トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2009年 12月 30日

ゼロ代の終わり

2009年の終わりがもうまじかである。
ゼロのつく10年間に終わりを告げる。
この10年間は一体どんな年だったのだろう。
9.11のテロ以来世界は混沌の渦に突入したかに見える。
60年代に信じた反戦、愛、平和を歌うユートピアの世界は
完璧に喪失したのか。
極度のグローバリゼーションの行き着く末が今の状況とも
言える。
自身の生まれ育った文化を真に理解せず他の文化もそれ故に
理解できない人間が未開の地まで行き着くことのできる異常な状況。
感性の鈍化、表面的な人道主義、なんでも"politically correct"が
価値観の第一としてまかり通る。お金がなければなにもできない、
無いことから生まれる興奮も感動も得ることができない悲しい時代。
環境問題への意識もひとつのファッションである。自然を守るために
なにもしないよりましであるにしても。
どこか歯車が狂ってきたこの10年と感じる。
これはたぶん自分の年齢の経過の10年間と比例して、または反比例
して感じる軋みであろうか。
振り子の動きのように陰から陽に陽から陰に変貌する人間の歴史の
当然なる時間経過か。
来年年女となる娘の将来を祈り、2010年代への切なる願いと
希望をもってこの年を終わろうと思う。


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by jamartetrusco | 2009-12-30 05:35 | Vita (人生)
2009年 12月 25日

The Sacred Made Realークリスマスの感慨

12月25日クリスマスにちなんで、カトリックという宗教から生まれた生々しいばかりの
宗教画とリアリズム溢れる宗教彫刻の展覧会を見ての感慨。
The Sacred Made Realという題名の地味ながら信じられないほどの力強い美術表現を体験できる展覧会である。
反宗教改革激しい時期のスペインのカトリック教への信仰の具現である。
絵画は見る機会があり新しい驚きはないが、彫刻作品には目を見張る表現がある。
超現実性を持つ聖人像や死するキリスト。血と肉が通う一人間としてのキリストの
生々しい肉体表現。色彩と彫刻の技の統合された不思議な世界である。
宗教のために心をゆだねる作家の意気込み。それとも単に教会から依頼されて生まれた
教会芸術の一面であるのか。
迫真に迫るとはまさにこのような表現であろう。
偶像信仰に近いどこかアニミスティックな原始的な叫びがある。

イタリアという法王おわすカトリックの国に住むこともあってカトリック信仰文化は
無視できない。しかし宗教の弊害があるのも事実である。人間は宗教の名のもとに他の文化を殺め、それを良しとできる歴史を持ち、それは現在も尚継続している。
その反面、信仰の力というのは人間の道義的行動を占める一つの肯定的要素ともなり得るだろう。
無信仰であればどのような行為も肯定できるであろうから。
自己の存在の無力を謙遜の気持ちで確かめ、より大きな力に存在を委ねること、本来の宗教とは
そうあるべきであろう。

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by jamartetrusco | 2009-12-25 01:05 | Arte (芸術)
2009年 12月 19日

朝起きて雪景色

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雪の朝。
静寂とモノクロームの美。
白に包まれる風景は自然の織りなす美の結晶である。
オリーブにしだれかかる雪はトスカーナならではだろう。

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by jamartetrusco | 2009-12-19 22:25 | Natura (自然)
2009年 12月 19日

Sculpting in Time

映画監督タルコフスキーの数少ない著書のひとつ、Sculpting in Timeを読んでいる。
「時間を彫りおこす」とでも訳せようか。自身の映画に対する美学、哲学ばかりでなく芸術の在処を語るタルコフスキーの詩人たる側面が浮かびあがる一冊である。中でも特に興味を持って読んだのが"Art - a yearning for the ideal"ー「芸術ー理想への願望」という一章。私が常日頃感じながらも言葉足らずで思うように表現できない芸術に対する把握、思想を端的に綴ってくれている。芸術というのはいかなるメディアー絵画、彫刻、音楽、詩、文学、映画などなどーであっても多かれ少なかれ真実の発見に向けての表現をするものには共通する神的なインスピレーションがあると思う。
しかし芸術とは一体なんであるのか?という問いかけに対して答えを求めるのは難しい。この未知にして無限なる広がりと底知れぬ力のある芸術の意義と認識に関して、映画という一芸術の中で「本物」の作り人であるタルコフスキーがその答えを模索する。

「すべての芸術の目的は<消費者>対象に売り物という意識で作られたものでない限り、芸術家が自身と自身の周りの人々に対して、いったい人間は何のために生きているのか、自身の存在の意義はなんであるかについて問いかけ、答えを解き明かそうとすることにある。」

芸術の役割とは「知る」という試みである。終わりなき「完全なる真実」追求の旅。

「芸術は精神性、理想を求める時を超越した飽くなき願望の中から初めて生まれる。その願望こそ人々を芸術に惹き付けるのである。現代アートがどこかで道を間違えたかに見えるのはおそらくそのような存在意義の追求を捨てて、自己意志の表現のみに基づく一個人の価値の是認を知らしめるためだけに走っているからだろう。」

そして真なる芸術は美と醜、生と死、調和と緊張など、相反する2元性を内包するものである。

「無限という概念は言葉で表現したり、解釈したりすることは不可能であるが、芸術を通して認知することができる、芸術を通して無限を感触することができる。」
「創造を目指す葛藤の唯一の条件は自身の営みを信じること、自身を捨てて無になること、そして妥協しないこと。」

自己表現などと言うのは真の芸術たるものに成り得ないのである。ここに60年代以降のアート界の嘘と無理が隠れている。作家の意志、個の表現を表そうとすればするほど真なる美は遠ざかっていくのであろう。

人間の個や自我を超越して、存在の過去、現在、未来を抱擁する無限なる芸術の美を発見する。そこには生と死を内包する人の存在の真実が刻まれている。それでこそ真なる芸術は人の心を震えさせるのであろう。

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by jamartetrusco | 2009-12-19 03:01 | Arte (芸術)
2009年 12月 14日

ハミルのコンサート

ヴァン・デル・グラーフ・ジェネレーター(VDGG)のヴォーカリストであり、今ではソロ活動にて
音楽を生き続けるピーター・ハミルのコンサートがフィレンツェの美しい劇場、Teatro
della Pelgolaにて昨日行われた。ソロのコンサートを見るのはロンドンでの過去2回に続いて
3回目。ロンドンで見たコンサートに比べて、フィレンツェの劇場はあまり大きくなく、また観客数も限られており、まじかにハミルのピアノとギターの語り弾きを堪能した。絞り出したような声のハミル節と力強く、情感溢れるピアノの調べとの極致をこんなにまじかに味わうことができたのは嬉しい限りである。イタリアにはVDGGとハミルの熱狂的なファンがいて、以前リヴォルノそばで見たVDGGのコンサートに来ていたファンがいるのだろうな、と思いながら来ている人々を見回した。ハミルの音楽を愛するのは圧倒的に男性が多い。それも50代以上の。彼の作り出す音が男性の詩情に訴えるのだろうか。VDGGの活躍した70年代前半、その後のVDGGの解散を嘆き、しかしその後のハミルのソロ活動をずっと追い続けてきたファンばかりである。
そして必ず見かけるのは父親の情熱を受け継いだのか、それとも嫌々か、子供を引き連れている50代ぐらいのお父さんというタイプの観客。男女のカップルの場合もファンである彼に彼女が同行しているに違いない。後は圧倒的に一人で来ている男性の観客。VDGGのコンサートには場所も遠かったのでアレと娘も無理に連れていったのだが、今回は一人で。私のように女性一人で来ているのはほとんどみかけない。そのうち娘を感化してともに見れたら嬉しいのだが。

ハミルの音楽は詩と生の声とピアノやギターという楽器の3つの要素が劇的なバランスを持って
昇華していく。天上へ向かって上昇する「音の魂」の昇華のようである。
単調と長調が微妙に変化し、低音と高音が突然と入れ替わり、次の音階へと展開する。
一般的な美しいメロディーという範疇で判断できない「きわどい美」を持っている。
だから素晴らしい。ぞくぞくするエネルギー源がある。劇的である。
2回のアンコールを終えて、Alla prossima! 「また次回に!」という締めくくりの言葉を聞いて
さて次はいつ来てくれるか、と今から次のコンサートが待ち遠しい。
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by jamartetrusco | 2009-12-14 19:56 | Vita (人生)
2009年 12月 08日

心の自由

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先日のBorse Nere come Nidiのグループ展は思いがけず広がりを持つ展覧会であった。
フィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ広場にあるブルネレスキ建築の
ルネサンスの建物内の広間で行われた土曜日のたったひと午後の展覧会であるものの、
参加者がひとつの目的をもって集まった会であり、種々様々な作品展示がひとつの
物語のもとに織り絡み合っていることがひとつの調和を作りだしていた。
共通項は、まず皆が企画者であるエレナの友人である作家、建築家、詩人、画家、
彫刻家であること。エレナのLibro Nero、「黒い本」を元に展開した個々別々の
表現を展示の中核としていること。そしてその中核の周りにそれぞれ独自の自由な
表現を合わせてひとつの小さな展覧会を築き上げていること。
キュレーターがいるわけでもなく、見に来る観客が多いわけでもなく、売るための
展覧会でもなく。いったいその意義は何?と問われればその答えは以下のように
言葉することができるだろう。あらゆる形で制作にかわわる参加者39名に共通する
「作ること」に対する情熱。時間や物質的目的に追われない、心の自由を支えに
作り上げる個々の表現。市場や肩書き、建前に侵されることなく、ある個人のまわりに
集まる心の同胞とともに展覧会を行うことの意義。表現はツバメの飛行と同じく空を
羽ばたき、心の向くままに巣におりる。そのような心の表現をBorsa の中に「包み」
あげる展覧会。
作家同士の交流という意味でも貴重な時間であり、ゆったりと時の流れる、心の
充実感を感じさせるひと時となった。


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by jamartetrusco | 2009-12-08 00:23 | Vita (人生)