トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2007年 11月 28日

Legenda della Vera Croceー聖十字架の伝説

聖十字架の伝説。
イタリア語ではLegenda della Vera Croce。
キリスト教の精神史にかかせない聖遺物信仰の内もっとも神秘溢れるものであろう。

キリストの磔刑に使われたとされる聖遺物としての十字架の伝説である。13世紀に
ジェノバの大司教であるヤコボ・ダ・ヴァラジネにより完成された「黄金伝説」に明記されている十字架に使われた木の神々しい由来。
十字架となった木はもともと「エデンの園」に生えていた「命の木」の種から生まれたものである。アダムが死の床で息子セトを天国へ送り、死への旅の糧となるよう慈悲の油を取りにいかせるが、大天使ミカエルはその代わりに「命の木」の種を与える。
これを墓に埋葬されるアダムの口に落とすと口から「命の木」が生えてくる。
この木は後に伐採されて橋となりその上をソロモン王に会うために旅するシバの女王
が渡る。その橋木の力に驚愕し橋の上に跪き讃え祈る、というものである。その後キリストの磔刑に使われたものとして奇跡的に発見される話しへと続く。

アダムの口から生えてくる「命の木」のイメージが極めてシュールで視覚的だ。
人の肉体がそのまま埋葬され、そしてそれが土となり、自然へと回帰し、その上に
新たなる木の生命が生まれてくる。その象徴であるのだろう。
土葬である西欧社会ならではのイメージである。
アレによればトスカーナの糸杉が多く生えた小高い丘は墓であると言う。墓地にも必ず杉の木が生えている。イタリアの墓はよほどのお金持ちでない限り遺体は土葬されて十年経つと骨だけ納骨堂に移され、また同じ土に新たなる遺体を埋める仕組みである。であるから同じ場所には多くの人の生命が埋められていることになる。肉体に執着した信仰であるから聖遺物なるものも存在するのであろう。
そしてオリーブの根っ子の生命力とその湾曲した姿は土の奥底にある何百年、何千年にも渡っての人と自然の絡み合いの結果であるようにも見える。

一本の木の伝説がキリスト教世界全体のあり方を示しているような気がする。
それはわれわれが神々しいものとしてしめ縄をつけ、古木を拝む心の有り様とは全く
別のものであろう。

文明の歴史、人の精神史を知る、ことの大切さ。
伝説は真実を語っていることが多い。



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by jamartetrusco | 2007-11-28 23:46 | Paese (土地柄)
2007年 11月 22日

アートの行く末?

先日ドロップペインティングというアクションペインティングにて1950年代前半一躍美術界の寵児と化したジャクソン・ポロックの映画"Pollock"をテレビで深夜放映していた。彼はロスコーとともにある意味では現代美術の最後の巨匠と言えると思う。
ヨーロッパから発信されてくるシュールリアリズムという美術運動に惹かれながら、影響を受けながら、しかしそれに対して反抗して何か自身の表現を生み出そうとするエネルギーを絵画で実践した。
ヨーロッパとニューヨークの間を行き来しながらこの当時のアート界の若手作家を、時には恋人として(マックス・エルンンストの妻であった)ときには経済的、精神的理解者としてサポートすることにより、芸術界全体に多大な影響力を及ぼしていたペギー・グッゲンハイムの存在も否めない。彼女の周りに登場した作家は錚々たるものである。
50年代までの美術界は二つの大陸で最も画期的であり、刺激的であったに違いない。

アメリカがヨーロッパ美術界を取り込みながらふつふつと湧くような創造力溢れる時代として台頭し、数々の作家達を放出したのはこの1950年代前半で終結したように思う。
50年代後半よりイギリス、アメリカを中心としてポップアートが力を持ち出したときアートはいくべき道を失った、と私は感じている。
アンディー・ウォーホールはアートをだめにした、と言っても過言でない。

神話を消去し、人の歴史の流れから逸脱し、現代メディアの一手段としてのエネルギーのみを強調する表現となったときいわゆるアートは力を失ったと思う。
ポップアート以降様々な形で表出しているアートーコンセプチュアル、ミニマリズム、インスタレーション、ビデオなどなどーはすべてポップアートを起点として表れている
表現のように思えて仕方がない。ローマで見た「ポップ・アート」展をみて痛感したのはそこにある表現はすべて今現在にも見て取れる表現に他ならない。
というより今でもコンテポラリー・アートの一表現として注目を浴びている作家たちの表現はポップ・アートから少しも変わっていないような気がするのである。
そしてそれらはどこか空虚である。頭のみで表現を解釈したメディア・アート。
コンピューター・グラフィックとあまり変わりない。
そこにはへその緒で根本的芸術の深淵とつながった腸的表現はないのである。
このような中途半端なアートであるならば、映画や漫画を通じて表れる表現のほうが数倍も優れて力ある。

アレという作家を横にして生きる者として、今一体何を表現すべきか、
一体アーティストたるものなんであるか、という疑問は常に頭を行き交う。
そんなとき、現在のアートの辿る道の行く末が見えないのである。
なんとなく胡散臭い世界になりつつある今のアート界。
自分の信じる処のみを表現するしかない作家としてのアレ。
我々の生きる道はどこにあるのだろう。

目の前に広がる。。。とてつもない未知数の。。。暗黒。

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by jamartetrusco | 2007-11-22 23:27 | Vita (人生)
2007年 11月 17日

炭塊

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木炭。木と火が一体となって水分を除去して石と化すような
不可思議な自然の一過程である。

木という素材が見せる新たな表情である。
無限大の可能性を秘めた塊。
気泡性があるため脱臭効果や濾過効果も備えている。
焼き物の焼成にも欠かせない。
絵画の下絵の素描のための原材料でもある。
人の歴史に欠かせなこの不思議な塊。

日常に当たり前にあるこの素材に魅せられて
描かれたひとつの絵。
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by jamartetrusco | 2007-11-17 17:13 | Arte di Ale(アレのアート)
2007年 11月 13日

神話のある色彩


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マーク・ロスコーの色。色彩の重なり、濃淡、並列、対比にて神話を表した唯一の画家。15世紀の宗教画の多くより遥かに精神性、神聖を感じさせるその色彩。
人の命の背景にある心のよりどころ、神話性、人間の存在意義と神の存在など計り知れない定義を絵画の色彩を通して具現化した画家ではないかと思う。

神話。Mythology 。ある文化に属する自然とそこに認知する神の存在を具体的に寓話にしたり、表象に表したりすることによって崇拝の対象として象徴化することか。
神話を教義化して唯一神のもとに統一しようとしたのが宗教とも言えるだろう。
ロスコーの平面は宗教以前の「心」を内包する絵画である。

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マーク・ロスコーの色には神がある。色彩に涙することができる。
彼自身が語っているように色彩は「人の根源的な情緒を表現する手段」である。
「自分は抽象画家ではない。形と色との関係に興味がある。唯一関心を抱くのは人の
根源的感情ー悲劇、忘我、運命ーの表現だ。」

彼の赤は呼吸している。
畏怖や悲願や歓喜が表れた色彩の帯。


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色彩が持つ力の神秘。
まさに礼拝堂を飾るにふさわしい。ヒューストンにあるRothko Chapelは当然の帰結である。

色彩の呼吸、脈動がなくなった60年代後半のBlack on Gray Paintingー灰色に黒の絵画。
厳格に分離した2色の色彩画面。精神の浄化を象徴するような白。


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心の悲劇をそのまま表した晩年の作品である。彼の自殺が理解できる最後のグループである。

色彩の変遷によってみえてくる画家の一生。






5年の修復期間の後、ローマのPalazzo delle Esposizioniが新たに開館した。
ローマでの展覧会会場としては最大の施設である。
大きな展覧会を3つは収容でき、カフェと本屋、映画上映などある文化センターである。
新規開館を記念して現在重要な展覧会が開催されている。
そのひとつが「マーク・ロスコー」展。
マーク・ロスコーは大学時代から大好きな画家で、さまざまな現代美術館にて作品はいくつか見る機会があったが、これだけまとめて時代ごとの彼の作品を展観するのは初めてである。
ローマにて必見の展覧会。
他に天才監督スタンリー・キューブリックの代表作を辿る展覧会とイタリアの現代彫刻家、マリオ・チェロリ展。それぞれまったく違う性質の芸術を紹介する質の高い展覧会が同時開催されている。活気あるローマになりつつあるこの古代都市。Dolce Vitaの再現は可能だろうか。
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by jamartetrusco | 2007-11-13 00:47 | Arte (芸術)
2007年 11月 05日

トレビの泉が赤くなるとき


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10月19日の午後、ローマの観光名所のひとつであるトレビの泉が真っ赤に染まった。
相変わらず観光客に溢れる泉に帽子をかぶった男が染料を投げ込んで逃げたのである。
一瞬皆何が起こったかわからなかったであろう。みるみる内に赤く染まっていく泉の水。
大理石の彫刻と赤の泉が超現実的なコントラストを作りだして画像を見るだけでも妙に美しい。
そして現場には"Azione Futurista 2007"(2007年未来派活動)と記された声明文が残されていた。ちょうどこの時期にローマにて開催されていた映画祭への批判と今の社会への批判が織り込まれた声明文であった。
この声明文は明らかに20世紀初頭に台頭した芸術運動であるFuturismoー未来派ーを意識して書かれたものだろう。1909年に詩人であるマリネッティにより唱導された「未来派宣言」に端を発した前衛芸術運動である未来派。過去の伝統や芸術を徹底的に排除し、近代の機械文明による速度を理想とする破壊性を唱える過激な思想に支えられ、20年代当時はまだ社会主義と呼ばれていた後のファシストに受容されられる思想となる。近代文明の黎明とともに出現したモダニズムの一貫である。
カメラに残った映像から、また未来派への言及から、犯人はネオ・フトュリストー新未来派ーと自称する画家であるグラツィアーノ・チェッキーニではないか、という疑いがあがる。
彼は当時の取り調べに対しては自分ではないと否定したが、実際に彼であることに間違いない。

泉の大理石には全く被害なく終わったこの行為は実に象徴的で視覚性に富む。
街起こしには違いないがすでに存在するヴェネチア映画祭に対抗してつい最近始めたローマ映画祭。ローマ市長のヴェルトローニ(現在左翼政党の党首)が映画好きということから開始された祭りである。お決まりのスターが表れ新作映画の初上映をレッドカーペットとともに行うなんの特色もない映画祭である。このレッドカーペットの赤色への風刺も兼ねての赤。
商業主義に走る社会と芸術の陳腐への鋭い批判を込めて赤に染まったトレビの泉。あまりにも観光化したこの名所への皮肉にも見て取れる。
儚いシュールリアリスティックな視覚イメージとしてそこに居合わせた皆の目と心に焼き付けられる創造的エネルギーに満ちたものであったろう。実際に現場にいて観てみたかったものである。

この行為、一部の知識人に大変受けた。過激な広告写真で常に議論を醸し出すベネトンの写真家オリビエロ・トスカーニは当初からこの「赤いトレビ行為」に賛同し、この画家にもうひとつの
パーフォーマンスを依頼し写真とした。赤い水に満ちた風呂桶につかったチェッキーニの画像を撮影したのである。赤い水からにょっきり表れた彼の顔。なかなかユーモア溢れる。

60年代に多々起こっていた社会風刺をかねた芸術家達のハプニングなど今では遠い昔の出来事のようである。どこかまだ何かを信じることができた肯定性を孕んだ行為というのが消えてしまった、あるいは不可能になってしまった現在の状況の中で近頃珍しく興味津々と聞いたニュースであった。
Viva artista!





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by jamartetrusco | 2007-11-05 17:17 | Paese (土地柄)