2006年 08月 14日
ロンドンに美術留学のため渡った80年代初め、私が最も好きで最もよく通った美術館はナショナル・ギャラリーであった。場所も繁華街のレスタースクウェア、ソーホー街の近くとあって時間が余るたびに入館しては好きな作品の前で時を過ごした。なんとも贅沢で豊かな暇つぶしであった。そのおかげで今では美術館の隅から隅まで知り尽くしている。日本ではあまりなじみのなかった17世紀オランダ絵画に開眼したのもひとえにナショナル・ギャラリーのおかげである。 当時は地上階がメインのコレクションの展示、真ん中付近の階段を地下へ降りると、いわゆるメインではないが時代時代の付属的な作家の作品、また有名作家のあまり知られていない作品、メインから落ちこぼれた質もまちまちの収蔵品を観ることができた。よほどの物好きでなければここまで観る時間はないので、いつもほとんど人がいなかった。今ではこの地下ギャラリー閉まっているようで残念な限りである。 その中で私が必ず目の前に佇んでいた絵がある。オランダ17世紀の風俗、肖像画家のGodfried Schalken ゴッドフリード・シャールキン(1643 - 1706)の15cm x 19cmほどの小品、A Man offering Gold to a Girl (金貨を少女に差し出す男)である。小さいキャンバスに艶やかな油彩に端正に描かれているのは蠟燭の灯火のもとの男と少女の図。二人は一見仲の良いカップルのようにみえるであるが、実は舞台は売春宿。寝台の支柱には愛の象徴であるキューピッドの像が彫られていること、そして男が金貨を差し出していることから、それが読み取れるのである。シャールキンはやはりオランダの風俗画家であるGerhard Douwジェラルド・ダウのもとで学び、その後1692年から97年まで英国へ渡って王室の肖像画家として成功を収め最後は裕福な画家としてハーグにて没。 しかし彼の作品が嗜好家の間で好まれているのは、その蠟燭の灯火の陰影効果を表した小品であろう。英国にて仕事をした時期があったせいで、イギリス国内に幸いにも彼の珠のような輝きのある作品が何点か残っている。そのひとつがこの上記作品である。 その他にも数々のろうそく絵を残している。 ロンドンの小さいながら優れた美術館ウォーレス・コレクション所蔵のGirl Threading a Needle by Candlelight(蠟燭火にて裁縫をする少女)。 スコットランドのナショナル・ギャラリー所蔵のA Boy Blowing on a Firebrand to Light a Charcoal (炭火をつけるために燃え木吹く少年)。 ウェールズ国立美術館所蔵のA Girl at the Window (窓辺の少女)。 また他の国では、ドイツの Schwerin国立美術館所蔵のGirl Eating an Apple(林檎を食べる少女)。 パリ、ルーブル美術館所蔵の「蠟燭に照らされたふたり」。 フィレンツェ。ピッティ宮所蔵の「ろうそくをかかげる少女」 いずれもろうそくの灯火のみに照らされた室内空間と人物を描いた秀作である。 しかし人物のいずれもが口元にたたえる摩訶不思議な微笑みはどこか異様な雰囲気を醸し出すものもある。シャールキンの生涯も詳しいことはわからないから想像のみであるが、富裕な階級の肖像画や宗教大作を描く一方、この蠟燭の陰影の作品は自分自身のために制作したのではないか、と。おそらく誰にも見せずに。「何か」に対するobssession(執拗なるこだわり)があるような気がする。 実際に、このシャールキンのろうそく絵の不気味さに喚起されたかのような1979年BBC制作の70分映画”Schalcken the Painter”「画家シャールキン」が存在する。TV番組オムニバス・アート・シリーズの内である。これは残念ながら観ることができなかったが、機会があれば是非観てみたいものだ。内容はシャールキンが自身の野望のために恋愛関係にあった親方ドウの姪を見捨てたことから起きる悪夢の結末。どうもおどろおどろしい話らしい。 そんな一編の怪奇的話を想像できるような効果を持ったシャールキンの作品である。 追記: 今日このシャールキンの話を書く引き金となったのは常に愛読させて頂いているブログ カイエのlapisさんのやはりろうそく絵で有名なジョルジュ・ラトゥールに関する昨日の記事のおかげです。どうもありがとうございました。
by jamartetrusco
| 2006-08-14 21:34
| Arte (芸術)
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