トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2008年 09月 30日

Artistとはいったい?

ここのところアーティストとはこれいかに?と考える機会が何回かあった。

ひとつはロンドンの大手オークション会社のササビーズにおける現存作家、デミアン・ハーストの展覧会。展示された2年間に渡って制作された新作はそのまますべてオークションにかけられ画商の手を渡らないまま即買い手に入手される、という美術市場初めての試み。オークション前から、賛否両論、さまざまな議論がネット新聞上にてかわされた。アーティストが第三者の介入なしに直接買い主に作品を提供するという美術市場にとって革命的な出来事であるという論点もあったし、作家のやり方や行動は賛同できなかったのだが展覧会に出された作品を見て改めて作家としての技量を認めざる得ないという作家への脱帽を表明する記事もあった。さらに行動の自由を謳歌する作家万歳、的なものも。結果はリーマンズ・ブラザーズ証券会社の倒産の大波乱の真っただ中のオークションであったにも関わらず2日間のオークションにて1億ポンド以上の売り上げを上げたのである。お金のあるところにはある、という事実。
もともとハーストの作品のファンでないのでかなり先入観のある立場である自身であるが、この出来事はどう考えてもオークション会社と作家との共同市場開発にしか他ならず、それにハーストの画商であるホワイト・キューブも落札者の一人だったと聞くからその参入も納得。自分の作家がある程度の価格で売れなければ価格崩れが来るので当然だろう。実際に展覧会自体を見ていないので意見を言う立場ではないものの、様々な記事を読んで伺い知る限り、今までの仕事の集大成的な展覧会で、ハーストの定番のようなホルマリン漬けの生物やダイヤモンドの頭蓋骨の習作などなど、ハーストならではの作品の再制作であるにしかすぎない展覧会だったようである。一体なんのための展覧会?と疑問せざるを得ない。
彼の作家として自己顕示欲と今の美術業界へ「あっかんべー」をするような姿勢には
やや同感する気持ちはあるものの、どうも納得できない。結局は何を示したかったのだろうか。話題性を演出することによってオークション会社と投資家と画商とコレクターの懐、そしてとりわけ自らの懐を確かにするという試みにしかすぎない。作家として真に制作したい作品を作りだしているのだろうか。なんだかブランド品の大量生産のような。そしてそれに食らいつくピラニアの群れ。

そして今日イギリスの中道保守の新聞タイムズが成功している中堅作家にいかにアーティストとして継続するかのアドバイスをもらうTimes Art School「タイムズ・アート・スクール」というシリーズ記事を読んだ。内容を読んでつくづくがっかりした。作家志望の若者へのアドバイスとしてそれぞれの作家の一言があるのだが、ものを作るものという「アーティスト」という立場がまるでひとつの成就する職業として捉えられているのである。あまり容易な成功を考えるべからず、とか何歳になっても継続すること、いずれ認められる、とか、作家同士で団結すればなんとか突破できる、とか、要するにどうすれば成功物語をなし得るかということが話題の焦点なのである。もちろん記事自体がそのことを目的にしたものであるから質問を受ける作家に罪はないかもしれないが、ひとりとして自分の生き方としてものを作っている、というような見解がないのである。唯一コロンビアの作家のドリス・サルセドのみがいかなる障害があろうが、自分の信じる仕事に忠実であることが大事だと述べていた。彼女の作品について触れたことがあるのは偶然か必然か。

作家であること、アーティストとしての存在というのは自分の信じる生き方、存在自体を信じて続けていくしかない。成功とか作品が売れるとかいうことは二の次である。二の次であることが第一の目的のような捉え方をされている現在のマスコミ、美術界、もしくはこの現代の人間の精神状況はなんと言っても本末転倒であり、どこかが間違っている。生きる、という事自体がまるでお金中心に考えられているこの世の中、どうもついていけない。

そう考えると生き物をホルマリン漬けにしてしまうハーストはある意味でその辺の皮肉を呈示しているのかも、などと勝手に解釈できるのも不思議である。


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by jamartetrusco | 2008-09-30 05:01 | Arte (芸術)
2008年 09月 26日

今日という瞬間

ここのところ悶々としていた。
帰宅してからお湯の出ない毎日にて生活がうまくまわって行かない。
体も心もどこかはけ口を求めて叫びを上げているのが良く分かった。

昨日届くのか届かないのかと心配していたもうすぐ10歳になる娘のために求めた
誕生プレゼントが届いた。
そして水道局の技工士が扉をたたいてくれた。すでに何回電話したのだろう。
これまで全く無視されていたのに。
そして水道管の詰まりを直してお湯が一ヶ月ぶりに出た。
まるで砂漠に水が通ったときのような驚きと感激。

そしてブログを始めて良かったと思うコメントを頂いた。

まるで水がどーっと流れて詰まっていた精神のわだかまりをさらってくれた
ような、そんな気分である。

すーっと気が宇宙と通じた瞬間かもしれない。

感謝する心で一杯である。
この今日の瞬間。
自分の中にあるフィレンツェと京都の神秘に捧げる。


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by jamartetrusco | 2008-09-26 03:35 | Vita (人生)
2008年 09月 22日

グリューネルワルドの象徴性

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16世紀初頭に描かれた「イーゼンハイム祭壇画」。
ドイツとフランス国境近くのアルザス地方の小都市コルマールの
ウンターリンデン美術館内の礼拝堂に配置されている。この祭壇画がなければこの町を訪れることすら思い立たないだろう。
描いたのはドイツのマティアス・グリューネワルド。
今年の6月、念願がかなってやっとこの祭壇画と対面できた。
どうしても見たいと思ってからもう20年近くが経った。
あまりに思いが高まると本物を前にして時としてがっかりすることがあるものだ。
しかしこの祭壇画は期待を遥かに越えて凄かった。
美しいとか、神聖とか、力強いとか、名画とかそういった普通の形容詞では
表すことのできない。
この画家の恐ろしいばかりの執念が描かせたかのような強烈なイメージの連続。
第一面は「キリスト磔刑図」。
さらに「聖アントニオの誘惑」そして「キリストの復活」。まだまだ尽きない。

「キリスト磔刑図」では死にいくキリストが全く美化されずに惨いまでの象徴性を持って描かれている。死体をそのまま見てデッサンしたに違いないその様相である。キリストの苦悩をグロテスクなまでに追求した超現実的な表現である。
その表現は作家個人の内面を象徴的に表したもの以外にない。
ノルマを外れたエキセントリックなまでの個性。
フランシス・ベーコンもグリューネルワルドの系譜であろう。
文句なしに圧倒された。


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by jamartetrusco | 2008-09-22 04:21 | Arte (芸術)
2008年 09月 16日

色彩の神秘

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EcoArtFestivalのもうひとつの会場、ポマランチェ市の元裁判所建物内。
部屋の中心を飾るフレスコ画を頭上に抱える壁面を囲んだ3面がアレの展示空間。

フレスコ画の色彩と対峙してうるさくなり展示はどんなものか
と実は心配していたのである。
ところが現代のカンバスの色彩と数世紀も前に描かれたフレスコ画の
色彩との近しい色調に驚いた。
まるで示し合わせて描いたかのように呼応している。
自ずと作品の置く空間は決まってくる。

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聖母マリアの聖衣の赤とアレのVASの赤。
茶系食の微妙な色調の流れ。
やはりイタリア人の色彩のDNAから来るものか。
偶然か必然かの色彩の持つ神秘に合掌したい気分となった。

アレの色はやはりイタリアの色、イタリアの土地に根ざした色である。

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by jamartetrusco | 2008-09-16 17:33 | Arte di Ale(アレのアート)
2008年 09月 13日

Villa Palagioneでの展覧会EcoArtFestival回想

日本に帰国していたのでまったく実体験できなかったEcoArtFestival。
アレも出品作家のひとりとして多いに参加した7月から8月にかけて開催された文化プロジェクト。ヴィジュアル作家の4人展に加えて詩人の朗読会やシンポジウム的会合、ハープ奏者その他音楽家の演奏会、ハブニングなどなど盛りだくさんのプログラムが組まれていた。会場のひとつであるVilla Palagioneーヴィラ・パラジョーネ。

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この屋敷には様々な逸話がある。16世紀メディチ家継承のトスカーナ大公全盛期にその側近の一人であったヴォルテッラ出である貴族の家系メヌッチ家にこのVilla周辺の領域は属していた。このヴィラも大公の夏の家、狩りの宿ととして多いに活用されていたらしい。背後にそびえるヴォルトライオ山はエトルリア時代に遡る。山からは考古学的遺跡や出物品が多く見つかっている。山自体がエトルリアのピラミッドのようである。

この屋敷は60年代にはイタリアを代表する監督ルキノ・ヴィスコンティの65年制作、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した"Vaghe Stelle dell'Orse"、「熊座の淡き星影の舞台として使われている。ヴォルテッラを舞台にした話しであるからこの屋敷などぴったりの背景を提供したに違いない。
その後持ち主が誰であったか知らないが、80年代半ばにイタリア人とドイツ人のカップルがこの屋敷に出会い、惚れ込み、当時崩れ落ちんばかりの悲惨な状態にあった屋敷を買い取る。その頃のイタリアの状況からするとかなり安く手に入れたことに間違いない。友人達の力も借りて時間をかけて修復していく。ドイツ人のご主人は大工仕事にたけた人だったので彼の貢献は多大だ。そして奥さんであるローマ人のアントネッラがこのVillaの文化施設としての再生の立役者である。

彼女の主導のもとに様々な体験、修得美術コースがある他、この素晴らしい環境に滞在しながら心身ともにエトルリアの息吹を感じるのに最適な休息場所を提供してくれる。
単なるアグリツリズモでなく、滞在しながら頭と心と体を活性化するような場所である。そしてその他に企画展を開催する。アレの参加したEcoArtFestivalの舞台になったのにもこのような背景があったわけである。

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この屋敷には大きな母屋の他、レモンなどを保管するLimonaia、そして歴史的屋敷には必ず付随している礼拝堂がある。15,16世紀のトスカーナの屋敷の典型的構造である。
展覧会会場となったののはこの礼拝堂と屋敷周辺の敷地庭である。

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アレの出品作はカンバスと木彫刻であったので野ざらしの展示には不適当であった故ほとんどは礼拝堂に展示された。唯一野外展示であったのはすでに紹介済みのVoltraioneである。もともと野ざらしで発見されたオリーブの根っ子彫刻であるから1ヶ月の野外展示に耐えうる性質を持っていたから。
礼拝堂の祭壇の上に杉の頭像、そしてその背後にカンバスのコンポジション。すでに展覧会に出したことのある作品ばかりであるが、監修したエルダが直々選んだものである。彼女が最初からアレの作品はそこ、と決めていたので展示は問題なく運んだ。

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プロフェッショナルな作家であるアンドレア・マリーニもなんなくポジションを決め無事に終了。礼拝堂の壁面作銀、黒2点。そして野外に出現する白い3つの物体と木から吊るした彫刻。風に揺れて美しい。

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問題はカルロとエレナ。

エレナの作品はアコーディオン式の本の作品なので展示はかなりむずかしい。結局机の上の展示となったが結果はどうもすっきりしない。礼拝堂の中に置くにむかない作品である。作品の良さも全く発揮できなかったようである。
またもうひとつの人型の透明ビニールに小さな貝殻や石をちりばめた作品。繊細な作風であるので野外も論外。せっかくの透明感がいまいちでなかった。誠に残念である。

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カルロはまた大変である。礼拝堂の壁につけるカンバスの木枠がゆがんでいてきっちりと互いに合わなかったり。紙にエナメル彩のインスタレーションは野外に展示しなければならない。雨のほとんど降らない7月,8月のイタリアであるから良かったものの。庭師に毎日出したりしまったりしてくれるか交渉したらしいが、それは無理というもの。しかし最後には屋敷の庭に不思議な空間を作る展示となった。

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4人それぞれが違った個性を持ち違った作風を持つ。
見に来る人の数は限られたものであったにせよ、エコロジーというひとつの構想に則った文化イベントとして将来にもつなげて行く可能性のある興味深い企画であったと思う。アレも次の企画への案をエルダに告げてやる気は十分である。
うまくつながることを祈って。


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by jamartetrusco | 2008-09-13 17:05 | Arte di Ale(アレのアート)
2008年 09月 10日

水不足

イタリアに帰ってから水不足に苦労している。
8月30日に帰宅してからお湯を使ったことがない。
お湯というもの自体が出ないのである。
水不足であるので圧力が足りないため湯沸かし器の点火ができない。
水が足りないのは毎年のことであるが、この2〜3年の
状況はかなり悪化している。
以前は8月になってやや水が出ない日があったりしたが
毎日ではなかった。ところがこの2年、8月になると必ずと
言って良い程水がでなくなる。そしてお湯は望めなくなる。
困るのは水洗のお手洗いと洗濯機、そしてとりわけシャワー。
水風呂を浴びるしかない。
帰宅してからまだ一度もお湯のシャワーをあびたことが
ない。故に疲れがとれないのである。
一体これは何故か。と考えるに、地球温暖化、とか水が
石油のように貴重なものになるとか、いろいろと批判が
出てくるのであるが、ひとつはっきりと言えるのは
このキャンティ地方はもともと水がふんだんにあった地域では
なかったという歴史的事実が浮かび上がる。
この土地には浴槽のバスルームを持つ家の方が少ないくらいに
日本流に言ういわゆる「お風呂」の文化がない。
故にこの土地の地元人など1週間一度シャワーを浴びるのがせいぜいである。
日曜日に皆さっぱりして教会に行く、というのが伝統であった。
そういう土地柄であるから、この10年間のこの近辺の生活状況の
様代わりがこの水不足を生んだひとつの理由であろう。
今までずっと廃墟であった建物がすべてハイレベルのホテル風滞在場所となって
またそれぞれがプール施設つき。そして今まで個人がほそぼそと育てる
葡萄畑だった場所が大きな投資をともなった最新型葡萄畑と成り代わった。
そこには灌漑の水が必要となる。
10年前に比べれば10倍の水消費となっているに違いないのである。
もともと枯れた土地にこのような極端な観光施設を増設してその弊害が
出ないはずがない。

というわけで今年の極端なる水不足の苦労を背負いながら一体どうしたら良いものか、
人間の「水」に対するあまりにも当たり前に思う態度にも反省するとともに
日本より高い物価に苦しむこの今のイタリアの市民を無視した状況に憤りを感じるのである。贅沢など何も望んでいないのであるが、温かいお湯が出るぐらいの日常が
あって普通ではないだろうか。
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by jamartetrusco | 2008-09-10 05:29 | Vita (人生)
2008年 09月 04日

Voltraioneーヴォルテッラ山鬼

EcoArt Festivalでの展示の内、アレの彫刻作品。
Villa Palagione の敷地内に設置した。
過去8年程にわたるオリーブ彫刻をパズルのように組み合わせて
ひとつの形体となった。


タイトルはVoltraione。エトルリア文明の重要な都市として栄えた
Volterraに因んで。そしてとりわけVilla Palagioneの背後にそびえる
Voltraio 山に因んで。ヴォルテッラ山鬼と呼ぼう。
エトルリア土着の山の神のような、いつから生きながらえているのか
そのくぼんだ瞳からすべての生命へのつながりを感じる。
長い月日を経て今に至るエトルリアの都市と同様の存在感ある彫刻と見える。
土地に備わる永遠の力を授かったかのようだ。


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by jamartetrusco | 2008-09-04 15:32 | Arte di Ale(アレのアート)
2008年 09月 01日

語る

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帰宅した。
2ヶ月ぶりにアレと話し積もる話しで一杯だ。
この夏の展覧会の様子を写した膨大な量のイメージで見た。
そしてそのほとばしる語りに耳を傾けた。
たまっていた言葉がまるで堰を切るかのように流れ出てくる。
展覧会の準備の苦労と喜びと、心に響く景色、自然、体験。
さまざまな逸話が次々と語られて行く。

彼にとっての一番の収穫は何と言ってもエトルリアの大地を
体で感じることができたことだろう。
キャンティ地方の葡萄とオリーブ畑に満ちた人間の手のわずかに入った
自然とは違ってヴォルテッラ周辺の自然はもっとワイルドである。
麦畑の色彩が季節ごとに変わっていく緑と黄土色とと粘土色の勝った
大地。広々と前景に果てしなくひろがる大地は海まで続く。
圧倒されるような景色である。強い風に洗われる自然。

エトルスキの足跡を感じるような小高い山の頂上まで登って
見渡す景色。ぼうぼうの草木に被われた石壁の遺跡。
チェチナの海岸に向かって流れるチェチナ川の透き通った水に
なんど真夏の暑さを忘れることができただろう。

一晩の語りに彼のこの1ヶ月強の体験が凝縮された。
作家の心の可能性がこの広大な自然とだぶって、ますます広がりを
持って見える。
エトルリアの影のように立つ姿に深い想いが託されているようだ。


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by jamartetrusco | 2008-09-01 21:13 | Vita (人生)