トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2008年 05月 30日

続けること

先日エルダが夏のグループ展に出品するアレの作品を選びに我が家を訪れた。
展示空間をすでに見ているのでどの程度の数と大きさが必要が分かっているのは
彼女のみである。Villaの中にある元礼拝堂の空間が展示壁面となるらしい。
天上高もあり大きな壁を埋めるとのことで、アレの作品中比較的大きなキャンバスを
3点一組を1作と2点一組を2作、選んだ。
そして残りは40x50cmの作品のコンポジションとなる。
大きな作品は輸送上日本では展示したことがないので未発表作品がいくつもある。
今回近間での展覧会なのでその辺を初めて出品できることは満足だ。

作品選びにあたって第3者の眼の存在の価値を改めて感じた。
いつもアレ自身、もしくは側近である私とで選んでいるが、今回良き理解者であり
批評家であり、長年の友人であるエルダに選んでもらうことによって作品に新たな
光が当たる思いである。
心の荷が降りるような快感である。
批評家が作品について語ってくれたりする、そして第3者が好んで買ってくれたりする
ときの快感はそれこそ作家としてひとつの醍醐味だろう。
しかしそれが度を超して行き自身の管理域の外に飛んでいくとき作家は果たして
満足なのだろうか。
現存作家として自分の作品が何億にてオークションにて売れるとき、どのような気持ちがするのか想像するにむずかしい。
自分の制作した作品への胡散臭さを感じてしまうのではと思う。
死んでから売れる方が返って幸福かもしれない。
スタジオを処狭しと埋めていくアレの作品群。娘はいったいこれらの作品を将来どうするのだろう。

作家にとって最も重要なのはとにかく自分の信じるところを制作し、そして周りが
どうなろうとも、売れようが売れまいが、とにかく「続ける」ことである。

それしかない。



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by jamartetrusco | 2008-05-30 22:07 | Arte di Ale(アレのアート)
2008年 05月 28日

古葡萄のような人

ワインとオリーブ・オイルを作る地元のおやじさんがいるのだが、
人間の動物的、本能的強さを体現したような人である。
彼の家は典型的トスカーナの田舎家でやや小高い丘の上にある。
周りは自分が手塩をかけて育てている葡萄畑とオリープ畑。
オリーブの剪定ではなかなかの腕利きだそうだ。
外には猫の大家族が共存している。番犬もいっぴき。
家には年老いた叔母さんとその息子も同居している。
彼はどうも一人ものらしい。キャンティの野生いのししのようなワイルドさが
あり、ぼさぼさの長髪で一見若々しく見えるのだが、なんと65歳とのこと。
驚きである。
そしてこの叔母さん、なんと93歳で腰骨を折り、今リハビリ中という。
彼曰く自分のお祖母さんは一度も医者にはかかったこともなく15人の子供を
自宅出産し87歳まで生きた、という。
今の都会の人々のように何かというと病院に飛んでいくなんて、考えられない。
ちっとも豪華な生活ではないけれど、自然とともに生きていて自然に生きるものの知恵がある。そしてたくましさがある。
病院や医者を否定するのではないが、今の医学、なんでも検査、検査で本来の「手当て」の意味から遠のいているようである。
手を当てることによって癒されるというのは実は真実に遠からずであると思う。
この人とその根本的な生き方をみていると「病いは気から」と思えるのである。

この人のまた面白いのはワインを買いに行く度に社会性、歴史性、政治性に
富んだ話題に花咲くことだ。彼の抱くのは左派も右派も信用しないアナーキーで、
アボリジニな思想である。
地元の小さな農家はどんどん大規模ワイン生産のお金の出所すら怪しげな大企業
の所有に取って代わり、そのために自然の調和は壊されてワインの味まで同一化
されていく。この付近でも個人で頑張ってワインやオリーブオイルを作る希少価値の人となりつつある。彼の土地を買収しようという輩は少なくないと言う。いつまでも抵抗していくぞ、という意気込みたっぷりのおやじである。

古くからある葡萄の捻曲がりながら生き残ったその賢老人のような姿は今あちこちで植えられる新種の形が一律同一で弱々しい葡萄とは別物である。
このおやじもまさにこの古葡萄のような智慧ものである。
応援していきたいと思っている。

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by jamartetrusco | 2008-05-28 18:40 | Paese (土地柄)
2008年 05月 23日

思うこと

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今年の夏は娘と私だけの帰京となりそうだ。
アレは夏こちらにてグループ展を開催する見込みである。
去年エコロジー・アース・アート展に参加したフィレンツェ作家4人の
集まりである。美術批評家、教育者、作家である友人エルダの企画である。
彼女の住むMontecerboliが属する市であるPomaranceーポマランチャー市営の
空間とヴォルテッラの近くの文化教育センターであるVilla Palagionee内での
グループ展となりそうである。
来週あたり空間を見にその地まで向かうつもりである。
イタリアは一般的に夏場に国内外の観光客の動きが増え、またこの方面は
海辺滞在の人々も徘徊する地域であるので夏場に展覧会をするのに
最適だ。今年はとにかくイタリアのどこかにて展覧会を行いたいと思って
いたのでほっとしている。
不思議なもので展覧会が決まってくると作家は突然制作意欲が湧いてくる
らしい。それまでは絵画的表現に行き詰まってか、木の彫刻に専念していた
アレであるが、この数日また絵の具を使いだした。
既存の作品だけで十分埋まるだろうグループ展であるが、やはり新作制作
への熱意が生まれるらしい。
どんな作品が生まれてくることか、好奇心に多いに駆られる。
それでもまだスタジオに入って見るのを控えている。
他人が早々に侵入してはせっかくの制作意欲を台無しにするのではと思うのである。

作家にとって時々家族と分かれて一人で制作し、考える時間を持つというのは
大切であると思う。子供との毎日の生活は満足感に満ち、違った意味での
エネルギーの源となるには違いないが、「現実」という実体が否応なしに
襲ってくることは確かである。
制作の上での自我や夢想を殺さずして家族との共同生活など無理であるから。
故に自我の無制限の増殖が必須である制作者の宇宙は縮小されるに違いない。
アレの本意は家族3人での調和の中に生まれる制作をしていきたい、
そこから生まれる新たな真実を見いだしたい、という哲学にある。
しかし丸くなった角はやはり先鋭さが欠けてくるのも事実である。
そのため時々物理的に離れて孤高の中、作家魂を思う存分発揮できる機会も必要
であると思う。

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追記:
画像は先日記したエリカの低木、花がついている。
そして湧き水を汲む近くの泉。
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by jamartetrusco | 2008-05-23 19:38 | Vita (人生)
2008年 05月 19日

カエサルの本当の顔

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イタリア語ではジュリオ・チェーザレ、ラテン語ではユリウス・カエサル。
とにかく「賽は投げられた」と「ブルータスおまえもか」の言葉で有名なかのローマ皇帝シーザーである。
この皇帝の肖像はいままで理想化され、果敢で凛々しい若年の彫刻像や頭像によりしか知られていなかった。
しかしつい最近フランスの南部アルル地方のローヌ川底から頭像が発見された。
残っている金貨のシーザー像との類似性からシーザーの晩年の頭像であるとフランスの
考古学者が発表した。それも実物に大変近い姿であるという。
三頭政治が破れローマ内戦の後、シーザーが独裁官として帝政ローマの安定を目指そうとする矢先共和制の危機を案じたブルータスらに暗殺される。

対ポンペイウスとの交戦に端を発した内戦時代、マルセイユ港への使用を許可しシーザーへの指示を示したアルルに感謝する意味でこの町をローマの植民地とした。
この頭部の研究者である考古学者ロング氏に説によると、シーザーの恩恵を被るこの町としてはシーザー暗殺の知らせを聞いてシーザーの頭像を飾っていてはまずいということで即、ローヌ川に投げ捨てた、という。味方と敵の身代わりの早さは必須の時代である。

今まで未発見のまま川底に埋まっていた、ということも驚異である。
どういうきっかけで上げられたのだろう。
誰かを想起させる顔ではあるが。

石の文化であるからこそ川に沈んで数千年後でも形が残っているという事実は見逃せない。
これを受けて80年代のイタリアにてモジリアニの彫刻の発見として世間を騒がせたニュースを思い出した。モジリアニ自身が自分の彫刻をリボルノの城塞の掘に投捨したという伝説を利用して、リボルノの大学生が自身で彫った模倣作品を投げたのである。
最後には偽物であることがわかったのであるが、かなりの物議をかもしたらしい。

海底に沈んだ宝、などなど西欧古代文明の発見の神秘はまだまだ続くだろう。
インディアナ・ジョーンズの発祥と人気の源もここにあり。
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by jamartetrusco | 2008-05-19 21:02 | Storia (歴史)
2008年 05月 16日

ビルバの寝床

猫というのは寝床をしばしば変える習性があるようで、一時気に入って寝ていた
場所も2週間ほどすると飽きてくるらしい。ソファの上、椅子の上、昔娘に使っていたベビーキャリーの上。暖かい感じのするところが好きなようである。

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変わったところではアレのオリーブ彫刻の削り屑をいずれ使い道があるかと取ってある
プラスチックの箱の中。これはオリーブが好きなビルバ(またはすべての猫の習性か)としてはオリーブの香りに包まれて、まさに夢心地なのであろう。
オリ−ブ屑も食べるぐらいなのだから。

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そして植木鉢。横長のサボテンが一部だけ生えている鉢も何度も寝床となっている。
つい最近寝床レパートリーに加わったのは自分の体がやっとやっとはまるだけの丸い植木鉢の上。コーンに乗るアイスクリームのように危なっかしいのに。
いずれハーブでも植えようと土が入ったままなので、土の感触に直接体が当たるのが心地よいのだろうか。

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太陽や風が強い日はバーベキュー用の松ぼっくりや他の庭道具を閉まってある台の下に隠れて昼寝。敷物がかぶさっているので下に入ってしまうと外からは見えない。
すっかり他所を散歩しているのかと思っていたら、用事で開けた幕の下にちゃっかりと寝ていたのとは露知らず。

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猫ビルバが我が家に出入りするようになってまだ2年ほどであるが、様々な習性を発見する度に生き物の不思議とその性格の面白さに頷くのである。
そして猫のような生き方を見ていると人間なんて何ものぞ、とも思うのである。

春の時節柄、自然に目が向くこの頃である。
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by jamartetrusco | 2008-05-16 18:16 | Natura (自然)
2008年 05月 13日

エリカーパイプの原木

木製パイプの素材に多く使われるイタリアではericaと呼ばれる低木。
英語ではbriar ブライヤと呼ばれる。
グレーベからすぐの野山で自然に生えているを多く見かける。
初めてキャンティに住み出したときに山火事の後の高台の野原にて焼けて
真っ黒になったエリカの木の根っ子を持ち帰った。
この家に住み出して初めて彫ったのがこれである。

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ジャコメッティもどきとまで言えないが、我ながら気に入っている。

エリカは彫りこむと赤みがかった土色の色合いに微妙な白の
斑が浮かび上がり、磨けば艶やかになる硬質な木材である。

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これはライオンのような形と思ってやはり当時彫り始めて途中で挫折したものを
近年アレが引き継いで彫り込んだいわば合作と言えるもの。エリカの赤い質感
がよくわかる。

パイプの素材に使われる理由としてまずはその耐火性。
そういえば山火事にもしっかりと耐えて残っていた。そして水も含みやすいく軽い。
その当時、パイプに使われる素材であることは知らなかった。

つい先日用事の帰りがけに通った野山にエリカの群生を見た。去年あたりまた山火事に
あったに違いない。低木であるので野山を埋め尽くす他の木々の群れが火事にて一掃された後、その豊かな生命力のおかげでその姿をしっかり現すのである。
火事にて焼け残った根っ子がまたいくつか見つかった。
アレはここのところ木彫三昧にてエリカを手に入れたいと思っていたので大満足。
家に帰ってからすぐに制作を始める。
根っ子というのはオリーブに限らず生命力の根源を感じるものだ。

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オリーブ、エリカ、杉、桜ー彫刻の素材となる自然の木の恩恵をありがたく受け止めて。制作をするものにとって田舎に住むことの利点のひとつはこういった素材が身近に、しかもただで手にはいることである。
同じ野山で拾ってきた大きな松ぼっくりをいくつか使ってその晩バーベキューをした。
田舎に住んで良かったと思う瞬間である。
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by jamartetrusco | 2008-05-13 23:46 | Natura (自然)
2008年 05月 09日

失われた名画

イギリスのリバプールにあるTate Liverpoolにて5月30日より英国ではかつてない規模のグスタフ・クリムト展が開催されると聞いた。展覧会に先駆けての紹介として英国の新聞ガーディアンにて興味深い記事を読んだ。

クリムトは3月のウィーン滞在中にその作品の多くを見たのである。その作品はあまりにも世紀末装飾性に満ちすぎていて近頃食傷気味だったのであるが、実際に画面に満ちあふれる金襴なる色彩、優美な人体と絢爛豪華なモザイクのような装飾の不調和の中の調和のある画面はやはり見るものを圧倒する迫力がある。

「哲学」
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「医学」
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「法学」
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このクリムトが1894年にウィーン大学大講堂の天井画制作の依頼を受ける。数年後に完成したのが、「哲学」、「医学」そして「法学」の学部を代表する3部作である。
ニーチェの「悲劇の誕生」に多大なる影響を受けたクリムト。楽観的な理性主義にのっとって事実への表面的な信仰と世界を制覇しようとする荒削りな欲望によって西洋文明は駆り立てられてきた。しかしそれらは間違いで、人間の情感や認知の不確かさを抱擁する悲劇的感受性こそが勝利であり、この世を主観にて感知理解することが必要である、というニーチェの論議をそのまま受けてこの3部作は描かれたと言う。

もちろんこのような概念は大学の理性こそ、また科学にのっとった絶対的真理こそ一番と見なす教授達には受け入れられず、作品も天井を飾ることはなかった。3部作は最終的に当時のクリムトの偉大なるパトロンであり、収集家でもあったユダヤ系の富豪アウグスト・レデラーが買い取る。

ここからがこの作品の悲劇なのである。
第二次大戦にナチスドイツの占領下にあったウィーン、ユダヤであることからこのパトロンからもすべての美術品は没収され、彼の手元にあったクリムト3点を含め13点はナチスSS将校の最後の拠点であったイメンドルフ城にて保管された。しかし1945年終戦間近の断末魔にクリムトの芸術をロシアに見せてはならぬとの信念からか、中にある芸術品を含めて城ごと爆破するのである。もちろんクリムトの13点もこの宿命をともにする。運良くレデラーの息子が別に保管していたベートヴェン・フリーズだけは悲劇を真逃れ、今でもウィーンのセセッションの建物の地下に配置されて目にすることができるのはまさに不幸中の幸いと言えようか。

このクリムトの名画の悲劇は初耳であった。
そして芸術とそれにまつわる狂気について改めて思いを巡らせた。
かつて15世紀のメディチ家支配が一瞬衰えてフランス、スペインの攻撃のみならず疫病にも苦しんでいたフィレンツェにて民衆の不安と不満の風にあおられ宗教力をふるったドメニコ派のサヴォナローラも欲や富の象徴と見なした芸術品や本を焼き払った。
その時に失われたとされる絵画は多々であり、特にサヴォナローラに心底傾倒したボッティチェリはどれほど自分の作品を火の中に投入したことか。
また三島由紀夫の「金閣寺」もこの狂気のひとつの表出を小説にしたと言えるだろう。

芸術と狂気は紙一重。ひとつの芸術表現が選ばれた芸術家を通して表出するとき、それは天上の響きでもあり、またはどん底から発する叫びでもあり、人間が隠し持つ原始にさかのぼる感情やタブーなど、すべての心象風景、情感、表現の抽出が超現実的な力を持って暴露されるのであろう。
少なくとも世紀末のウィーンの作家達には当てはまる縮図であるように思う。

この永久に失われ、今では白黒写真でしか見ることのできない3部作を見ていると情感とエロスが粘着質となって絡まった憂鬱と超越の狭間を行き来するどろどろとした人間の肉感的エネルギーを感じると同時にまるで心霊現象の亡霊にも見えてくる。
怖いほどである。
クリムトが単に装飾性の美の提唱者でないことは如実である。
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by jamartetrusco | 2008-05-09 17:53 | Arte (芸術)
2008年 05月 05日

五月晴れ

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五月晴れという表現は日本独特のものである。
雨も多い春に時々見せる5月の美しい晴れ日
を指して五月晴れと呼ぶ、と聞いたが本当だろうか。
トスカーナの気候を表す表現としては適当かどうか。
こちらには相当する表現はない。
自然の万象を表す情緒、形容詞、表現の豊さにおいて日本語に
まさる言語はないだろう。

しかしなんとも素晴らしい快晴の日が5月の連休に続いた。
学校の休みも週末を含めて4日間。
久々に春の清々しい日差しを満杯に浴びて体も心も
再生の気分。

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葡萄畑も新緑の装いである。
人生の苦を忘れることのできる一瞬。
自然の懐の広大さに包まれて「生きている」ことの喜びを享受する。


ビルバも我を忘れて昼寝三昧。
あー極楽極楽。


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by jamartetrusco | 2008-05-05 18:13 | Natura (自然)