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トスカーナ 「進行中」 In Corso d'Opera

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2006年 03月 27日

イタリアの食祭り

イタリアではあらゆる地方のあらゆる町で“Sagra di...", "Festa di..."というひとつの
「食」をあつかったお祭りがあります。私の住むトスカーナ地方ではいのししのハムなどをよく食しますが、「いのししのミートソースのかかったひもかわスパゲティ」といった代表的一皿を楽しむ“Sagra delle Pappardelle di Cinghiale"がその一例。その他"Sagra delle Bistecche"(ビーフステーキ祭り)、“Sagra dei Funghi Porcini" (ポルチーニキノコ祭り)などなど。やはり春先や秋頃がもっぱらそんなお祭りの増える時期です。

3月19日はキリストの養父ヨゼフを祝う日、サン・ジュゼッペにちなんで別には父の日でもあります。その頃になるとあちこちでお米のはいった揚げ菓子、Frittelleが登場します。
わが町モンテフィオラーレでは19日前後の土日にこの"Festa delle Frittelle"を催すのが恒例です。直径1メートルはある年期の入った大鍋で揚げるのでその2日間は町中、揚げ物の匂いが充満します。毎日交代で地元の村役員の顔ぶれが揚げるのです。今年の19日、日曜日は小雨の降るあまり芳しくない日でしたが、それでもどこからか大勢の人たちがこの
お菓子を食べに訪れました。

さて昨日は友人とキャンティから30分車で行ったところの小さなな田舎町,サンヴィンチエンツォ・デ・トーレの“Sagra delle Ficattole"に行ってきました。本当のところその近くの"Sagra delle Bombolone"(ドーナツ菓子のようなもの)に行く予定だったのですが、行ってみたらなんと先週の土日だった!、ことがわかりがっかり。全国放送のニュースで食祭りの案内があるのですが、そこで日にちを間違いて紹介したのです。展覧会やイベントを終わっから案内するようなことがままあるお国柄ですから。 Bombolone祭り目指して日曜日の午後くり出た人たちは私たち以外も結構いて、皆、「まぼろし」のBomboloneを捜して右往左往。
運良く隣町でFicattole祭りをやっていたので急遽そちらへ。「今年は例年にない売れ行き?!」と祭り主催者も驚いていたに違いありません。

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 このFicattole、食べるのは実は初めてでしたが、ピッツァの生地を細長く切って揚げたようなもので、それだけのものと、中にハムがはいったものと2種類あって、どちらも揚げたてを食べたらフワフワして全く油っこくなくてなんとも美味しい。
赤ワインとぴったりの味でした。値段も4個入りでたったの1ユーロ。塩気党の私たちは「ボンボローネより良かったね」皆大満足で終わりました。

イタリア人の食への情熱はこのような食祭りの多さにも反映されています。
四季おりおりの食べ物があり、それぞれの町の聖人があり、小さなコミュニティーの中で
食べ物を中心としたお祭りがある、いかにもイタリアらしい一面です。

# by jamartetrusco | 2006-03-27 19:35
2006年 03月 25日

2005年の日本での展覧会

2005年、フィレンツェと京都の姉妹都市40周年記念のイベントが京都にて数多く開催されました。目玉展覧会は京都市美術館にて開催された「フィレンツェー芸術都市の誕生」展です。
その一環として6月、京都のイタリア文化会館にて京都の作家、神道知子さんとアレッサンドロ・ヌティーニ(主人)の2人展が開かれました。招待を受けたのはその前の年の春、それから制作やら準備やらに追われましたが、とにかく無事に夏休みを利用して3ヶ月間、夏の京都に帰っていました。
会館とともにこの企画を手伝ってくださったのは京都にあるMori Yu Galleryとミホ・プロジェクト。京都の民家の中に現代アートの画廊を経営する他、現代イタリア・アートの様々な表現や食文化をダイナミックに日本に紹介する一方、京都からの世界への発信も試まれています。
この展覧会には最近3年あまりの仕事を紹介しました。展覧会のタイトルは「大地と大気」
"Terra e Aria", 彼は「大地」を、神道さんは「大気」を象徴する、という館長さんのアイディアに基づきました。 
彼の最近の関心はトスカーナに古くからある石壁や海岸でひろう小石、石畳、木梁など誰も気に留めないが歴史を内包するような「物」を扱うことです。一つのテーマでシリーズ作品を制作するのが常です。また実際のトスカーナのあちこちから採集し土や砂を混ぜ込んで自らカンバスの色を作りだします。


イタリア文化会館内、アレの作品と神道さんの作品の展示風景

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その後7月、東京のニューオータニホテル内のギャラリー「小さな美術館」にて、8月には京都のHouse of Artにて2回の展覧会開催の機会を与えていただきました。


今年はトスカーナの地元にて展覧会を企画したいと思っています。
またその時はご案内します。



東京展、京都展の作品前のアレ

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# by jamartetrusco | 2006-03-25 20:08 | Arte di Ale(アレのアート)
2006年 03月 24日

グレーベに住むこと、つれづれなる思い

グレーベに住んでいる日本人は私以外は知りません。ドイツが住まいで夏の家をこの地に持っているという日本女性の話は聞いたことはありますが。グレーベには春先から秋深くまでとにかく世界中の観光客が訪れます。ここ数年ブームのアグリトゥリーズモ(agriturismo)や貸し家などへの長期滞在の旅行者から観光バスにて乗りつける観光客まで多々です。グレーベの住人はそのような状況を半分収入源と歓迎する一方あまり喜ばしく思っていないようです。
かなり閉鎖的な性質を持つ小社会で、突然の外国人の浪に当惑しているという感じです。
こんな田舎にも関わらず観光客向けということでフィレンツェ顔負けに何でも高い。いったいどうやって皆暮らしているのかしら。


グレーベの広場
右に見えるのが市庁舎です。 前市長がミトライのブロンズのトルソを市庁舎前に
高額をだして設置したというので賛否両論がありました。
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私たちにしても、当初モンテフィオラーレに住み始めた頃はとにかく、見てすぐ東洋人とわかる私と一緒の主人も外国人と思われ、かなり解き込めにくい感じがしたものです。どの国でも小さい田舎町はそうだと思いますが、住民は祖父母またはそのまた昔から代々そこに住んでいて皆名前で呼ぶ合う仲間。それ以外の人は「よそ者」として警戒されるのが常です。モンテフィオラーレに古くから住む年配の人たちはもしかするとフィレンツェにもほとんど行ったことがないのではという人ばかりです。ですから自由業の主人と二人でいつも行動している私たちカップルはかなり奇異な存在だったでしょう。

そうこうする内に娘のMina(未奈)が生まれました。そうすると今まで外国人と、なんとなく疑い深くしていた人々が突然心を開き始めました。というか、とにかく子供好きのイタリア人なのです。子供がいる、イコール、好きなときに来て帰る外国人ではなくこの地に定着する家族、という認識になるようで、皆の歓迎ぶりには驚きました。今でも私はまだほんとうにこの小家族社会の一員という気はしませんが、少なくとも娘は「カステラーナ」(Castellana)ーこの城塞に生まれた人のことーとして誇って良いようです。

Minaは今では地元の小学校2年生です。19人の小クラスのマスコットのような存在。ちびのせいもあるけれど。日本に行ったりきたりすることが夢のようなグレーベの子供たちにはエキゾチックな風を運んできてくれる希少価値のお友達になっているようです。 



モンテフィオラーレの広場
ここのベンチには夏場は住民の顔が皆集まり、井戸端会議と子供を遊ばせたりする
憩いの場所です。

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城壁内のパラッツォ(Taddei家)
モンテフィオラーレには大きなお屋敷を持つ家族が4家族あり、その中のひとつ。
かれらはお城の当主的な存在で、他にも家や土地を持っている。
彼らの下に借家人たち、家屋敷を守るために働く住民がいるわけです。私たちの大家さんも
その家族のひとつ。    

# by jamartetrusco | 2006-03-24 17:19
2006年 03月 23日

エトルリア魂

アレの作家としての原点は彼の精神のよりどころとなるエトルリア・ルーツのようです。
エトルリア文明は紀元前8世紀から4世紀に興隆したローマ帝国以前の大文明です。現在のトスカーナ、ウンブリア地方がその中心です。最終的にはローマ帝国に併合されてしまいますが、かれらの持つ鉄や建築の技術がローマ帝国の後の繁栄に繋がっているとも言えます。エトルリア人がどこから来たのか未だ解明されていませんが(一説には小アジア、またはロシアの方面など)、独自の文字と宗教を持ち、死後を重んじるエジプトと同じく古墳のような墓や人物を象った棺など残っており、現在でもその神秘性をうかがい知ることができます。


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アレ曰く、このエトルリアのルーツはトスカーナの土地、文化に脈々と生きており、バッカスの神をたたえ、肝臓(fegato)にて運命を占うエトルリアのSacerdote(神坐のようなもの)の根源が自分の中にも感じられるようです。カトリックの教会が建っている場所の下にはそのようなエトルリアの神殿があったというのです。15世紀に開花するフィレンツェのルネッサンス文化もそのようなルーツがあったからこそ、生まれたものだそうです。確かにカトリック精神に被われた中世から、それ以前の太陽神を讃える古代ギリシャの再生を目指したルネサッンスの興隆という背景にはエトルリアの魂が流れているに違いありません。 



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私が初めて会った頃のアレッサンドロの絵画は主にエトルリアを主題としたものが多く、そのほとんどは象徴的な人物像を扱っていました。その後私との出会いにより日本の文化にも触れ日本を何回も訪れることにより、表現言語がかなり変わってきたようです。エトルリアの神秘性が創作の源泉になっていることは今でもかわりませんが、表現がより抽象化してきました。
今では、エトルリア人物そのものを表すのでなく、この土地にいつからか存在する石壁や土、石、砂など目に見えているがそれ自体がかなり「本質的」なものを主題にしています。

「見えるもの」と「見えざるもの」の融合と言えるような表現です。



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# by jamartetrusco | 2006-03-23 19:10 | Arte di Ale(アレのアート)
2006年 03月 21日

キャンティへの移住

モンテフィオラーレに住み始めたのは今から12年前、1994年の1月。 フィレンツェ出身のAleとどこに住むか探していた時、友達がアパートを借りていたことのあるこの地に赴いたのです。その当時も手頃なアパートを探すのは結構大変で、フィレンツェより安いのでは、とこの辺りを考えたわけです。今の大家さんは大屋敷をいくつかにわけて数件アパートとして貸しており、ちょうどその中のひとつが開いており、見せてもらったら眺めのすばらしいテラスがあり、スペースも結構あるので即決。


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なにしろ私たちのニーズは彼がスタジオとして使える空間がないとだめなので、なかなか見合うアパートはむずかしい。もともとワインや食物の貯蔵室であったところ(cantina)を改造して大きなアーチつきの部屋があったので、まさにスタジオ向き!

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もともと葡萄園を持ち、ワインを作っていた大家さん(奥さんの家族がこのあたりの大地主)でしたが、60年代、今ではかんがえられないことですが、キャンティ地方が疲弊し、大地主もブドウ園を手放さざるを得ない時期があったのです。そのころ地所内にある農作業を担当する地元のお百姓さん(contadino)が住んでいた農家や民家が明け渡され、外からの文化人、特に当時はイギリス、ドイツのインテリ階層、アートに関わる人たちがトスカーナ地方の人の手の入っていない素晴らしい自然と土地にしみ入る文化の深さに惹かれて、二束三文でそれらの古い農家を買い取り、改装し、住み着くようになったのです。今のトスカーナブームにつながる源となった当時です。

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# by jamartetrusco | 2006-03-21 19:17 | Paese (土地柄)