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2007年 10月 30日

孤高の画家バゼリッツ

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ドイツの画家であるGeorg Baselitz の回顧展をロイヤル・アカデミーで見た。一人の現存の作家の回顧展をこの会場で企画するのは非常に稀である。彼はビデオ作品やインスタレーションが主流となりペインティングがやや流行外れとみなされた80年代にも盛んに絵画や彫刻に拘り続けた作家である。1938年に旧東ドイツに生まれ教育を受け、60年代には西ベルリンに移る。

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1960年代の彼の表現は全体に不穏感に満ちて最も力強い作品群に溢れるものであろう。
63年西ベルリンの画廊で発表したBig Night down the Drain 「下水に流れる夜」と題されたマスタベーションする少年の作品はもう一点「裸の男」とともに猥褻として没収された。スキャンダルとして扱われる芸術表現のまだ存在した時代である。
ぶつぶつと切断されたいわゆ"Fracture"(分裂、破砕といった意味) Paintingを制作したのもこの時期である。

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展覧会中最も印象的なのはこの大作 Oberon (オベロン)である。まるで火星人のような顔が数人で覗き込んでいる。異邦人を見るかのうように。カフカの世界である。

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65年に奨学金を得てフィレンツェのVilla Romanaにて滞在。以後現在に至るまでイタリアに常に工房を持ち続けている。マニエリズム時代の作家であるポントルモやロッソ・フィオレンティーノの反理性的表現と形の歪曲に惹かれ、その意味では彼もその表現に近いと語るバゼリッツ。確かにバゼリッツの表現は調和や均衡とはほど遠く、心に不安感と違和感を喚起させる色彩と形体はマニエリズム期の表現と共通するものがある。
そして60年代終わり、作家としての名声をある程度達成した頃、突然と逆さま絵の制作を開始する。ひとつの展開として既存の絵画概念を覆し、どこか挑戦的、攻撃的な表現を試みたいと思った時に逆さま絵を考えたらしい。そういえば逆さま絵を描く作家は彼が初めてかもしれない。逆さまの風景、逆さまの最後の晩餐。必然性にまったく欠けたこれらの表現にはどこか自嘲も感じられる。

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1980年のヴェネチア・ビエンナーレには初めて木彫作品を展示した。それ以後80年代には生木をざくざくと切り込んでいくエネルギーのほとばしる木彫表現への追求を続けた。絵画表現と同等の理性を離れた動物的衝動に満ちた彫刻である。

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彼が絵画や彫刻の表現の特異性ということについて語っている一文を読んでなるほどと納得した。他の芸術表現ー音楽、文学、演劇などーと違って絵画や彫刻制作は「孤立」の表現である。監督、指揮者、出版者といった第3者の介入がなく、一人孤立して市場に対決しなければならない。孤立、独立を欠いた表現は芸術の終わりである、という。社会のためにという名目の上で出てきた表現や助成金をもらうことでなりたつような芸術は嘘である。多いに賛同する発言である。
彼の作品にはまさに「孤高」感がある。ドイツナチの亡霊に悩む現代史を持つドイツの破壊性を内包しながら理性に相反する表現を生きる息吹として出るがままに放出させている。自身にわだかまる表現エネルギーを自分のためにぶつけているといった感の作品。
破壊と衝動、反理性的エネルギーをとことん突き詰めた作家である。
絵画の持つ底知らない力をまざまざと見せつけられた素晴らしい展覧会であった。

2006年には30年来住み続けたDerneburg城を売りイタリアのリグーリア地方のインペリアに住んで制作に没頭していると聞く。
バルテュスにしろバゼリッツにしろお城を住処にするアーティストになぜか惹かれるのである。城壁の中に隠れて愛妻とともに制作のみに没頭する孤高の画家。
自分たちの城ではないとしてもCastello di Montefioralleであるに違いない我が街に隠遁するアレと筆者の生活もそれに近いかもしれない、などとほくそ笑みながら。
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by jamartetrusco | 2007-10-30 20:02 | Arte (芸術)
2007年 10月 25日

Saatchi Gallery Your Gallery

イギリスの広告王であり現代美術のコレクターとして有名なチャールズ・サーチという人物がいるが、彼はコレクションを見せる公のギャラリーを来年新規開館する(以前はロンドンの川沿いにある旧ロンドン市庁舎内にあったのだが貸し主ともめて閉館してしまった)ばかりでなく最近では若い作家を助けるためのウェブサイト、Saatchi Gallery onlineを公開している。
イギリスの90年代以降、名を馳せて活躍している現代作家、ダミアン・ハーストチャップマン・ブラザーズグレイソン・ペリーなどはすべて彼が作品をその所蔵に加えたことによってさらに知名度を増やした幸運な作家達である。特にグレイソン・ペリーは焼き物の壷に風刺画を描くことによって陶芸と現代アートの狭間に位置する作品を表現しているが、現代美術の画廊にて初めて発表され、サーチが高額で購入し、そしてイギリス現代美術の登竜門であるターナー・プライズを獲得したことで現代アートの作家として扱われている。同じ土を使って壷を作っているいわゆる陶芸家の作品の価格とは雲泥の差と知名度で売れるのであるから一部の陶芸家からはやっかみ半分の批評も出てくるのは当然であろうが。
このオンラインのギャラリーにアレの作品も入れることにしたのはもう一年前のことである。
膨大な数の売れない作家達が掲載されているYour Gallery。毎日続々と増え続けるだあろう掲載作家の数。なんだか気の遠くなる話しである。兵馬傭も顔負けの宇宙学的数字の全世界の売れない作家の数。。。この中で日の目をみるものは幾人いるのだろう。

Onlineにて作品を見せるYour Galleryの他にもStuartという美学生の部門とか他にもいくつかの項目がある。自分でアップデイトできる仕組みである。
それにしても掲載して1年経つがこのサイトを見て連絡してきた人は一人もいないというのはやはりあまり作家数が多すぎるし、たまたま作品が目に入る率というのは数百万分の一であろう理由からか。何事も忍耐。前進あるのみ。
ご参考までアレのページは以下です。

Alessandro Nutini
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by jamartetrusco | 2007-10-25 18:41 | Arte di Ale(アレのアート)
2007年 10月 21日

First Emperor - 兵馬傭の偉大

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ベルトルッチ監督のLast Emperorという映画があったがそれと対照的にFirst Emperor,
つまり中国の最初の皇帝、秦の始皇帝のことである。
最近の中国ブームにあおられて中国関係の展覧会があちこちで開かれているが、その中で
いかにも観覧者数の成功を最初から祝うような展覧会が大英博物館で開かれている。
来年4月6日まで開催の"The First Emperor"展。考古学的研究を見せるのではなくどちらかというと一点豪華主義の展覧会であり、もう少し学術的説明があっても良い感じはするがそれでも兵馬傭の実物を見れ、始皇帝の偉業を実体験するだけでも価値がある。
兵馬傭はご存知の通り秦の始皇帝の墓に埋葬されていたテラコッタ製の軍隊の等身大の像。
墓の広大さだけでも頭がくらくらする。なにしろ56キロ平方の敷地に7000体の像が埋まられていたというのだから。今までにまだ1000体ほどしか発掘されていないという。これらの兵馬傭は死後も国を治めることを信じていた皇帝がそっくりそのまま自分の軍隊と馬を30年の年月をかけて作らせ、自身の墓の周りに埋葬したものである。顔の作りや表情も一体ずつ違うというのだから凄い。

1974年に畑を耕していた百姓がこの陶像の頭をたまたま発見した。それから始まった発掘作業。20世紀最大の考古学的発見として度々話題となってきた。
秦という言葉が英語表記ではQin、発音はChinであることから中国の国名Chinaの由来があることも案外知られていない事実であろう。
そして始皇帝のピラミッド型の墓自体は周りに水銀の川が流れていて人工の星空があるという伝説もある。現在まで未発掘の謎に包まれる始皇帝の墓である。将来この墓自体も白日にさらされることになるのか。


兵馬傭の像を実際に目前としてその精巧さにまず驚嘆する。細部まで細かく描写が行き届いている。そして写実的でありながら様式化した表情の顔。馬も驚くべき迫力がある。
この陶像の素晴らしさもさることながら、心に残ったのは始皇帝の超人的な思考体系である。
13歳にして初めての皇帝となり49歳にて死すまでのその功績。
流れ作業に則った大量生産の仕組みを作ったのもこの皇帝である。

このテラコッタの彫像の比類なき存在感をみて芸術作品を生むには良きにしろ悪しきにしろ独裁者(否定的隠喩が含まれることが多いがそうばかりでない)が必要であることを痛感した。それも啓蒙精神に満ちた独裁者が。これだけの作品をそうでなければ誰が生むことができただらろう。
ひとりの偉大な心ーそれが狂気に満ちたものであれ、力への妄想であれーのもとに為さずには為せない芸術的創造、文化熟成が存在することは歴史が語っている。
エジプトのファラオしかり。フィレンツェのメディチ家しかり。桃山時代の秀吉しかり。

全く違った分野であるが、現在最も刺激的とされる現代アートフェアのFriezeを見た後で、現代アートの不毛をつくづく感じてしまった。もちろん単に個人的意見であり、現代アートの動きに直接的に関わっている作家や画廊の人々にはひとつの揺るぎない歴史の構築であるに違いないのであるが、客観的な立場から見るとなんだか虚ろなものに見えてしまうのは最近のアートの金権至上主義のせいか。資本主義と民主主義に則った世界には真の力ある芸術は生まれないのかもしれない。
多かれ少なかれアートの世界に携わるものとして、そして今生きる作家の妻としてこれからどうして生きていくか、どのような目的を持つべきか、難問である。2000年以上前に作られた兵馬傭の実体を前にして芸術の普遍性を考えさせられた。

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by jamartetrusco | 2007-10-21 21:14 | Storia (歴史)
2007年 10月 09日

エレナの黒いふくろ

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この7月埼玉県立近代美術館にて開催されたエコロジー・アース・アート21夏展覧会に出品した作家友達。作品が無事返送されたのを機に、その作家のひとりであるエレナ・サルヴィーニ・ピエラリーニの自宅にて再会した。展覧会の報告を兼ねてである。
実際に展覧会場にて展示を手伝い、オープニングに出席し、会場の写真などを撮れたのはアレだけであるので他の作家たちは興味津々に話しを聞き、展示の様子をみて皆満足の様子であったのでひとまずほっとした。

エレナは夏精力的に仕事をしていて、展覧会も2回開催。彼女の場合、展覧会というのは普通一般に考える作品展示とは違う。libro in piedi (立つ本)という詩情あふれる作品群を作る彼女。常に自然環境からのfound objectを刺繍でみがいた糸の技で織り込んでいく彼女ならではの手法である。

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夏の島にて行ったイベントはこの本を何冊も黒い袋にいれて作家を含める数人の主体たる人々が通りを歩きながら、最後に城壁の段々に置き見せるという「動」と「静」が合体した展覧会であった。袋という器にいれる、ということの意義。彼女も箱、容器、器に常に興味がある。
自身を中に包み込む。肉体も魂の器である。そんな発想が展開して、過去の彼女の制作と思考がつまった集大成とも言える一冊の黒い本、中には作品の画像と友人の作家や哲学者が書いた評論が絵巻物のように収められている。

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そして巻末のページはこの本を持つ人が自由に想像力を活かして作り上げていくために残されたものである。il tempo dell'attesa, il tempo della libertà, il tempo della condivisione. 待つという時の流れ、自由という時の流れ、分かち合う時の流れ。
彼女の抱擁がそのまま本となった美しく、寛容で、心休まる作品である。




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by jamartetrusco | 2007-10-09 18:21 | Arte (芸術)
2007年 10月 05日

密かなる美の美

6月頭久々に訪れたニューヨーク。そして必ず足を運ぶのはメトロポリタン美術館である。巨大な美術館であるため訪れる度にある程度絞ってみるようにしている。今回の最大の再発見はローマ、ギリシャの新たに刷新した展示ギャラリーである。

時間をかけてゆっくり見るとおやっと気がつく控えめながらも光を放つ美術品の素晴らしさもこういった世界有数の大美術館ならではである。誰もが見にいく目玉コレクションの影に隠れてその存在に気がつく人もほとんどいないのだが、こういった小さな芸術品にこそ、その当時の人々の生活感や世界観が映し出されているような気がする。そして作り手の思いや手触りや息吹が伝わってくる生々しい作品である。

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ギリシャ、ヘレニズム期、紀元前1世紀から2世紀頃に作られた3つの小さな彫刻。テラコッタによる女性像と老人の姿に戯画化されたエロス。そしてブロンズ像の走る男。
解説によるとこの女性像は老女ではなく極度に病んだ若い女性像であるという。
着ている衣装の具合から若女であることがわかるらしい。そしてこの悪魔的な老人が何故にエロスなのか。神話にある愛の象徴であるエロスは常に若々しい青年か少年のイメージで表されるのがしきたりである。老人をエロスと化すその皮肉はなんだろう。エロスの持つ魔術。一瞬にして老化する愛の行く末を皮肉っての表現だろうか。痩せこけた走る男。オリンピックの肉体美とはことごとく離れた枯れた肉体のランナー。長距離ランナーに違いない。何故走らなくてはならないのか。すべてがギリシャ美から想起する堂々とした均整のとれた彫刻からかけ離れた、「生きる」ことの裏面を露にした人間味溢れた生々しい表現である。

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そしてエトルリア美術の展示室にあった面白い彫刻3つ。舌を出したこの中年男は誰だろう。そして静かに眠るかにみえる衣をかぶった女性像。また意味不明の指の彫刻。
解説などついていないので想像のみに任せるしかないが、ある都市の高名なる人物の墓のためや肖像のための彫刻でないことは確かである。もしかすると職人である石彫り師が自分の自画像や指の形、または横で寝る妻の寝顔をユーモア込めて彫ったのかもしれない。


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もうひとつ、これもエトルリア時代の職人が自分の仕事の象徴として彫ったに違いない道具のレリーフ。石彫のためののみととんかちであろう。店の看板だったのだろうか。素直な表現がなんでもない道具の形の美を惹き出す。

当時の日常を彷彿とさせるこれらの作品は美術品としての価値如何でなく不思議なほどのリアリズムと表現の率直さを持って心に訴えてくる。見知らぬ職人
の持つ力。密かなる事象の、事物の美しさ。
美とは何か、そして表現の技をこれでもか、と主張してくる多くの美術品の中でこのようなマイナーな表現というのに心惹かれるこのごろである。


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by jamartetrusco | 2007-10-05 03:55 | Arte (芸術)
2007年 10月 02日

アトリエの画家

アトリエの画家。

ある一枚の油絵がずっとアレのアトリエに未完成のまま置かれていた。
下絵は壁の絵だったと覚えている。
その絵は一晩のうちに真っ黒にぬりつぶされていた。

どろどろした内臓が流れて出るような黒である。

ときどき目にするアレの内面の葛藤を目にする思いである。
透明感は消え、光の消滅した暗黒の世界。
ほんの少し輪郭を残す生命の動きが少しあるのみ。

いつも思う。アレの表現の原点にある暗闇である。作家が常に内包するどん底の
表現があってそこから何かが昇華して放出するのであろう。暗闇に光が灯る一瞬。
その昇華の一瞬を掴むことが作家の閃きかもしれない。


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by jamartetrusco | 2007-10-02 01:42 | Arte di Ale(アレのアート)