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2010年 01月 22日
このところ話題をかもしている3D映画のアバター。見ようか見まいかと未だに迷っている。 次世代映画として3Dがこれからますます力を増してくるのは明白であるものの、どこか それに対して抵抗したい自分がある。映画というのはまずは物語の充実、映像の美学、 そして監督の映画制作に対する哲学など、見るにあたって大事な条件がある。 私は映画に対して特に文学的、政治的理念を重視するような、要するに左翼系インテレクチュアルの 批評家が好みそうな映画ばかりを好むわけではない。娯楽映画も大スペクタクルも好きである。 もちろん心に長く残る映画やそういった映画を作る真の芸術家としての映画監督の手腕はおいておや。 タルコフスキー、黒澤、小津、オーソン・ウェルズ、ハーツォック、ヴィスコンティ、ペドロ・アルドモバルなどなど大好きな映画監督である。彼らの作り出す映画は単なる娯楽ではなくひとつの芸術である。さらに芸術作品とまで言えるかわからないが娯楽映画大作としての醍醐味もあり、監督の制作哲学と拘りがある監督として好きなのはティム・バートンやリドリー・スコット、グリエルモ・デル・トロ(この監督はまだまだ作品をみたい)など。 特にリドリー・スコットは名作、秀作、駄作などいろいろ混じりながらもその制作姿勢に感銘する監督である。 彼のディレクターズカットに含まれる制作過程の記録は群を抜いて優れている。映画を作るのがどんなに 楽しいかをまざまざと見せてくれる。もっと若かったら彼の所の美術部にでも弟子入りでもしたいと思ったこともある。彼らの映画は映画魂がある。 さてこの3D。まだ一度も見ていないので3Dの魅力に触れていない一人であるが、どこか胡散臭いものも 感じるこのテクノロジー。要するにますますヴァーチュアルリアリティーの効果に訴え、人間の隠れた想像力を 奪い、目の前に現実とも夢とも思えるような映像世界を作り出すことなのだろう。前作の「タイタニック」の空前の大ヒットから10数年経って今映画伝統を変えるかのようにつきつけられたこの3Dの「アバター」の見え透いたハリウッド商戦に抵抗があるのである。映画が3Dである必要はあるのだろうか? そのうちに現実の空間まで操作するコンピューターグラフィックやソフトが出てくるのではと薄ら寒いものも 感じる。事実、アバターを見た後にその3Dの映像世界の虜となって現実の灰色世界に直面できずに憂鬱症に陥ると言ったアバター症候群みたいな人も出て来ているそうな。信じがたいことだ。 ハリウッドが経済危機にて大きなお金が動きにくなっている今でこそ、こういう力みがある映画を大成功に結びつけたい悪あがきがあるようである。こういう時代であるがこそもっと実のある映画を見たいと思う。 小津安二郎の映画のようなうるさい会話もなく淡々とした日常生活を描写しながら人間や家族のあり方、表裏の奥底を抉るような映画に飢えている。 原点に戻る姿勢、白黒の世界の豊さと厚みを芸術は思い起こす必要があると思う。 ![]()
by jamartetrusco
| 2010-01-22 23:00
| Cinema (映画)
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