トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2010年 02月 24日

真の理


「奢れるもの久しからず」。平家物語の冒頭部の一節は有名であるが其の中にある言葉。
もともとは漢文から来ているのかもしれないが。
「初心忘るべからず」という格言。
両者とも微妙に意味合いは違うものの同様の真理を説いているようである。
人間の生きる上での智慧の根源であるようである。
なんでも慣れてくる頃に失敗したり、初めての経験における誠実な緊張感を
いつまでも忘れてはならない、と常日頃自分に言い聞かせている。
最近のトヨタリコール問題など見ていてこのような言葉を痛切に感じる。
一人勝ちと言っていい気になっていると墓穴を掘るというような例である。
イタリア人でよく感じるのは新米の店員とかTV司会者とか仕事始めの当初は謙虚でなかなか
誠実そうに見えるのに、少し経ってくるとだんだんと横柄になってくる。
最初は皮をかぶっていてそのうち地が出てくるのか。常に変わらず感じの良い
人が案外少ない。イタリアにはこのような諺がないのかも。
「我が計らいにあらず」
人間はなんでも自分で物事をなすと思っているが、実際は自然のなすがままになっていく
のであろう。自分の力の及ばない見えない自然の理に動かされてなすがままになっていく、
と信じていればすーっと気持ちがらくになる。人間も所詮大宇宙の一部なのだから。

最近よく頭に浮かぶ真の理を表す3つの言葉。


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by jamartetrusco | 2010-02-24 01:19 | Vita (人生)
2010年 02月 19日

「昨日の世界」

ユダヤ系オーストリア人のシュテファン・ツワイクの「昨日の世界」を読んでいる。
世紀末の文化と芸術の円熟した旧き良きオーストリア・ハンガリー帝国の栄光を若き時代に生き、その後第一次大戦による悲劇、ナチ台頭による迫害を逃れて祖国脱出をして英国に亡命,米国を経て最後にはブラジルに渡る。1934年から書き始めた自伝である「昨日の世界」を書き終えた42年出版社に原稿を送った後、妻とともに自害、その翌年この本は出版されたというかなり劇的な背景のある本である。
ハプスブルグ絶世期の自由な文化人が謳歌するウィーンに織物工場を持ち金銭的に裕福だった家庭に育った若き日のツワイク。書き出しのページが印象深い。
要約するに、このような安定した黄金時代が永遠に続くものだと信じていた、過去にあった民族間や国同士の戦争など夢のようで国境すらなくなるユートピアを原体験していると思っていた、
と書く。その当時ヨーロッパのどの都市よりも文化的に栄え、民族間の軋轢もなく互いに互いを
尊重しあって共存することのできる都市だった、というウィーン。そして一歩外に出れば自然が
ある、という環境。ある意味では現代都市のいずれもが目指したいお手本のような社会を築き上げていたかに見える。それが一発の銃砲で崩れさっていく、という悲劇。
文化と芸術の中心地であるウィーンの絶頂期を味わった後に来る不穏な状況をまざまざと体験して、その落差はどれだけ悲劇的だっただろう。。。
世界の安定は築かれたと信じていたこの作家がその後世界の脱落をみてどれだけの悲痛と憂鬱に落ち込まれたか想像するにやさしい。
世紀末から第二次大戦へのヨーロッパの精神背景を理解するのに興味深い本である。
今の時代への教訓も多く隠れているに違いない。
この世界は一歩前進しては2歩後退し、という状況が永遠に続いていくのであろうか。
いつの時代に生きても同様の幸福感とそれに相対する悲劇感があるのだろうが。
波の頂点とどん底の繰り返しのように。
時代の重みに押しつぶされないように、外界の安定如何に関わらず自身の心の安定を目指すことしかない。

異常に細かい活字でまたイタリア語で読んでいるのでいつになったら読破できるかが唯一の
難であるものの。


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by jamartetrusco | 2010-02-19 02:30 | Libri (本)
2010年 02月 11日

二つの展覧会

二つのある意味では対照的な展覧会をフィレンツェで見た。
ひとつはAlberto Boraleviの小さなギャラリー空間にて開催されている"Fuutou"展。
文字通り「封筒」展である。Boraleviは古い民族織物などを専門とするアンティーク
ディーラーであり建築家である。フィレンツェの貴族フレスコバルディのお屋敷の
一階の小さな空間にある展示室。天上高い空間の壁に処狭しと飾られた古織物に
混じって現代のテキスタイル・アーティスト4名の作品が展示されている。
ふたりはローマにて仕事をする日本女性、そして日本からの影響を受けたイタリアの
二名。封筒というタイトルが由縁する包むもの、箱、器などなどを象徴的に表すかに
見える糸や古布やfound objectが紡がれ、織り込まれたオブジェ。
旅の記憶と体験がそこに宿るかのようである。
赤の暖色が占める古い民族織物の壁面のある空間は暖炉の暖かさがあり、旧きヨーロッパのサロンのような小空間である。

これとは対照的にニューヨークのロフトを思わせるような広大なホワイト・キューブの
空間を持つGalleria Alessandro Bagnai。前者のギャラリーが旧市内に位置するのに対してこちらは郊外に向かう
車道に面している。もとは車の修理工場だった空間を改装している。
広々として天上の高い展示室は3つにわかれ、それぞれが一作家の作品展示に当てられる。

今回ここを訪れた理由はこの画廊の取り扱い作家であるPizzi Cannellaの最新作品を見るため
である。1955年ローマ生まれのPizzi Cannellaの作風は常にもやもやした色彩の平面に現実世界の物体ーときにはシャンデリア、ときにはやもり、または洋服とった物体が浮かぶといったー象徴性の強いものである。
エンツォ・クッキやミンモ・パラディーノなどのイタリア、トランスアヴァンギャルド派の系列を組むようにも思われる。新作はお茶でよごしたような古色蒼然とした粗地のキャンバスを木枠にはらないまま打ちっぱなしにして壁で釘で留めている。すべてが茶色のパピルスのようである。
壁一面を被うかのような横長の建築線を表した幻想的な空の風景。3枚一組の世界地図。そして天上から床まで届く縦長の作品。日本や中国の墨絵の掛け軸を想起させる。
描かれたモチーフも東洋の影響を明らかに感じさせる即興的な筆描写。笹の葉や扇子を散らした
ような襖繪のようなものもある。展覧会タイトルも”Orientale"ー「東洋」とあるから意図は
明白であろう。素晴らしい空間に映える統一性を持った作風がその大きさとともにある種の感動を
与える。
さて展覧会をともに訪れた友人作家のエレナのコメントが心に残った。
「この作品は明らかにこの画廊の展覧会のために、この画廊の空間のために描かれたもので
そういう制作にはどこか嘘があるようで自分は好きでない。作家は己の思いのままに制作しなければ。」
確かにホワイト・キューブの「現代アート」専門ギャラリーの空間は大きい作品を置くために
存在するかのようである。作家はその画廊空間のために制作作品も決めてくるというのは本当
かもしれない。とは言え作家が思いのままに制作できるのであれば自ずと巨大な作品を制作する願望が生まれるのも事実である。人間の本来持つ巨大願望志向、メガロマニアの表出は古代からある。一方こんな大きな作品を置ける個人邸宅も少ないのである。納まるところは美術館ぐらいしか
ないのか。

ここでまた作家が制作するのはなんのためか、という原点に戻る。
画廊のために作る作品はコレクターに売るため?美術館に納まるため?
誰にも認められなくとも自身の心の叫びが制作を促す、というのが本来の姿であろう。
しかし一旦取り扱い画廊ができればある種の達成感が生まれる。
一体作家で画廊が自分を選んでくれたことの喜びを感じないものがいるだろうか?
やはり教会とか貴族などの旧アートパトロンが消えてしまった現代に生きる作家の困難。
美術館、学芸員、美術評論家、そしてそれらに影響力のある金持ちコレクターが
価値を決めていくような状況は「個人」というレベルを無視して組織や官僚といった具体性のない
美術界という体制を相手にすることになるわけだから。


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by jamartetrusco | 2010-02-11 18:58 | Arte (芸術)
2010年 02月 05日

ネットコミュニケーション

イタリア発のアーティストのFacebookのようなPremio Celeste というサイトがある。
美術作家や批評家が名前や作品を登録して同士の交流を深めるとともに定期的に
Premio、つまり賞を授け展覧会を企画するという意図があるらしい。
2004年以来存続する団体である。作家友達が登録していることもあって
アレも登録することにした。要するにSaatchi GalleryのサイトYour Galleryの
規模を小さくしたイタリア版のようなものだろう。無料と有料があり、使用が
限られている無料に取りあえず登録したものの、まだ作品一枚のアップも
できていないアレである。インターネットにて様々な情報を検索するのは得意な
彼であるが、ネットコミュニケーションの技は未だにメイルも開けられないような
状況である。
ネットを通した交流というのはブログに始まり、普及しているFacebookやMy Space,
Twitterなど、様々ある。Facebookを最近になって始めた娘は誰も説明しないまま
その世界になんの抵抗もなく入ることができる。やはり新世代の能力だろうか。
小学校2年にて将来何になりたい?という質問に「作家」と答えて、その後中高と
文学少女気取りだった自分であるのでもともと書くことが嫌いでないし、夫の作品の
紹介が目的にて始めたブログであるが、始めた当初毎日にように更新したり、さまざま
なブロガーと交流しようとしていた時期は短期間で、其の後はだんだんと書く内容も
偏ってきて自然と自己満足と自己表現のみに訴えるようになっているこのごろである。
好むブログも美術や創造、制作に関わるような方々のものが多い。思いがけない視点を
与えてくれるブログも好きである。読んでいてもコメントなどすることもなくなった。
つくづく新世代のもつネットコミュニケ−ションのエネルギーがないことがわかる。
このブログにしても思いついたことを書き留めるという程度であるので後々日記的な意義を
持って自分を振り返ることができるのは確かであるものの。
2006年に始めてもうすでに約4年目。止める、というのもなんだかもったいない
気がして継続でき得る限り何かたわいのないことを書いていくつもりである。一度始めたら
なんだかやめられないネットコミュニケーションの不思議でもある。
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by jamartetrusco | 2010-02-05 17:49 | Vita (人生)
2010年 02月 01日

感想

見ようか見まいかと迷っていた3D映画「アバター」を昨日娘と観た。
そして感想。「アバター」ヘの先入観を持ちたくない人はどうぞ無視してください。

まず宮崎駿の映画「天空の城ラピュタ」、「もののけ姫」そして「風の谷のナウシカ」を
しっかりと見たことのある人はすぐ気がつくであろうその映像の類似性。
どうみてもこれは映像的影響を受けたに違いない。キャメロン監督がそのことを
言及しているインタビューなどあるのだろうか?
パンドラ国の住む森や天空に浮かぶ森の島やそして不思議な色彩の森の奥深くの
植物などなどまさに宮崎監督がすでにアニメの中で映像化している風景である。
もし一言もそのことを触れていないとすれば不思議である。
話しの内容も似ているところがある。
自然を守る一握りの人間と自然に宿る神々とそしてそれを拒み、征服しようとする人間達との
葛藤。宮崎映画の悪人役の中にある弱みとややユーモア溢れる人物像はこの映画には
ない。ただただ悪い人間の存在である。ベトナムやイラク戦争へ走る植民地征服的感覚の
悪人たち。自然を破壊し、原住民を皆殺しにすることなどものともしない悪人である。
しかし話しの展開は宮崎映画にあるような幻想性はなく、常からあるアメリカ映画の得意とする善と悪の対決、土着であるアメリカ・インディアンを襲う侵入者である悪いアメリカ人とアメリカ・インディアンを守る数少ない善人のアメリカ人との対決、そしてこの善人のアメリカ人とインディアンの酋長の娘との恋愛物語、などなどもうあまりにもワンパターンで月並みな話しと要するに同じである。
そこには申し訳ないがひとかけらの情緒も生と死の悲哀もない。善対悪、武力対自然の力など、かなり短絡的な2元的な話しである。
さらに、ある新聞記事によるとこのパンドラ国の世界はすでにロシアの60年代のSF文学者であり、タルコフキー監督作の「ストーカー」の原作者でもあるストロガツキー兄弟による著作"Noon - 22nd Century"の中のNoon国と極似していることを指摘している。
そう思うと宮崎世界ももしかするとストロガツキー兄弟の影響があるのかもしれない。

この映画が話題性があるとすれば要するに3Dであることと宮崎世界の幻想をアニメではなく
現実の映像のように見せ、映像があっといわせるような特殊効果の極致に到達している、という
ことである。物理的に言うと3D用の眼鏡をかけての2時間半以上、目が大変疲れたのも否めない。たぶんそういう人も少なくないのではと思う。

映画としての全体の娯楽性はもちろんあるし、見て損をしたと思うような映画ではないが、一体
この映画をして多くの人々が鬼の首をとったように感動の歓声を挙げる事自体が不思議である。
はっきり言って新しい効果の面白さのみであり、映画としての深い感動などかけらもなかった。
日本にて公開されてどんな評価を得るだろう。

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by jamartetrusco | 2010-02-01 01:47 | Cinema (映画)