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2009年 03月 28日

Earth Hour

今日ロンドンから東京へ発つのだが、今晩20:30より世界的なEarth Hourが行われる。
電気を1時間消して環境への認識をあらたにしようという試み。
今晩ロンドンにいたらこの大都会が暗闇となる体験ができたのに。
この地でのG20開催にむけて今日から大規模なデモが始まる。
ありとあらゆるグループが結集して現在の社会をよりよくしようという意図のもとだが
なにも暴力的な行為がないことを祈って。
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by jamartetrusco | 2009-03-28 18:25 | Paese (土地柄)
2009年 03月 25日

偶像的tabernacolo

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やや昔イタリアのお地蔵さまのような存在、タベルナーコロについて書いた。

先日友人エルダ
家から近い丘上の散歩道にて遭遇したtabernacoloはことさらその宗教性と土着的偶像性
の間の不可思議な時空間を作っていた。

古色あふれる聖母マリアの像は通常のタベルナーコロのカトリック教のイコンである。
しかしこの聖母マリア像は田舎道の旅程を飾るに通常になく不思議な威厳にあふれている。
天蓋の下にある堂々とした姿である。何か重要な意図をもって置かれたのかもしれない。
このそばに昔からある大きな修道院があったとか。人々の祈りの息吹が感じられる。
手前には鉄の扉までついて小さな礼拝堂の装い。

中に入ってみるとその右側の十字架の存在に驚いた。
だれが作ったのだろう。もしかすると職人の道具を飾ったものかもしれない。
左右アンバランスに道具の飾られた類を見ない十字架は無性に何かを主張しているか
のようである。
この小さな礼拝堂を作った作者の祈りが込められているのか。
聖母マリアの像以上に神秘性を帯びているように見えた。
どこか魔性を孕んだような不可思議な一個のオブジェとして。

人知れぬ佇まいのこのタベルナーコロの由来など想いながら思わず祈りを捧げた。
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by jamartetrusco | 2009-03-25 00:08 | Paese (土地柄)
2009年 03月 23日

人と人ー最初が肝心である事実


15年間過ごして来たトスカーナのフィレンツェという歴史的に重要な街の郊外にある葡萄とオリーブ木とお城のあるキャンティという地方のある集落での生活。
住み出した当初は思っても見なかったが、踏み入れる足の順番を間違えたようである。
私は日本人。外から見るとどうみてもじっぱひとくくりの東洋人。
そして主人であるアレはフィレンツェ人。彼もこの地では歴史的に見て征服者の「よそ者」である。この事実は15年経た今でも変わらない。
二人仲良く毎日が夢心地の数年は周りの人間など目に入らないものである。
ふと気がつくと家の周囲に住む人たちはどこかとげとげとしている。我々よそ者の存在が
気にくわない、という暗黙の目線があるのである。そしてややしてわかったのは我々の
大家さんの借家には今まで勝手放題、我関せず縁のよそ者ばかりが住んできた、という事実。
あーだからあんなに疑心案儀の視線を感じたのだな。
しかし数年、害なく静かに暮らす我々はすんなりとbrava persona 「感じの良い人たち」として
受け入れられた。というより空気のような存在として。会えば丁寧に挨拶する存在として。

そして娘が生まれてからこの小さな集落の一員として認められたのは彼女のみである。物理的に
この地で生まれ育つ未来に生きるcastellana(城の住人)として。
しかしこんなに長く住んでいて最近思うのである。
最初の第一歩を間違えたのである。
最初からもっと親しく、一個の人間同士の付き合いをしていたら今の我々の状況も変わっていた
に違いない。
無名のよそ者として入ってきた無機質の付き合いの数年はその後の10年間の生き方に制限を
与えているのである。いつまでたってもpittore (画家)であるアレ、orientale(東洋人)である
私がいる。名前で呼ばれることのない15年間の付き合い。お互いに踏み入ることのない一線を
ふまえた全く問題ない関係ではある。しかしそこから何も生まれないのである。

これはもしかするとこの街の問題かもしれないが。すべての「よそ者」ー外国人に限らず、フィレンツェ人にせよシチリア人にせよ皆が感じるこの土地の閉鎖性。
今度家を引っ越す場合は最初に踏み入れる足の第一歩を十分考えようと思う。最初から地元の
人との関係を重んじようと思う。一歩間違えるとその修正はほぼ不可能であるだから。

都会の人間、田舎の人間、人種の違い、それがたった20キロ離れた街から来たにせよ、何処にもある人々の偏見、閉鎖、noi e loro (我々対彼ら)の敵対関係、などなど人間関係の難しさ、なかなか一筋縄ではいかないものである。
自然の美しさのおかげで無視できるこのどろどろした人間関係の難しさ。そういうのも生きている証か。

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by jamartetrusco | 2009-03-23 05:32 | Vita (人生)
2009年 03月 19日

Gianni のbook

銀行の支店長のGianni は自ら画家としての第2の人生を歩もうとしている他、友人のアーティストへのサポートを惜しまない。
以前アレの作品を展覧会として銀行内に置いてくれた。これはアレに限らない。過去から今まで様々な
アーティストの作品をグレーベの支店内に定期的に展示してきた。空間の制限と見る人が
どれほどの興味を持っているかは別問題として彼の運営する銀行支店はある意味でグレーベ
近辺に住む作家を知る上で画廊以上の役割を果たしていると言える。常に明るく、笑いが
絶えず、洒落た帽子をかぶって小走りに歩くジャンニの愛すべき姿はグレーベという
代々地元の人間同士の結束の堅い閉鎖的な土地柄の中で磨かれた宝石のように光っている。
このジャンニが大事にしている彼曰く「book」。今まで展示してきた作家達に一言書き
をしてもらい大切に保管した収集本。ページ、ページにそれぞれの作家が書いたり、
デッサンしたり、作品を貼付けたりした手作り感の強い真心のこもった一冊のノートブック
である。以前からアレにも何か書いてほしいとずっと頼まれ続けていたのだが、ジャンニも
このブックを自宅から持参するのを忘れたり、すでにかなりの時間が流れてしまった。
この1月やっと預かってきたジャンニのbook。
様々な作家のイメージによるコメントやジャンニヘの友情の記しが残されている、様々な
想いが詰まった一冊。多くの人の手を経ていてそれなりに使い込まれた趣きの黒表紙の
ノートブック。
アレも一言残して2001年京都の法然院にてしたためた水彩画をページに張った。

題して"Porta al Tempio" 神殿への扉ーすなわち内側も外側も内包した無限なる空間への
入り口、外と内を自由に飛翔する目と心。

アレのPorta Magica「魔法の扉」のシリーズのテーマの神髄を語る言葉であろう。


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by jamartetrusco | 2009-03-19 00:59 | Vita (人生)
2009年 03月 13日

Graziano Spinosi という作家

1年程前たまたまルネサンスか何かの画家について調べていたときに発見した素晴らしい
ブログCurrenti Calamo
Currenti Calamoとはラテン語の言い回しで文字通りpenna veloce、あまり考えずにさらさらと
書き捨てるというような意味で、「徒然草」に近い意味合いを持っているのだろう。
イタリア、ボローニャ出身のアーティストのGraziano Spinosiのまぎれもない個性の軌跡を
記した詩情あふれる簡素で美しいブログである。彼は自分の言葉は最小に押さえる。
その日その日に出会った、もしくは心に響いた言葉を様々な源泉から引用して、そこに彼の選んだ
ひとつのイメージをつける。その画像の美しさは絶妙である。私の頭にある「美」の概念をまさに代弁してくれる様々なイメージの結晶。
ブログから検索してみると作家としてのホームページもある。
作品はブログのイメージと近い、本質的で素材感のある静かなオブジェである。
静寂な空気を内包したような彫刻。
鉄という素材を絵画の素材としてまるで柔らかい土のように使いこなす平面作品。

この1月、ふと思い立ってブログの連絡先に連絡してみた。するとすぐに返事が帰ってきた。
その言葉から人柄の良さがみてとれた。そして美しい作品集まで送ってくれた。
ビザンチン時代のモザイクの美しい教会で有名なラヴェンナという街のアカデミア、美術学院
にて教えている、という。アカデミアを通して、日本の学生も多く知っていてこの夏の終わりには日本にも行くかもしれない。彫刻を庭に置いた大きなアトリエにて制作している。
アドリア海側、リミニとサンタアルカンジェロの間にある田舎に住む、という。トスカーナからは車で行くと山越えがあるのでやや時間がかかるのだがこの春是非遊びに行くことを約束した。実際に会って話し、作品に出会えること、今から楽しみにしている。

様々な街に作家友達が増えていくことは無限なる心の王国が広がるかのようである。

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by jamartetrusco | 2009-03-13 23:45 | Arte (芸術)
2009年 03月 09日

「大洪水」

フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「緑の回廊」にあるパオロ・ウチェッロのフレスコ画。Diluvio Universale. 大洪水、あるいはノアの箱船。
長い年月を経て、またフィレンツェの大洪水の被害も受けて、残念ながら状態はかなり悪い。
ぼんやりとフレスコ画独特の色調が残っているのみである。
それでもなんと存在感のある繪だろう。
パオロ・ウチェッロは遠近法に生涯拘り続けた画家である。
そして動物、特に鳥の絵を描くのが好きだったので「鳥(Uccello)のパオロ」という
愛称にて呼ばれたフィレンツェ生まれの画家。
この絵においても目線は箱船の形を中心にドラマチックに奥へとつながっていく。
雨風の大嵐で吹き飛びそうになりながら仕事を続ける人々の肉体。焦点となる稲妻の
走る暗黒の空。その中でただひとり悠然と立ち尽くす老人ノア。作家の視線を感じさせるような
その眼差し。一人の作家の異様な拘りと精神の作用がそこにはしっかりと感じられる。

先週は一週間雨が降り続けてまるで洪水さながらであったトスカーナ。
やっと太陽が顔を見せたこの土曜日、フィレンツェにて開催されていたArtour-oというアートイベントを見た。サンタ・マリア・ノヴェッラ広場にあるGrand Hotel Minerva
というホテル内のアートフェアを中心としてフィレンツェの歴史的空間やギャラリーにて様々な現代アートの展覧会が開催された。
ホテルの客室を使ってのこのアートフェアは参加ギャラリーのレベルの低さのせいか全く力のない展示であった。作家の存在などまるで感じられない名無しの作品ばかり。
イベントを総括する名目として「現代アートの都市としてのフィレンツェの再生」という歌い文句があるのだが、どこが?と反論したくなるような質である。
こんな中途半端なアートフェアを行うぐらいなら、この客室を様々な作家に貸して個展を繰り広げたほうがまだ効果的だろう。
アメリカにて発祥した近年の現象で日本でも大阪堂島ホテルのアートフェアを去年の夏見たばかりである。アート=商業=販売、という構図の最先端のようなホテルアートフェア。実に「つまらない」の一言である。

ウッチェロの「大洪水」の感動の後ではますます勝ち目なしである。

現代アートというカテゴリーは一体なんなんだろう。およそ心の琴線に触れることのない大量生産の現代アートととはまさに消費文化、マスプロダクション、大衆文化、広告文化、などなどの60年代からの我々の社会の生み出した産物である。そこには作家の心に秘められた神秘の影、心の
憂鬱から生まれた生と死への内省など感じられない。公の面前にどうどうと脚光を浴びる作品、作家のエゴの塊のような。秘められた暗黙の力の不在。見えないものへの微かなる言及などない。
説明過多または説明なしのコンセプトのみにて固められたぺれぺらの表現である。
どこかが違うのである。今そこらじゅうにころがる「現代アート」というものが好きでない。
大洪水ですべて洗い流してあらたな再生が必要であるとつくづく思った。


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by jamartetrusco | 2009-03-09 18:47 | Arte (芸術)
2009年 03月 03日

顕微鏡のイメージ

イギリスの自然歴史美術館にて販売しているポータブル顕微鏡を求めた。
小さく安価なこの顕微鏡は期待以上に質が良い。
娘のために買ったのに大人が多いに楽しんでいる。
自然の神秘が目の前に繰り広げられる。
微小の世界の形の意外性、面白さ、こういった自然の小さく、大きな
驚きは生きるエネルギーを与えてくれる。
当分はまりそうである。

さてこの画像は? 我が家の日常にある自然の事物である。

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回答:上からローズマリー、オリーブの彫り屑、アレの常用の煙草の葉っぱ、砂粒。
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by jamartetrusco | 2009-03-03 23:02 | Natura (自然)
2009年 03月 01日

Papiers Paille - Carta Paglia

アレの6月のパリの個展。作品持参、展示、また撤収も兼ねた滞在約2週間の予定。
知り合いの方のアパートを借りることになっているのでパリの日常生活をほんの少し
だけ味わえる。美術館や町並み、市場、多くの楽しみが控えている。娘にとっては
初めてのパリである。

展覧会には作品を持参するという物理的な制約があるので大きなキャンバスなどの展示は
無理である。そこで考えたのが彼の黄紙油絵作品の展示。
carta gialla(黄紙)と普通呼んではいるが実はイタリア式藁半紙ーcarta pagliaである。
過去には食べ物やパンなど包んでいた日常使いの紙である。
今ではトラットリアのテ−ブルマットとしてよく好まれ使用される油の吸い込みの良い紙。
いつからこの藁半紙に作品を残すようになったのだろう。
考えてみると娘の生まれた年、1998年以来使用しているこの紙。
頭に浮かぶイメージをドローイング的に無造作に制作するのに最適の安価に入手できる紙。
自由奔放、即興的な表現を何枚も何枚も連作していくのに最適である。
1998年はそれ以後続いている一連のシリーズ制作を始めた年でもある。
茶碗、小石、壁シリーズ、器、Porta Magica, などなど、今年はサラミ、これも今までの
器のシリーズにつながる象徴的なイメージである。
シリーズが生まれる都度、キャンバス作品数を越える数にて描かれてきたアレの制作
系譜を語る重要な作品群である。
ときとしてキャンバスの油絵より優れたイメージが生まれる。

今回の展覧会では1998年から10年、2008年までのアレの制作の行程の
証人としてのこの紙作品に焦点を当てる。
今までの展覧会では常に付随的存在であったこの紙達を全面に見せたいのである。

展覧会タイトルは"Papiers Paiile 1998 ~ 2008"。

展示方法も智慧を出し合ってなんとかなりそうである。
ここのところ毎日展覧会のための資料作りに忙しい。

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by jamartetrusco | 2009-03-01 19:40 | Arte di Ale(アレのアート)