2007年 02月 07日
この週末は目の覚めるような快晴の日々が続いた。今年は暖冬であるものの、なかなか外に出て散歩をする時間も気力もなかったのだが、久々に近間の丘を上った。 グレーベからキャンティの山を越えてValdarnoの方面に向かうこと、数キロ、山あいにある小さな集落Lucolena(ルコレーナ)を抜けてさらに行くとCastellacci(カステラッチ)という場所に辿り着く。 ここにワインをリットル売りする農家があるので初めて訪れてみたのだが、もうひとつの目的はこの小さな丘の上にある遺跡の発掘状況を見に行くためである。 キャンティ地方はエトルリア文明の遺跡が埋もれているとされる地域が点在しているが、はっきりとお墓の跡としてすでに公開されているところが2カ所ある。 ひとつはCastellina in Chianti(カステリーナ・イン・キャンティ)の紀元前6〜7世紀の墓跡。古墳状の墓で、入り口が四方にある。最近のレオナルド.ダヴィンチ研究家のCarlo Starnazzi(カルロ・スタルナッツィ)氏の論によるとルーブル美術館蔵のレオナルドによる霊廟草案としての素描がなんとこのカステリーナのエトルリアの墓跡に基づいているらしい。 墓の発見された1507年の冬、レオナルドはちょうど兄弟との遺産相続問題のためフィレンツェを訪れており、その際この墓跡を訪れ念入りにスケッチした、というのである。あいにくこの素描が手元にないのでなんとも言えないのだが、この研究家によれば瓜二つ、そして当時のキャンティの風景を彷彿とさせる背景が描かれているらしい。 もうひとつはSan Casciano(サン・カッシャーノ)市の地域内にあるLa Tomba dell'Arciere(射手の墓) の墓跡。 「射手の墓」との命名はこの墓跡から弓矢などの武器が発見されたことに由来する。紀元前7世紀頃造られた墓であることがわかっている。1978年に農作業をしている際に偶然発見され、ただちに考古学管理局の監督のもとに発掘が始まった。墓の大きさは5、3メートル四方、高さは2メートル。形は古墳状、粘土状の石灰土(alberese)と砂岩(arenaria)の二種類の石質でできている。中からブロンズや陶器の欠片なども発見されたことから裕福な貴族家の墓であると推測された。 アレに言わせるとトスカーナにはあちこちにこのような巨大墓地、ネクロポリスーギリシャ語で「死者の町」を表すーがあり、大体の場合が古墳型の山をなすということ。故にこんもりと丸い古墳の形の丘をみるとその下にエトルリアの墓を想像するわけである。 このカステラッチの丘も例外にもれずまさに古墳型の丘。 またこの丘からは他の遠方の山を一望できるのである。これもその時代の丘の上の中心地同士の連携を表す証拠として重要な要因である。例えばわが町モンテフィオラーレの一地点からフィレンツェ背後のエトルリアの町フィエーゾレが一望できるのである。 この丘の頂上にはいつからかあるのか石積の壁の跡があり、最近の考古学発掘の対象となっている。今見る姿からはどの程度の規模かは想像するのはむずかしいが、確かにしっかりとした城壁の跡のような石垣、石壁の名残りが見て取れる。 栗の木が林立する上り坂を上がって頂上に辿り着くと現れる石積の跡。そしてものによってはかなり大きい。いつのときからか、どっしりとここに座して時を経て来たのか、と恒久的な時の流れと同時に石の不朽な命を感じた。
by jamartetrusco
| 2007-02-07 21:16
| Storia (歴史)
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