2007年 04月 20日
東京の国立近代美術館の工芸館にて「岡部嶺男展ー青磁を極めるー」を観た。 岡部嶺男は「永仁の壷」事件にて一躍脚光を浴びた加藤唐九郎の息子であり、そのスキャンダルとの関わりがあってか、その素晴らしい才能にも関わらずしっかりした回顧展というものが開催されずに過ぎて久しかった。ここのところ八木一夫、加守田章二、富本憲吉の近代名陶芸家の回顧展が相次ぐ中、この岡部嶺男の回顧展も陶芸好きな方には是非一見の価値ある展覧会である。東京の後も名古屋、岐阜、山口、兵庫、茨城と日本各地を巡回する。 「青磁を極める」という副題もついているように展覧会の後半は岡部の青磁作品が占める。 しかし私が感動を受けたのはなんといっても前半の土もの作品である。 荒縄を巻き付けた特製の叩き棒をつかって縄文模様を施した驚く程力強いの壷の数々。 織部、志野の技法を使い荒々しいばかりの壷の肌合い。縄文時代の炎の形をした野性的な 壷の内包するプリミティブで根源的な造型の力強さと同質である。 彼の作品は写真ではまったくその良さがわからない。今までこの作家の作品はおおむね画像でしか観たことがなかったのに加え、まとまった数を見る機会もなかったので、作品の持つ気迫とダイナミズム、そのどっしりとした存在感など全くわからなかった。 実物を前にして驚き、感動した。 焼き物作品にてこれほど土から立ち上がる立体性、ボリュームを持つ作品も少ないのではないか。土でしから表せない必然的形体。 岡部嶺男は陶芸と音楽の共通性を感じていた、という言及に大変興味を持った。 実際制作中は大音響にてクラシック音楽をかけながら、そのリズムにて仕事をしていたという。両者とも形式が意味を持ち、その制約故に具象を越えた深い可能性が秘められている、と言う。 また彼の言葉をそのまま引用すると「絵画的造型性と彫刻的造型性が工芸的制約によって同化されたとき工芸的造型が生まれる」というのである。 「材質そのものが存在の意味をもつところに仕事の出発がある」という彼の制作姿勢。 カタログを読んでいて、どこかアレの近頃の制作姿勢への類似性を感じてしまった。 思うにアレも多分に工芸家的作家であるかもしれない。 彼の仕事はまさに素材との対話がまずある。彼の頭に形が先にあるのか、それとも素材を感じている内におのずと形が生まれてくるのか。 アレの彫刻作品を見る限り岡部の仕事の出発点と似ている。初めに形ありき、ではなく彫っているうちに素材の魂を見いだすのであるから。絵画にしてもしかり。彼の作品が光るときは決まって色彩のマテエールが感じられるときであると思う。だから表現しようとする何かが露骨に 表出してくるときにはあまりにも生々しく映る。 このような素材への感性はアレと日本との交わりの中から出て来たのかもしれない、ともふと思った。 芸術の様々な絡み合い、それぞれの作家の持つ制作哲学など、とても興味がある話題である。
by jamartetrusco
| 2007-04-20 00:10
| Arte (芸術)
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