマ皇帝ネロの統治。紀元後64年のチルコ・マッシモの付近の市場から発生したローマの大火災によりローマの14地区のうちの4区が完全に破壊され、7地区が手ひどい被害を受けた。これを機会に、とネロ皇帝が火災跡をまっさらにして築き上げたのが、かの有名なドムス・アウレア(黄金宮)である。黄金宮というとまるでひとつの宮殿のみに思われるが実はこの宮を囲む広大な敷地に的に人工的に作り上げられたネロ皇帝の楽園であった。人口湖や葡萄畑、丘や野原も有する100エーカー(300エーカーという説も)ほどの敷地で、都市の中の田園を作りだしていたという。

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黄金宮という名の通り、細部には金箔や準宝石などが施され、天井や壁面はフレスコ装飾に被われていたらしい。そしてアッピア街道の端の宮殿の入り口前に置かれた35メートルほどのネロ皇帝のブロンズ像ーColossus Neronisーがおかれていたという。その当時の豪華さを想像するだけでもわくわくする。後のウェスパシアヌス皇帝期に建設されたフラウィウス朝円形劇場を今ではコロッセオーColosseoーと呼ぶのもここに起源があるのである。

そして驚くべきことはこのような巨大なモニュメントをたったの4年間で仕上げてしまったという事実である。建設着工が64年終了が68年、そしてその年におごれるもの久しからずの常なることで、ネロは失脚、自らの命を断つ。せっかく作り上げた自分の楽園を十分に謳歌できずに終わるのはなんとも皮肉なことである。

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ネロ皇帝の時代を生きた博物学者であり軍人であったガイウス・プリニウス・セコンドゥス(紀元後23〜79年)通称大プリニウスは、この黄金宮建設真っただ中を生き、またポンペイ噴火の大悲劇にも居合わせた人物でもある。そしてとりわけ「博物誌」の作者として有名である。この「博物誌」中に、この黄金宮の花のような装飾の画家であるアムリウスが一日の内、光が最適な数時間しか制作しなかった、と書き残している。フレスコ画の特徴上、漆喰が乾かないうちに絵筆をさばかなければならず、またその色彩の繊細さと構図の精巧さからもこの画家の器量の大きさがわかる。

ネロの死後、次期皇帝達はそれぞれネロのモニュメントを破壊し、敷地を土で埋め立てた。皇帝ティトゥスの築いた公共浴場もこの上に建てられた。
そしてネロの偉業を再発見するにはルネサンスたけなわの15世紀末になるまで待たなければならなかった。たまたま入り口のある洞窟に入った者が内部に開ける素晴らしいフレスコ装飾に遭遇する。そこから一気にローマに集まる当時の芸術家達の驚異と研究の対象となるのである。かくして、グロテスコ、洞窟で発見されたのでそのまま文字通りの名称となったわけである。

その芸術家の中にはラファエロやピントリッキョ、フィリッピーノ・リッピなどがいた。そしてこの新たに発見されたローマ時代のグロテスク装飾はそのまま模写され、これらの流行作家達によって取り入れられたのである。

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ピントリッキョ作、シエナ大聖堂内、ピッコロミニ図書室、天井画

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ペルジーノ作、ペルージアのコレッジョ・デ・カンビオ、天井画


ラファエロによるバティカン宮内の通称、ラファエロの間 Loggia、そしてビビエナ枢機卿のLoggetta(回廊)の装飾もその代表である。


17世紀のペルージア生まれの銅版画家、ピエトロ・サンティ・バルトリ(1615〜1700)もローマに移り住み、自ら黄金宮の発掘をしながらそのグロテスク装飾模写の銅版画本を残している。

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この遺跡、空気や雨水に当たって状態が悪く、修復のためにずっと閉まっていて、今年の2月に一部のみ公開していると聞く。埋め立てられて密閉された状態のおかげで見事に保存されていたのだろうフレスコ画。何が幸いするかわからない歴史の面白さを感じる。フェリーニのサテリコンだったか。映画の冒頭に地下鉄の工事中、壁面を壊した途端にローマ時代の鮮やかなフレスコ画が突然目の前に現れる。皆が驚きと感動で立ちすくんでいるのだが、外部の空気が当たった途端、皆の驚愕の悲鳴をよそにその壁面がみるみる内に色あせ、消えていく。
人目に触れた瞬間うたたかの夢となる儚さの美。
今でもローマはそんな宝物がどこかに隠れている気配がある。

グロテスキはアラベスク模様と動物や人物、顔の組み合わせの左右対称、均整の取れた色彩豊かな美しい装飾文様である。中には奇想天外な動物や様式化された不可思議な顔などを組み合わせた表現があるために別意である「グロテスク(おどろおどろしい)」の意味も暗喩する所以となったのだろう。永遠と展開していくように見えるこの軽快で幻想的な文様はめくるめく眩惑感、どこか恍惚的官能をも喚起するかのようだ。

以前にも紹介したジュゼッペ・アルチンボルドのさまざまなエレメントを組み合わせた肖像画もここに発想の源があるに違いない。その表象はどこか同質の官能的幻想を内包する。
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by jamartetrusco | 2007-05-17 00:13 | Arte (芸術)
2007年 05月 14日

光ー闇 考

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夜の闇の中でともす蠟燭の光は格別である。
電気とはまったく違った空気感と静謐さをたたえ、幻想、夢、太古の記憶を呼び起こす。

電気の存在しなかった昔は一日は太陽のある昼間と太陽が隠れる夕刻に単純に分けれたのである。
ロバート・ハリスのベストセラー「ポンペイ」の小説にもローマ人の一日の時間の分割の呼び名が使われている。古代エジプト、ギリシャ、中国、ローマにおいてすでに日時計は存在していた。太陽の陰の移り変わりで一日の時間をダイヤル状の絵柄の上に示すものである。イタリア語ではMeridianaと呼ばれる。
ローマ時代に完成されたこの日時計であるが、ローマ人の一日は夜明けから日没までが一日という概念だったらしい。故に夏至と冬至では一日の長さも変わってくるわけである。
hora prima(1時目)ーすなわち夜明けーから始まり、hora duedecima(12時目)ーすなわち日没ーまでが一日である。

もっと面白いのは夜の8つの分け方である。夜は日時計が使えないのでその呼び名はもっと詩的であり、肉感的である。
Vesperaー現代イタリア語ではverso sera, 夕に向かう時間といった意味。
Prima faxーこれは私の勝手な想像だが、初めて火をともす瞬間ということでは、というのも、faxはラテン語で火をともす、の意である。
Concubiaーこの言葉は寝床の意なので、そろそろ床に向かう時間ということか。お妾さんのことをconcubina というのはベッドを共にする愛人という意味かららしい。
Intempestaーこれはcuore della notte, 深夜であるが、営みにむかない時間ということらしい。
Inclinatioーinclinatoというのにはタリア語では傾く、の意味であるが、なぜ深夜の後にこの言葉が来るのかよくわからない.
Galliciniumーこれは文字通りGallo(雄鶏)が鳴く頃。確かに夜1時から3時ぐらいの時間に雄鶏というのは鳴くのである。これは今住む田舎家の下に鶏小屋があり、夏窓を開放して寝ていると雄鶏の鳴き声が夜明けを示すわけではない、というのを発見したことからまさに納得のいく言葉である。
Conticiniumーこれは静けさの意で鶏も鳴き止む夜明け前の一瞬の静けさ、であろう。
Diluculumーまさに夜明けの意味である。

日本の時刻も江戸時代は十二支で表していた。十二支がそれぞれ2時間の配分があったので24時間である。草木も眠る丑三つ時、、、という表現は恐ろしい気配がどろどろと現れる感じが彷彿とする。

先日のテラスでの夕食、ろうそくをつけたのはもう陽が落ちて暗くなった10時頃だったか、まさにprima faxの時間帯である。ろうそくをつけた瞬間に五感が敏感になるようである。ろうそくの光とテレビの音は全く似合わない。ろうそくの光には美しい音楽しかなじまない。
炎の反映はすべての物体をひとつの静物画に変貌させる。水のボトルも光の映る被写体と化す。

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以前にも紹介した蠟燭画家、シャールキンの実物にルーブル美術館で対面できた。
光と闇の幻想を表したジョルジュ・ラ・トゥールと並ぶ数少ない画家であろう。彼の蠟燭画には、しかしラトゥールにあるような宗教性や瞑想感はない。たぶんろうそくの灯火が喚起する眩惑、神秘、魔性を追求したキャンドル・マニア。

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ある本で読んだのだが、ペルシャ発祥とされる善悪二元論を唱えるゾロアスター教もイスラム化された形では光と闇は2元ではなく、光がだんだんと弱くなり、消え行く究極の一点が闇であり、故に光と闇は別々のものではなく、闇が光の中に取り込まれている、という哲学であるという。闇と光が同一である、と理解した瞬間、悟りの境地に到達するのだろう。

蠟燭の光は自然と人間の心を内向的、哲学的思いに促すものである。
電気を消して初めて光と闇の本当の姿が顕われ見えてくる。
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by jamartetrusco | 2007-05-14 19:12 | Vita (人生)
2007年 05月 11日

「進行中の庭」健在なり

今の季節はまさに庭仕事日和である。昨年も、アレがせっせと上の庭での作業に励んでいたのもちょうど今頃である。日差しは眩しいものの真夏のようなうだるような陽の照り返しもなく、また蚊もまだ少ないので、日中外で仕事をするのにいたって爽やかな心地良い気候である。
暗いスタジオでの仕事がだんだんとおっくうになる時期も此の頃である。
絵の方の制作も順調に運んでいるから昼間の気分の良い時間帯には外に出て仕事をするのが日課となっている。
アレの庭は大家さんの未使用の庭を世話をするかわりに無料で拝借して楽しんでいる自分のための自分だけの小楽園である。

この楽園にはそこで育った植物と雑草と木々が調和して生息している。だから夏の水がない季節にも十分水をあげたりしなくてもサバイバルできる自然の生命体なのである。毎日水をやらないと死んでしまうような植物はどこかこの地にあっていないような気がする。夏期の乾いた暑さに合う自然というのは昔から存在し生き残ってきたのである。
ローズマリー、ラべンダー、オレアンダー(きょうちくとう)、などはまさに地中海の植物である。
糸杉に地中海松はトスカーナの風景にかかせない。

毎日毎日煉瓦のインスタレーションに生えてくる雑草をつまみ、木や植物の顔をみて、巻きたばこを一服ふかしながら午前か午後のひと時を過ごすのである。こういう頭が「空」になることのできるひと時、無為の時間こそ人間の生命力を育てそして想像力を果敢にする原動力となるのだと思う。

空即是色。

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by jamartetrusco | 2007-05-11 21:48 | Vita (人生)
2007年 05月 08日

新しい住処

昨日は夏のグループ展の作家の作品発送を済ませた。
たった4人の作家でもそれぞれの都合や思惑があってまとめるのは案外と大変である。
日にちの都合などがやっと合って昨日無事に発送することができた。
後は無事に目的地まで辿り着くのを願うばかりである。今頃は飛行機に乗り込んでいるの
だろう。

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今回の展覧会を通して友人となったエレナさんのお宅まで作品を取りに行ったのだが、
彼女は先日ご主人と我が家を訪れてくれていて、その際にアレのオリーブの彫刻が
大変気に入り、小品を買ってくださった。有り難いことである。自分が単に「好き」という
理由のみで即無名の作家の作品を買ってくれる人は本当に少ない。故にこういう
体験は身にしみて幸せに嬉しく思うのである。彼女の飾り気のない自然をそのまま愛する
心からアレのオリーブの魂ふつふつとする作品に惹かれるものがあったのだろう。
ともに近間を散歩して、そして手提げ袋にオリーブ作品を大事にしまわれて。
ワイン祭りの土曜日に遊びに来られたのだが、我々がいつも買っている農家のワイン
の1.5リットル瓶をプレゼントしたので、それで十分満足されて活き活きと帰途につかれた。

そして昨日彼女のお宅にてそのオリーブがしっかりと彼女の家にとけこんでいるのを
見た。娘も友達も皆気に入っているの、と大変嬉しそうに話してくれた。
彼女の手によってひとつの作品と成り代わった落ち葉たち、貝殻たち、そして見覚えのある
海岸の石ころたち。迫力ある流木の主、貝殻の群れ。大理石の塊。
素晴らしい仲間に囲まれた住処に収まってさぞかしオリーブも幸せか、と感謝の気持ちで
一杯である。
水を得たる魚の趣き、とはこのことか。

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by jamartetrusco | 2007-05-08 21:48 | Arte di Ale(アレのアート)
2007年 05月 05日

集中力

ここのところのアレの制作ペースの早さは驚異的である。
毎日スタジオにこもりっきりで絵の制作に打ち込んでいる。
大きな作業台の上にキャンバス地やその他の画地を置いて
制作する彼独特の方法である。
いわゆる画家のシンポルのような絵の具パレットとイーゼル
そして筆を使っての姿はない。

絵の具を載せるのに使うのは通常、パレットナイフか
自家製のへらのようなもの。メタルであったり木製ヘラであったり。
だから絵の具を塗り込んでいくようなねっとりした
柔軟性のあるテキスチャーが生まれる。
そして使う色は5原色のみ。そこからありとあらゆる
色彩を生み出していくわけである。

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そして彼の秘密道具。
さまざまなサイズの櫛。
普通の男性用の櫛だが古くなった
ものを折って使っている。
画家の制作道具なんて
いうのは案外日常の片隅
から来ているのである。


アレが絵の制作に乗ってきているときは必ずわかる。
夜おそくまで、または朝早く起きて制作しているときだ。
人気のない時間帯に集中力が増すのだろう。

みるみる内に何枚もの絵ができあがっていて、たまに
スタジオを覗くと、やっぱり随分できている、と納得するのだ。

夏の2カ所にわたる京都展に十分な数にはもうあと一息である。

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by jamartetrusco | 2007-05-05 15:48 | Arte di Ale(アレのアート)