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2011年 01月 31日

2月の京都へ

久々に寒い冬の京都へ一人で行く。
家族とともの暑い夏とはまた違った風情が得られるだろう。
仕事の関わりであるものの友人とも呼べるぐらい付き合いの深い
イギリス人が日本を訪れる。たまたま時期が重なったのであるが
こういうのも楽しい偶然。初めてに近い日本での体験が有意義な
ものであるようにできるだけの歓迎をしたい。
美術館尽くしの訪問になるだろうが、京都の素晴らしいお寺の
空間は味わってもらいたい。
一カ所どこを訪れたら良いだろう。
金閣寺や清水寺が外国人にとってわかりやすいということもあるだろう。
でも一カ所だけ選べと言えばやはり石庭の竜安寺に案内するだろうか。
それとも三十三間堂の千体の仏像も圧巻であろう。
永観堂の見返り阿弥陀や広隆寺の彌勒菩薩半跏像は仏像の美しさで
一番である。京都で訪れるところはあまりにもありすぎる。
建築、仏像、庭、規模などなどの興味によって選ぶしかない。

20日に戻ります

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by jamartetrusco | 2011-01-31 22:30 | Vita (人生)
2011年 01月 28日

生き残りの紙

アレの紙油彩の作品の素材となっている黄紙については何回か紹介した。
その昔本当の藁を入れて作られていたcarta pagliaー真の意味の藁半紙。
最近では製造が機械化され、質もどんどんと落ちてきて、昔のざらっとした
触感の素材感溢れる紙質はなくなっている。
紙は重量にて購入するので、紙が薄ければ薄いほど多くの枚数が手に入るのである。
90グラムから80グラムヘ。
10グラムの違いでも紙が薄くなったのがわかるのである。
ところが今日素晴らしい再会があった。
90年代初頭には普通に売られていた昔ながらの藁半紙を再発見したのである。
再発見と言ってもこの紙が未だに製造されているのではない。
悲しいことにすでに絶版となったこの紙がたまたま売られずに残っていた紙の
卸店を発見したのである。
店のご主人と「この紙に絵を描いている、最近では良質の紙がなくなってきた」
という話しをしている内に、思い立ったのか、昔ながらの黄紙を見せてくれた。
トラットリアなどで使い捨てにされるのではあまりにも残念なので次の持ち主が
見つかるまで取って置いたのかもしれない。
紙とともに生きてきたこのご主人はアレの純粋なる情熱を感じ入ったのかもしれない。
ご主人曰く92年のイタリアの政府が百万リラ(当時はリラ)の出来高がなければ
個人企業は存続すべからず、という法律を作ったので当時兄弟3人で手作りの
紙を製造していたこの小さな紙工房は閉めざるを得なかったということ。
この手作りの紙は本当に日干ししながらできた藁半紙であるので水にも強く
使った後も洗って乾かせばまた使えるという良質のものだったそうだ。
近代化の波に生き残れなかった素晴らしい職人達の貴重な仕事はどれほど消え去って
しまったのだろう。
実に残念で悲痛な話しであるものの、この生き残った紙を作品として残せたら
こんなに光栄なこともないのである。
紙を横から撮ったイメージはそのままアレの描く風景画のようだ。
紙よ永遠なれ!

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by jamartetrusco | 2011-01-28 00:02 | Paese (土地柄)
2011年 01月 24日

蓄積か無駄か

自分の好みでないこと、得意でないことを挑戦してやることは
若い時代の特権であると思う。
何が得意か、どういうことに興味があるかをまだ模索中だから。
なんでも気力だけでこなせるエネルギーがあるから。
またどんな人とも知り合うことの楽しみがあるから。
しかし好きでないこと、気の進まないことをある程度の年齢が行ってから
試すのは無駄なエネルギーを使うことであると思う。
気の進まないこと、興味のないことは試したからと言って自分の血となり
肉となることはない。
ただただエネルギ−を消耗するのみ。そしてその際の出会いは自分の
領域外であるから次に出会うこともほぼない。
興味がないにも関わらず得た知識や経験は次に発展するとは限らない。
なぜならその道は自分の選んだ道から逸脱しており、交差する接点も
見いだせないことの方が多いから。

断れずに引き受けたある仕事を一段落してつくづくと思ったことである。
挑戦は若さに対してあるのみ。何事も経験とは若さへの教訓である。

自分の興味を深めることが人生追うにつれて必要であると思う。

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by jamartetrusco | 2011-01-24 22:18 | Vita (人生)
2011年 01月 16日

「自然の力」

近年では数年前拒食症打開のために拒食症でやせ細った女性の裸体写真の大ポスターを制作公開するなど、賛否両論の論議を常に醸し出すイタリアの写真家、オリビエロ・トスカーニ。以前はイタリアの代表ブランドのベネトンの広告写真家として一世を風靡した。
趣味が良い悪いか、好きか嫌いかは別にして過激な姿勢をいつも持ち続け、社会の一般常識へ疑問を投げかける気骨のあるアヴァンギャルドな魂を持つ人と言えるだろう。彼の制作姿勢は純粋に自身の考えるところの正義感からきている。故に一匹狼的存在である。

その彼が今度もまた賛否のスキャンダルの話題の的となっている。
1月13日、フィレンツェにて行われるファッション・フェア、ピッティ・ウォーモのイベントのひとつとしてスタツィオーネ・レオポルダにて行われたトスカーニの写真による2011年カレンダーのお披露目会。この席でトスカーニを含めた6名のパネラーが「自然の力ー女性との出会い」という討論会を行った。
このカレンダー、普通のカレンダーではなく、なんと女性の腹部から下のみを大写しにして12月分のカレンダーにしたもの。ローリング・ストーンズ誌の1月号の付録として配布されるということである。
もちろん反対側の大論争は間逃れない。
テレビなどで女性のイメージの侵害が当たり前のように行われている現在、この写真は単なる女性の「自然のまま」の状態を映し出したにすぎない、というトスカーニや出版編集長の言い分である。
確かに唇を厚くしたり、頬骨を高くする顔面成形をしたり、胸をボール玉をいれたように大きくしたり、自分で良いと思っているのだろうが、見るからに男性受けしようという様相の、女性の尊厳を否定するどころか侮辱しているかのような人工的な芸能人が当たり前のようにTVに出回るイタリアの現在のマスメディア。
そういう女性を良しとする風潮に比べてこの写真はまさに自然そのもの。それを痛烈な皮肉を込めて呈示しているのだろうが、反対側の意見ではこの写真もまるで女性を物体として扱っている、と目くじらを立てている人びともいるようである。配布を阻止しようとする方向が優勢のようだ。

このカレンダーから、即、想起したのは19世紀の写実主義の画家ギュスターブ・クールベの「世界の起源」という絵画である。この女性の腹部の裸体画、当時はかなり衝撃的だっただろう。
この作品は理想化された裸体でなく目の前にあるがままの裸体図である。
裸体とはこういうものであるとまざまざと示したかのように。
通常のエロチシズムではない、日常の風景画のような、当たり前の事実としての裸体という印象を受ける。
女性のあるがままの「自然」を讃える、という意味でトスカーニの写真はクールベの作品の継承であると言える。
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by jamartetrusco | 2011-01-16 00:55 | Arte (芸術)
2011年 01月 11日

Ex3

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フィレンツェのQuartiere 3(第3区)に2009年に開館したコンテンポラリー・アートの展覧会場Ex3
大きな商業センターが隣接して開設されて以来、存在は知ってはいたものの、通っても
開いているのか開いていないかわからないぐらい照明も宣伝もない、ただの建物として目に入る
のみであった。
ところが最近になって娘の買いたいものを訪ねてこの商業施設に買い物に行ったおりに、
隣に寄ってみようと思い(今回もまるで閉館しているように中は暗く人気がない)おそるおそる
扉を押したら開いている。
中に入ってみたら一応受け付けのようなところに女性が退屈そうに一人座っているではないか。
展覧会は見れますか、と聞いてみると展覧会案内のボードを手渡してくれた。
開催されていたのはCharles Averyという若手のスコットランド出のイギリスにて活躍する作家
の作品展である。
作品展というよりひとつのテーマに則ったインスタレーション。架空の島を想定してデッサンから
彫刻からなるIslanderという展覧会。カラフルなデザインを施された人物の頭像やら、兎の剥製やら、
未来都市を描いたような都市設計のデッサンのようなものやら。
作品はひとまず置いてまず驚嘆したのはこの展覧会場の空間の大きさである。天井の高さはかなり
巨大な作品でないと貧相に見えてしまうスケールである。展示室も中心となる大空間から隣接した
小部屋までいくつもあり、かなりの大規模なものだ。
こんなスペースがフィレンツェにあったのか、とびっくり。
町自体がルネッサンスの美術館であるかのようなフィレンツェである。古い美術の保存と展示に
忙しく、現代アートとなるとまるで存在しないかのごとしであるこの町にしてはよくこんな展覧会場
を開設したものであると感心した。
第3区は中心からもやや離れており、住宅街でもあるが、商業活動もある程度活発な地域であるものの、
一体誰が見に来るのだろう。私たちが入った日もたまたま見に来ていた関係者の親戚のような
年配の女性がふたりのみ。がらんとした会場は私たちの独占である。
こんな展覧会場がかの大都市にあればもっともっと人が入るに違いない。
もともとコマーシャルギャラリーの経営者だったセルジョ・トッスィ(Sergio Tossi)が監修者。
スポンサーもたくさんついている。経営するのに必須であろう。

このCharles Averyの作品群の中で一点目を惹いたのはキューブのシンプルな建築空間のような
モデルが中央に設置され、背後から映写機を通して鳥の動きを写し出してそれが架空のスペース
の中を飛ぶというビデオ・インスタレーションだ。説明なしに美しかった。

この会場がこのまま存続していくことを望む。

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by jamartetrusco | 2011-01-11 02:51 | Arte (芸術)
2011年 01月 04日

冬の風景

風景画を無心に描き続けているアレ。
絵画としての美的要素を考えると春夏の風景より秋冬の
風景の方が制作精神を揺すぶられる、と言う。
春夏はどこを見回してもただ緑、緑、色が単調である。
太陽の光が事物を明白に照らすおかげで陰影の機微も少ない。
それに対して、秋冬の風景は色のグラデーションが増す。
常緑樹の緑に加わり、葉が朽ち果てていく茶褐色の木々。
空も様々な色を帯びる。
雲に被われた地に近づきつつあるようなどんより空。
霧や霞に被われて天と地の区別がなくなるような湿った
大気。白い煙る雲。
暗雲の中かすかに赤みを残す夕焼け。
雪の後の風景はまた美しい。白と黒の凛とした厳寒の宇宙。
風景画が抽象性を増すのは冬の風景である。

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四季折り折りに同じ場所を描き続けたモネの画家魂を理解する。
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by jamartetrusco | 2011-01-04 18:58 | Arte di Ale(アレのアート)
2011年 01月 01日

Buon Anno!

謹賀新年
Buon Anno!
Happy New Year!

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by jamartetrusco | 2011-01-01 20:28 | Vita (人生)