トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2010年 03月 27日

発言の自由

この日曜日と月曜日、イタリアは地方議員選挙にてこの数ヶ月、現首相のベルルスコーニ率いるフォルツァ・イタリアの中道右派とベルサーニ率いるPD(民主党)連合の中道左派との選挙運動/対抗がくりひろげられている。そしてつい最近になって"Par Condiscio"ー各政党による政治的な公的表現や発言に与えられる条件や時間を平等にすることーをもとにイタリアのNHKにあたるRai、主要民放のTVチャネルからすべての政治討論やら政治的言及を禁止する、という決定が下された。これはRai2の政治討論会的番組、Anno Zero (ゼロ年)を担当するジャーナリスト、ミケーレ・サントーロが抱く政治論が特にベルルスコーニ批判をその根底に有するためにこの番組を選挙前に排除したいために行われたという向きもある。なにしろ民放の3チャンネルを所有するのは今でこそ会長の座はゆずったにせよベルルスコーニ所有のフィニンベスト・グループであり、また 昔からキリスト教民主党の息のかかった保守的なチャンネルであるRai 1はそのときの支配政党の影響力が強いのである。ちなにみにRai 2は社会党、Rai 3は共産党の配下という時代があった。今でもその伝統は続いている。

それにしてもイタリアの不思議というか。とにかく政治討論の大好きな国民であるが、主要な選挙ではないし単に地方自治体の議員を決めるだけの選挙であるにせよ、一体政党が何を表明したいのか、行いたい政治計画案などを国民に知らせる手段としてのTV番組を取り払ってどの政党に投票せよ、というのだろう。他の国では考えられない不思議な状況。要するにこのふたつの右派と左派に
投票する人はどんな政治家であろうが、すべて目隠しのように同じ政党に投票する、ということなのだろう。そしてこの2政党に賛同できない40%以上の国民は投票しない、ということである。
この政治不信の40%の国民の支持を捕まえつつあるのは以前のマーニ・プリーティ(汚職排除へ
貢献)のディ・ピエトロ率いるItalia di Valori党とソーシャル・ネットワークのブログでかなりの
影響力をもつベッペ・グリッロである。ベッペ・グリッロは体制への過激な発言が多いため随分前からTV出演は自ら望まないものも含めてほとんど禁止されているような状況である。

さらに最近問題になってきている発言の自由。TVに出てくる様々なパーソナリティーが発言した
言葉によって降番されRai への出演御法度となる事件が相次いでいる。それも単に真実を語ったり
正直すぎたり、といった一言多い、というような発言に対してである。料理研究家のベッペ・ビガッツィ、音楽家のモーガン、そして作家のブーズィがその被害者だ。
こうなってくると発言の自由への侵害というか。発言に対して抗議の電話が多かったりということで降ろされるのであろうが、抗議にせよある一部の人々だけであろう。
様々な意見が存在するのであり、それ故に民主主義なのであろうが、それをある価値観を前提にひとつずつ奪っていったらどういうことになるだろう。
ある意味でインターネットを通じてあらゆる情報が手にはいる時代にまるで時代錯誤の状況である。
ベルルスコーニの息のかかっていない他のTVチャンネルはこの制限がないので、例えばイタリアにてもっともジャーナリズムがまともであると思われるLa 7の番組は毎日のように政治家が出演して視聴率が今までになく高いそうな。

さて選挙後、どんな状況になることか。どちらが勝利を飾るのか。


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by jamartetrusco | 2010-03-27 18:56 | Paese (土地柄)
2010年 03月 23日

Inner Landscape-內經圖

随分前に西欧の文化史にある解剖図について書いたことがあるが、近頃、道教のより精神性
高い人間の内部の把握により共感を覚えるとともに、この深淵にはまりこみそうである。
内景園とも書けるに違いないこの人間の心身を説明する中国の人体解剖図。
それは解剖図というより内なる人間の頭脳、内臓含めた手足の除いた胴体部のすべての機能
を自然や事物に喩えて漢詩にて顕したかなり秘儀性の高いものである。道教にある陰陽の
宇宙の理に則った理解である。人間の体を小宇宙とみなす思想である。
人間の体は自然の存在する図式やエネルギーの合わさったものが内在するだけでなく
超自然的な景色と神性も宿している。故に体は山川、神々の聖宿すべて内包した完成した
宇宙世界を象る。具体的な図式では頭は9つの九龍山脈、眼球は月と太陽(陰と陽)、
すべてをつなぐのは水や土の道流、森林、星流などなど。
描かれる人物ー牛飼いの子供や機織りの娘などーはすべて中国の星座を象っている。
要するに宇宙の、自然の法則が体内にも流れており、人間を生かし続けているという
ことであろう。

何もかも科学と化学で解明していこうとする現在の医学が横行する中で、人体に対する
こういった理解は古代の人間に属するもので単なる神秘主義と片付ける向きもあろう。
しかし最近ますます感じるには人間が目に見えない「何か」ーそれが神として捉えられても、
他の道徳的理念であってもーに対して畏れを感じなくなり、さらに自身と宇宙とのつながり
を感じなくなって以来この世界の、自然の調和が崩れ出したのではないか。
それは物質的満足などでは癒されないのである。
このような思想は西欧の、特にエトルリア文明のアルケミアー錬金術ーの神秘主義にも
近いものがある。東洋と西洋との縦横、左右の捉え方の違いがあるにせよ。
宇宙の深淵へと近づこうとすることは東西の違いを越えた人間の営みの意義ではないだろうか。

この日曜日、イタリアの美術紹介TV番組"Passepartout"にて、ミラノに1956年に辿り着き、彫刻家マリノ・マリーノに師事し、今でもこちらで活動を続けるアズマ・ケンジロウとう80歳を越える作家と、番組を担当する美術評論家,フィリップ・ダヴェリオとのインタビューを見た。作家としてどのような作品を制作するのかあまり知らないのであるが、そのどこか
飄々としてユーモアを含めながら、制作と人生観にひとつの悟りを開いたかのようなアズマ氏の人となりに感銘を受けた。自分のエネルギーと力の源泉は"Vuoto"である、「空」である、と言うアズマ氏。「空」であるからこそその中に何かを受け入れることができるのだから。
道教の思想に繋がる禅的人生の把握。師匠であるマリーニはトスカーナ出。アズマが師事して当初
師の作品を模そうとうして必死だったとき師がいみじくもいさめた言葉「私はエトルリアのルーツがあるが、あなたは別の文化から来ているのだから、それを発見しなさい。」
アレもエトルリアの精神文化に通じているので語ったにはエトルリアと日本の人生観はどこか
近いところがあるのではということである。日本に初めて来たときに何の違和感も感じなかったというアレであるので実はエトルリアと道教は近いのかも、などとかなり飛躍した考えが頭を巡った。こういうfegatoー内蔵に響く理解というのは案外正しいことがあるものである。


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by jamartetrusco | 2010-03-23 22:56 | Natura (自然)
2010年 03月 18日

春を感じる

この1週間やっと春の訪れを感じるようになった。
あまりにも寒く、雨と雪の多い冬であったからいっそう
有り難みを感じる。
空気がイタリア独特のsfumatura ーぼかしーのベールとなって
自然を被い始めたとき、あー春が訪れたな、と思うのである。
まだまだ強くないがやや冷たい空気に丸みを与えてくれるの
に十分な威力があるイタリアの春の太陽。
この数ヶ月不調だった体も春の気配で少しづつ回復しているのが
わかる。
久々の散歩で遠景からみるモンテフィオラ−レが眩しかった。
遠くの山にまだ残雪。

春の日差しとともに生き物にも変化。
一昨日うちの子猫のミヌーが他の野良猫を追っかけて失踪。
一晩家をあけてしまった。Già in calore? このin caloreという言葉、
猫のさかりのことを言うがもっと情熱的で素敵な響きである。
文字通り「熱くなる」、という意味である。春の空気でミヌーも
家出したのか、それとももっと悪いことでもおきていたらどうしよう、
あることないこと想像して、娘ともども心休まない。
昨日も逃げこんでしまった空き家の回りを探しまわる。
そして午後アレと娘と二人で再度探しに。
車が駐車している広場の以前ミヌーが隠れていたことが
ある穴を思い出す。そしてそこにこわごわ潜んでいるミヌーを
再発見。娘は歓喜と今での心配とが一緒になって大泣きしてミヌーを
手に帰ってきた。本当に良かった。

今週末はサン・ジュゼッペ(キリストの父)の日を祝ってこの集落での
揚げ菓子祭りである。春のお天気が続くことを祈って。

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by jamartetrusco | 2010-03-18 17:37 | Vita (人生)
2010年 03月 12日

再発見されたジョット

フィレンツェにあるイタリア・ゴシック建築を代表するフランチェスコ会の最大のバジリカ(聖堂)であるサンタ・クローチェ。もともとはサン・ロレンツォ教会と同様のピエトラフォルテによって被われた建築で、現在正面を飾る大理石肌の装飾は実は19世紀後半に追加されたもの。シエナやオリビエート、もしくはフィレンツェの大聖堂を元にしている。故にこの聖堂の様式とはかなりちぐはぐであると言える。

中にはダンテ、ガリレオ・ガリレイ、ミケランジェロ、マキャヴェリなどの偉大なフィレンツェ人の墓碑がある他、16の礼拝堂がある。このひとつであるペルッツィ家の礼拝堂にある初期ルネサンスの巨匠ジョットによるフレスコ画「洗礼者聖ヨハネ」と「福音書記者の聖ヨハネ」に関してつい数日前大きな発見が発表された。このフレスコ画は後のミケランジェロなどに大きなインスピレーションを与えた新しい表現と言われるものであるが、14世紀に描かれた当時から現在までの時の経過によって後期の修復や汚れなどのおかげで幕がかかったようなぼんやりした表現のみ残っており、当時の面影はない。

ところが今回ロサンジェルスのゲッティ美術館とフィレンツェ修復局との協力にて初めてUVライト、紫外線の光を使った照明器具を当ててジョットの描いた人物像の全体像が浮かび上がったのである。肉眼でみると輪郭などはっきりないフレスコ画の色彩が紫外線の元に消え去りそこにくっきりと生き生きとした表現の血の通った人物表現が現れる。確かに両者を比べるとその違いは明白である。ミケランジェロが眺めた当時はこのジョットの肉迫した表現が見られたのであろう。(掲載画像の内、上が現在の状態、下がUV光のもと)

とは言えこの発見、UVライトを当てることのよってのみ見ることができるのであるから、一般の鑑賞者にはなんの恩恵もない。そして当時のジョットを再生しようと修復など開始したらまたこのフレスコ画が何年間垂れ幕と鉄棒の作業台の下に隠れてしまうかと思うと、修復作業も善し悪しである。

さらに思うに現在のテクノロジーを使って長い年月の汚れと質の悪い修復を取払い元の状態を戻そうという意図のもとに修復されたシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画や最後の審判、レオナルドの最後の晩餐などの結果を見ると現在の修復がどれほど良い結果を後世にもたらすか疑問である。というのもどんなに修復技術が進んだと言われても修復に使用される原材料の質は現在の方が劣っているのは間違いないからである。現在手に入る材料にてルネサンス期と同じ色彩と質を出すことなど到底無理にきまっているのだから。

人間の作り出したものは時のなすがままに触らず置いておいたほうが好ましいのでは、どちらかということ修復反対派に属する自分である。


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by jamartetrusco | 2010-03-12 18:36 | Arte (芸術)
2010年 03月 08日

芸術考

20世紀後半の美術において神秘は失われてしまった。今日のアーティストは即時の
そして完璧なる承認を得ようするーそれも魂の領域にて起こることに対しての即時の
代償を求めるーーー中略ーーーー今日、芸術として通用しているものは大部分、
フィクションー虚構である、なぜなら手段が芸術の意義と目的になり得ると思うのは
誤信であるから。
にもかかわらず現代の作家達は思うままにその手段を示すことに時間を費やしている。
「アヴァンギャルド」という事自体、精神性を着実に失いつつある20世紀という
時代に特有のものである。芸術における「前衛」は無意味である。たとえばスポーツなどに
前衛という言葉を使うのは理解できる。芸術に「前衛」を当てはめるのはまるで芸術に
進歩があるかのようだ。進歩が存在するのは技術においてのみである。芸術において
どちらかが進んでいるなどと言うことはあり得るだろうか?
「前衛」ということに関して話すとき一般的に「実験的」とか「探索」とかの意味で語られる。
それは一体どういう意味だろう。
芸術において実験などできるだろうか。失敗すれば制作者の落ち度しか見えないというのに。
ーー中略ーー
芸術作品というのは完璧なる美的,哲学的不変性を内に孕んでいるのである。そのもの自体の
法則により生き、変貌する生物のようなものだ。子供の誕生について実験などという言葉が
当てはまらないのと同じだ。新たな審美の構造が理解できないために、自身の範疇も
見いだせないために、間違えるのが怖いために、目新しく感じられ、
容易に理解できない物に対して「前衛」と十把一絡げにしたいだけだろうか。
ピカソの逸話が面白い。彼の目指す「探索」について質問を受けたときに、
ピカソは明らかに不満げに「私は探索するのではない、発見するのだ」と語った。

                 タルコフスキー著、"Sculpting in Time"より抜粋。


芸術に進歩などないのである。あるのは宇宙の本質の表象である。
その神秘を発見することが芸術である。


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by jamartetrusco | 2010-03-08 21:43 | Arte (芸術)
2010年 03月 02日

革命の起こるとき

1910年代は前衛美術が最も活気づいた時代である。
現在でもなお新鮮なエネルギーを持って訴えてくる
様々な美術運動が生まれたのがこの時代である。
キュビズムのパリ、シュプリマティズム、構成主義のロシア、
デ・シュティールのオランダ、未来派のイタリア、青騎士のドイツ。
建築からデザインまでの総合芸術の構築を目指したバウハウスが
生まれたのもこの時期である。
産業革命による良きにせよ悪しきにせよ機械文明という
画期的文明革命から派生してきた表現様式のユニークな発露だった
のだろう。ルネサンス時代もしかり。中世のカトリック教に支配された
宗教的表現からカトリック以前のローマ遺跡に残る美術様式に開眼され起こってきた
芸術様式がいわゆるルネサンス様式である。そこにはメディチ家のような新興経済の
介在があった。従来のパトロンに対抗してトスカーナを制覇することになる
この家の力は他に類を見ない。そこにはプラトン・アカデミアの哲学的支えも
あった。芸術と思想が統合するときに生まれるエネルギーである。
前衛が台頭するには物理的、精神的大革命が必要なのだろう。

1910年からちょうど100年経った今は、次世代へつなぐ精神大革命もなければ毒素を
含んだ社会と文化の物理的混沌ーカオスもない。あるのは画一化され、奇麗ごとに飾られ、
そしてとりわけ細部に渡って多様化したネット、消費文化のみである。
それを見えないビッグブラザーのようにすっぽり被っているのは国の領域を越えた
個人の力ではどうにもならない弱肉強食の経済法則である。
前世紀にまだ可能であった骨のある作家が貧乏をものともせず制作する余地など残って
いないかのようである。

何もなくてもなんとか暮らせるような孤島はどこかに残っているの
だろうか。そのような孤島も自分で購入しない限りすべて観光産業の渦の中に巻き込まれ
一種のディズニーランドとなってしまっている。
以前は暮らし安かったイタリアもすでにユーロ圏の画一的物価高の国である。昔は良質と安価が特色だった田舎の生活(とりわけトスカーナ)もマルチ経済の投資の対象となり、名もなき農家の人々が住んでいた家々は今やツーリスト相手のホテルアパートトと化してしまい、出元の怪しいお金が入り込む格好の地となりかわってしまった。

すべてを捨てて畑でも耕して自給自足の原始的生活を送りたい気分である。
次に来る大革命を見る機会はあるだろうか。
それとも心の革命を求める自分があるだけなのだろうか。


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by jamartetrusco | 2010-03-02 19:37 | Vita (人生)