トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2009年 05月 28日

Libro Nero の続き

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アンドレア・マリーニのLibro Nero。
金工の作品。金屑を貼付けた小屏風。煌めく龍か銀河か。
メタルで出来た本のタイトルは"Libro Libero"、言葉の
リズムが美しい。Free bookー放たれた本。
開くとアルファベットの文字が踊り出す。

エレナのLibro in piediー「立つ本」。
糸と写真とコラージュの綾。
葉っぱが美しい姿をそのままとどめてフリーズされたような自然の
生み出す物語本。

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by jamartetrusco | 2009-05-28 16:43 | Arte (芸術)
2009年 05月 25日

Sospensione ー 吊る

アレの Borse Nere の中身はSospensione。
この言葉は様々な意味合いがある。
まずは吊るすこと。
様々なものが吊るされる状態にある。
肉塊、鞄、布、不可思議な物体。
宙ぶらりんの状態である、という意味から「一時停止」とか「不安」か
という意味にもなる。いわゆるはらはらどきどき「サスペンス」は
この言葉からである。

エレナの黒い本の最後のページを埋めたのはこれらの
吊るされた物体の図柄である。
吊るされることによって神聖味を帯びるかのようなハムやサラミ
の塊。
吊るす行為によって様々な様相をみせる布地。
裏と表、影と光、陰と陽を内包する。

どこか危なげなこれらの吊るされた物体は今のアレの
心の様をそのまま象徴しているようにも見える。


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by jamartetrusco | 2009-05-25 22:40 | Arte di Ale(アレのアート)
2009年 05月 22日

Borse Nere Come Rondini

Borse Nere Come Rondiniと題された一日のイベント。
5月23日にフィレンツェ近郊のスカンデッチの新しく開館した図書館にて行われる。
以前展覧会をともにしたエレナの企画による詩情溢れるハプニング。
彼女が制作したBorse Nereは一番最後のいく枚かのページが空いている。
この黒表紙の本を譲り受けたのはいつだっただろうか。アレにも是非協力してほしい、と。

空いたページを友人のさまざまな分野の制作者がそれぞれの表現にて埋めて行く。
エレナか与えてくれるインピレーションをもとに新たな表現が生まれて行く。
協力した作家達を一同に集めて行われるのがこの土曜日のイベントである。
「つばめのような黒い袋」という題が意味するのはつばめの自由な飛翔のように
この黒い袋の中にもそれぞれの作家の表現の限りない地平線が広がっている。
それを発見する喜び。
ハプニングはその日だけであるが、エレナ自身の作品展もこの日から6月5日まで
開催される。

アレのBorse Nereの中身は?

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by jamartetrusco | 2009-05-22 16:56 | Arte (芸術)
2009年 05月 20日

パリ展

アレッサンドロ・ヌティーニのパリ展のご案内。

いつもながら友人のエルダ・トレスに簡単な紹介文を書いてもらった。


展覧会はいわゆるcarta pagliaの上に描かれた数多くの作品群から成る。
その仕事はアレッサンドロ・ヌティーニの制作の様々な側面や行程をそのまま語るものである。トスカーナ出身のこの作家はその形成期に様々な源から影響を受けている。フィレンツェの職人工房にて絵画や修復の隠された伝統技法を学んだ後、ニューヨークへと向かい、その旅の行程中カリブ海の諸国訪問時に独特の色彩豊かな絵画様式を吸収し、帰国後フィレンツェの美術院にて学び、さらにその後日本の美術と出会う。展示作品を特色付けるのは通常包み紙に使われ藁半紙の使用である。その主題に一貫して流れるのは現代に必要のなくなった物を忘却から救出しようとする「記憶の抵抗」である。藁半紙は過去にはパンや食べ物を包む日常使用のものである。この10年間のシリーズ制作、「茶碗」、「小石」、「壁」、「器」の根幹と成る習作としての紙作品。日常のオブジェ、幾何学形、トスカーナの職人の手による寡黙な壁や石、象徴性の強いオブジェである茶碗や器、これらの内包する超越的美への思い入れ。一見して無意味に見えるがそれらなくしては全体や宇宙は存在し得ない「ミクロコスモ」や「欠片」へ作家の目線は向く。完結と未完、素材と非素材、作家がもつ智慧の密義性が公にされるその瞬間、これらすべてが合わさってさらなる「自然」と「作為」という2元性へと昇華される。


2009年6月9日〜6月20日まで。

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by jamartetrusco | 2009-05-20 18:17 | Arte di Ale(アレのアート)
2009年 05月 12日

スタジオにて

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待ちに待った初夏のような快晴の週末。これでこそイタリアの日差しである。
5月の天気の良い日のイタリアは本当に気持ちがすかっとする。
そしてこの週末に前から訪れたいと思っていた作家のスタジオに行くことができた。
以前に紹介したグラツィアーノのスタジオである。
サンタアルカンジェロ・デ・ロマーニャというアドリア海側の町リミニの近くにある
城塞の町である。建物や通りに使われる煉瓦の色が薄いピンクがかったようなオレンジ
であるので、トスカーナの町並みとまたひとつ趣きの違う様相である。町のもっとも高い
城塞のそばにある高い鐘楼が一際目立つ。

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グラツィアーノのスタジオはこの町から15分ぐらい車で行った周りは緑の平地地帯に
あった。もともと製粉工場だったという建物跡を改装、そこに現代建築家による追加建築
を増築した総合空間。空間を使用するのは建築事務所や洋服デザイナーなど創造に関わる
人々である。そしてその一角にグラツィアーノのロフトがある。

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グラツィアーノとはメイルのやり取りを通してしか交流していなかったので実際に会うまで
ややどきどきしたが、実際の人物も物腰柔らかく知的な人であった。
プレゼントしてもらったカタログにある作品の多くは人手に渡ってもうほとんど手元にないので
スタジオにて見ることができる作品はあまりない。
ただ入った瞬間にびっくりした彫刻のプロトタイプー豚の頭。
色々な表情のある豚ですべて頭部だけの彫刻である。彫刻というより合成繊維かゴムのような
素材によりできている柔らかい物体である。これに漆喰をつけて堅い彫刻にするらしい。
ラベンナのアカデミアにて彫刻を教えているのでプロトタイプは生徒達に手伝ってもらっている。
袋一杯につめられた豚の頭部。制作の途中なので写真は控えた。
最終的には大きなモニュメントになるようである。完成したら是非みてみたい。

突き詰めるところまで消去していってミニマルに辿りついた瞬間にどこか戸惑いを感じ
そしてまた具体的な「もの」を作る段階に入っていった、と話すグラツィアーノの言葉を聞いて
ああ、どの作家もやはり同じなのだな、と思った。
サラミやビステッカを描き始めたアレと豚の頭のグラツィアーノの全く異なるもののどこかイタリアに根ざした血と源泉の共通性を感じざるを得ない。

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by jamartetrusco | 2009-05-12 02:29 | Paese (土地柄)
2009年 05月 07日

自然の作為

モンテフィオラーレの城塞を下ったすぐのところにある人知らず存在する荒野原。
その昔は葡萄畑として使われていた我が家の大家さんの手元に残った唯一の土地である。
足を踏み入れることも困難なほどイバラや雑木にあふれた見捨てられた空間であった。
この週末やっと人若い植木屋さんを入れて雑木を払い、その姿を現したPioppoの森林。
Pioppoというのは辞書ではポプラとあるが。

人と自然がまさに共同体であった昔、葡萄の木をはやすのに使われたPioppoの木。
葡萄の蔓をつたわせるために使われた木。
蔦をつたわせ葡萄の収穫を容易にするために人の作為により左右に平行に延びて
いくように育てられたその枝振りは人間と自然の不思議な共同作業。
自然が人の作為をあたかも自分のために受け入れるかのように。
自然の順応性、生命力の力強さ。 何年かかってこんな姿となって存在するのか。
人の手を借りたそのデフォルムされた姿はしかしなんとも美しい。
Pioppoが互いに手をつないでひとつの大きな森林空間を作っている。
まるで風に流れるままの形のように。

自分の勝手に木を植えて自分の勝手に木を伐採する大家さんであるのでこの森林
の行く末に心痛む。
もしかするとすべてをゼロに伐採するのでは。
このような自然の作為の神秘を目の前に心動かない人がいるのだろうか。

どうかどうかこの Pioppoの命が守られるよう心から祈るばかりである。

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by jamartetrusco | 2009-05-07 02:03 | Natura (自然)
2009年 05月 03日

日本はおかしいのでは?

このところ新型インフルエンザのニュースで世界中が右往左往している。
特に驚くべきは日本のいつもながらの過剰報道。まるで生か死かの一大事のような
報道である。当事国のメキシコならいざ知らず何もはっきり断定できない時点で
この騒ぎようはなんだろう。もちろん忠告を促す、インフルエンザの症状が出た
場合はどう対処する、などの必要事項は当然であるが、まるで非常事態のような
状況。日本という国なんだか鬱病にでもかかっているのでは?
特に驚き、薄ら寒い思いをしたのは北米帰りの17歳の少年の症状に疑いがあり、
というニュースの後、この少年はネガティブと判明してその少年の通う学校の校長先生
が胸をなで下ろしたという会見の話しを聞いたとき。なぜかと言うとこの学校が
もしインフルエンザの感染を助けれることになればそれこそ大変だったからであろう。
この少年がどこからどうやって学校に通っていたかも教えろ、という電話がいくつも学校
にかかったという。まるで殺人者か何かを扱うような話しである。
このインフルエンザにかかればすべての感染者が死ぬというような一大事
ならいざ知らず、このようなことでこれだけのパニックと他人への思いやりのなさと、
日本の社会は一体どうなっているのか。正常な精神構造とは思えない。
報道のせいも多分にあるだろうが、日本人それぞれがもう少し大人になり問題に冷静に対処
できないのだろうか。
イタリアももちろんニュースの重要な側面として毎日報道はされているが、こんな大げさ
な捉え方はしていない。皆が毎日の生活を普通通り送っている。
毎日どこか自分とは関係ない遠い国で、多くの人々が戦争で死んだり、マラリアで死んだり
している状況の中、新型インフルエンザという未確定とは言え、治る可能性の大の
感染へのこのような異常なまでの恐怖心は一体なんなのか。自分さえ良ければ、みたいな
村八分的なこの精神構造、日本のまさに弱点である。

過度なグローバリゼーション、過剰な観光産業、そしてもちろん安い肉を大量に市場に出す
工場生産的家畜産業の結果、ここにも現代資本主義構造の見えないモンスターの影がちらつく。

人間の感性までおかしくなっているこの変な世界、なんとかしなければならない時はますます近づいているのである。



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by jamartetrusco | 2009-05-03 01:52 | Vita (人生)